俳句結社 柳橋句楽部

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【句の詩を読む/第02回】霜掃きし箒しばらくして倒る 能村登四郎

霜掃きし箒しばらくして倒る 能村登四郎

大曽根風樹=文

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 冬の朝、或る里山の中腹に広がる寺の境内は、早朝に寺の僧によって掃き清められ、朝日を浴びて明るいたたずまいを見せている。人の気配はない。静けさが境内に満ちている。
 朝露が小さな宝石のように輝く石垣に立てかけられた箒が、その時、そっと倒れた。静けさに満ちていた空気が少しざわめいた。そしてふたたび、静寂がもどった。

 掃き清める作業ののち、立てかけた箒が倒れるまでの時間はどのくらい経っているのか。「しばらく」の語に、時間の微妙な経過が示されている。
それは「しばらくの時間」だけでなく、何かの気配さえただよわせている。
 気配はしだいに濃度を増して、濃密な空気があらわになってくる。空間の質量が少し垣間見えてくる。朝露に濡れたその空間は、しだいにその質量を増して、読者の心の中を満たしてくる。ずっしりと重量を増して、心の中に沈澱してゆく、にび色の空間。ずっしりと重い。このリアル感は、あらかじめ「しばらくして倒る」と限定されていることによって、そして読者もそれを知ったことによって、なお一層のリアル感をもって読者を圧倒する。

 箒が倒れる前の静寂と比べて、倒れたあとにもどった静寂が、少しだけ違っている。何が違うのか。箒が倒れる前の静寂は、何もない、何も動かない、清廉潔白の、清清しい静寂だった。
 箒が倒れたあとにおとづれた静寂は、どうか。ひそかに箒が倒れることによって、一気に境内の空気が動いた。空間が動いた。一瞬ではあるが、世界が動いた。日常生活が、経済が、政治が、文化が、あらゆるものごとが、一瞬動いてずれた。それが「しばらくして倒る」だ。
 それまでは静かに時間だけが流れていた。そこに突然、箒が倒れるという空間の変化が起こることによって、時間の流れが断ち切られ、時間と空間が衝突し交差する。そこに時間の断面があらわになる。その断層面には何も記されていない。しかし、その断層面、二次元の世界に、読者は捕らえられ、身動きできなくなる。

かくして、箒が倒れたあとの空間は、倒れる前の空間と決定的な違いがあらわになる。何が違うのか、どこが変化したのかは定かではない。しかし、違う。ことばに表わすことのできない違い。おそらく、作者がこの一句に疑問のまま込めた『揺らぎ』のようなものを、読者も共有する。
 二次元の断層面に捕らえられた読者は、表現することのできない決定的な違い、その『揺らぎ』のみを感じながら、捕らえられ身動きのできない我が身をみつめるばかりだ。詩人、宗 左近氏はある宇宙物理学者の「無の揺らぎが有を生んだ」という言葉に出会い、「『揺らぐ無』それこそが詩(ポエジー)と思えてならない」と語った。

 風景は、相変わらず見えている。掃き清められ、淡い朝日を浴びている境内のたたずまいは、見えている。朝日を浴びて輝く朝露の、何と美しく、神々しいものか。
 しかし、何かがちがう。読者はいつの間にか言い知れぬ焦燥感に捕われる。不安感といったらいいのか。人は、どのような感情の高まりも、いずれは鎮めることができる。歓びも、怒りも、悲しみも、楽しみも、いずれは解消することができることを知っている。しかしこの、言い知れぬ不安は、何ものによっても鎮めることができない。存在することの不安。風景を見つめながら、自己の存在がむき出しのリアルさで目の前に立ちふさがってくる。しだいに大きくなる。

 二次元の断層面に囚われた読者自身の姿を、今、読者自身が見つめているのだ。見つめつづけている。これから先、ずっと。

 

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