俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

【句の詩を読む/第03回】人入って門のこりたる暮春かな 芝 不器男

人入って門のこりたる暮春かな 芝 不器男

大曽根風樹=文

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  山に囲まれた盆地に、静かな村が広がっている。質素だが清潔感のある村の家々の中に、一区画を占める土壁に囲まれた家がある。晩春の、強さを増している陽射しが土壁を照らしているが、門の内部まではとどかない。

その時、陽射しをよぎって門の中に入っていく人がいる。薄暗い内部に、人は溶け込んでいくように消える。そして門が残った。門だけが残った。

 

 門は、入口であり出口である。外部と内部の接点である。しかし、ある時、人が入って門が残った。門だけがクローズアップされ、門だけが意識された。人が門に入った瞬間に、外部と内部が意識から消えて、門だけが残った。夏の濃厚な緑の装いをすでにととのえた村が消え、土壁に囲まれた家の内部も消えた。

 単なる村の風景の一部にすぎなかった門が、たった今、人間が門をくぐったことによって、門の存在感が一気に際立った。

 

 それほどに門の存在感、ゆるぎない存在感を際立たせる力が、この句にある。それは、発見の力にある。門の存在することの発見であり、認識の力であり、言葉による造型の力だ。門の実在。すなわち、そこに隠れている人為の実在であり、人間の実在を形象する力だ。そしていつしか門の実在が、逆に消え去った風景へのなつかしささえ示唆する。

それはまた、誘いへの尽きせぬ魔力にある。読者である私が門の中に入ることを誘う力だ。門の実在の力によって、強い力で私を誘う。それは人間の心にある闇、正と邪の間を常に往復している振り子が邪の側に振られた時に感じる、底知れぬ闇のもつ魔力だ。振り子が振り切ってそこに止まってしまう悪意と、毒の満ちた闇の予感だ。そこに止まることで人格の絆から解放され、ひたすら落ちつづけていく快感への激しい衝動だ。この一句が放つ底知れぬ毒性が私の心に迫る。

 そして、発見した門の存在が放つ強力な悪魔性の扉を、「暮春」という鍵で開け放った無意識世界。そこに見い出すのは、なすすべのないただ空ろな意識で立ちつづけている自分自身の影だ。

 

 すでに黒い緑の木々の鈍重でぶ厚い生命力を隠し用意された空間に、門の外に立つ私がムキ出しの自分の影を発見する。言い知れぬ不安を感じながら、ひたすら立ちつづけ、採集されピンで止められてしまった昆虫の標本のように、もはや動くこともできない。

 自分の影が標本にされてしまったためだろうか、私自身もまた、立ち尽くしている。ただ、私の意識はまだ、かろうじて門の外に立っているようだ。

 

 その時、私は思い出した。私は何かを待っていたのだ。人か、ものか、季節か、時間か、今となっては定かではないが、確かに私は何かを待っていたのだ。もうかなりの時間待ちつづけていたのだ。おそらく、この句は待ちつづけていた間に見た幻想だったのかも知れない。

 

 私は今も、この門の前に立ち尽くし、何かを待っている。待たされつづ

けている。焦燥感に苛まれ、不信感に苛まれながら、待たされつづけている。ふっと、目の前にある門に怒りがよぎった。

 

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