俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第310回句会報告【兼題句/お題「眼鏡」】

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9月19日に行った第309回句会「兼題句」報告です。お題は「眼鏡」。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

晩学の眼鏡と歳時記虫時雨 すみれ

地5点/選者=智、風樹、みみず、苦楽亭、野村

苦楽亭 評

大変な数の俳句人口、老も、若きも、晩学で眼鏡は想像がつくが、句の流れとしては悪くない、季語の選び方も悪くない、ささやかに ウキウキ感が伝わってくる。

風樹 評

「晩学」とあるから歳を経てからの挑戦として俳句を始めたのであろうと推察される。当然眼鏡とは老眼鏡であろうか。老眼鏡と歳時記一冊抱えて虫時雨の中を俳句を求めて歩み始めた。初学の時は歳時記にそって句作をしなさいと誰に言われたのであろうか。俳句はどうもこうした時期と背景から離れられないのかも知れない。出来ればまったく新たな、あなたの個性を発揮すべく新しい世界観を表現していただければとおもうのです。老眼鏡と「クラシック音楽鑑賞辞典」を携えて、だっていいわけなんですよ。この俳句に表現された俳句観は、きっと区役所などで開催された老人向けの俳句教室かなになで求められた状態なのかも知れません。この中から新しい俳句が輝かしくデビューするとはまぁ偏見かも知れませんが、可能性は低いのではないか。ぜひこの世界から出来るだけ速く離れて、ノート一冊抱え、新しいイメージを求めて彷徨っていただきたいとおもうのです。この一句、とても示唆に富んだ一句という意味で1点とさせていただきました。

稚女 評
虫時雨、秋の季語。時雨の如く秋の虫たちのコーラスを浴びながらもしっとりとした静かさが伝わってくる句です。衒いも誇張もなく実景を描いていることの結果と思います。良い風景で心惹かれるのですが選をするに至らなかったのは、常識を破る何かが欲しいと感じたからです。

すみれ 評
今年は猛暑の為、蚊の発生が少なかった。秋の蚊は夏と比べて数も減り弱々しいが、眼鏡を使って蚊の足を数える発想は面白い。細い足を数えることは出来たのか?

十忽 評
晩学、眼鏡、歳時記、虫時雨・・・この四文字以外に使われている語句は「の」と「と」だけ。言葉を並べただけと言う印象が強く、わたしには詩情が感じられませんでした。

鉄平 評
季語は「虫時雨」。ただ状況を説明しているだけなので、作者の言いたい事が伝わってこない。詩を感じられなかった。

智 評
歳が長じてからいざ俳句を学ぼうと眼鏡と歳時記を手にしたところ、多くの虫の音が聞こえてくる。もちろん、その虫の音を詠むのであろう。

野村 評
熱心に学んでいらっしゃる様子が浮かび、背筋がのびる思いです。

 

秋の蚊の足数えたり遠眼鏡 十忽

人4点/選者=稚女、風樹、与太郎、鉄平

苦楽亭 評

兼題は眼鏡なので、遠眼鏡はルール違反

風樹 評

作者は遠眼鏡で身の回りを除いていた。すると、突然視界の中に、攻撃態勢をとって迫る一匹の戦闘機、いや一匹の蚊だ。秋の蚊は、これから寒くなる日に備えて、あるいは子孫を残す準備のために非常に攻撃的になる。血を呑み、血を集め乗り越えて行かなければ成らない。そのための攻撃の態勢なのだ。迫ってくる一匹の蚊の恐ろしい姿。足の数を数えられるほどの近さに迫っている。ひたと見つめる視線を受けて、思わず遠眼鏡から視線をそらせそうになる。蚊の視線と目が合ってしまい、恐ろしさに身震い。そのリアル感、その迫力に共感。こんな視線を体験したととがない。俳句はこのウソが通用するのです。この想像力が通用するのです。このリアル感、この映像が読者と共有する時、俳句のおもしろさ、俳句の世界観が共有される喜びが得られるのですね。

稚女 評
秋の蚊、秋の季語。秋の蚊ゆえ、夏盛りの頃のような勢いがなく何かに体を支えていき続けているので、望遠鏡で足を数えられたりしてしまったのでしょう。この句の面白さ、ユニークさは常識的には意識しない小さな生き物のしかも足の数を望遠鏡を使って数えるという異常行為にあります。ところで足は何本だったのでしょうか?

すみれ 評
無意識に眼鏡を外すことがある。その時に目に入ったのが秋の蝶。秋の蝶は秋に飛んでいる蝶を指すが、ここでは、オレンジ色をした「キタテハ」と捉えた。静かに過ぎていく秋の日を思い浮かべることができた。

鉄平 評
季語は「秋の蚊」。腕にとまった蚊。全く飛ぶ様子を見せない。まじましと蚊を観察する作者。秋のゆっくりとした時間と作者のなにをするでもない、「なんとなく」が感じられる。しかし、下五の遠眼鏡は現実離れし過ぎてやり過ぎた感がある。虫眼鏡や老眼鏡ぐらいでよいのではないか。

智 評
弱っていて動きの遅い秋の蚊。それを遠眼鏡で観察している誰か。その関係性を考えると面白い。

 

我知らず眼鏡外して秋の蝶 智

3点/選者=十忽、みみず、すみれ

苦楽亭 評

我知らずの言葉が気になった、無意識とゆうことだろうが、秋の蝶の発見、驚き、うーん、我知らずか

風樹 評

ものをはっきり見るために思わず眼鏡を外すのは、間もなく老眼鏡が必要になってくる直前の症状かもしれませんよ。ご注意ください。最近都内では蝶の姿を見ることが少なくなって来たような気がします。家の前にわずかな植木が鉢植えされており、芋虫たちがそだっていくので、カミさんはしきりに新鮮な葉っぱを枝にしばりつけて、彼らの食用にしているのですが、いつの間にか小鳥たちがきて、よくそだった芋虫たちをすっかりたべてしまうのです。都内の蝶に育ってほしいと応援しているのですが、野鳥だって必死ですよ。夜などようやく秋の虫たちの大合唱が聞こえるようになりましたが、蝶は圧倒的に少ないようです。そんなことを思い出させてくれる一句です。一読して世界が忍ばれる句ですが、やはり秋というイメージとおりの古い世界を思ってしまいます。あなた自身の秋をぜひさがしていただきたいと思います。

稚女 評
秋の蝶、秋の季語。夏には盛んに命を燃やして飛び回っていた蝶も秋になると姿も飛び方も弱々しくなる。そんな蝶を見かけて思わず眼鏡を外して見入ってしまった……という句意でしょうか?命の終焉を迎えるものの哀れさが「我知らず」では物足りなく感じます。

すみれ 評
無意識に眼鏡を外すことがある。その時に目に入ったのが秋の蝶。秋の蝶は秋に飛んでいる蝶を指すが、ここでは、オレンジ色をした「キタテハ」と捉えた。静かに過ぎていく秋の日を思い浮かべることができた。

十忽 評
秋の蝶が飛んでいるのを見て思わず眼鏡を外して、その蝶の行方を追ってしまったと言う内容が素直に詠みこまれたいい句だと思いました。

鉄平 評
季語は「秋の蝶」。ごめんなさい、意味をくみ取れませんでした。

 

亡き夫の眼鏡義兄(あに)へと秋茜 みみず

1点/選者=すみれ

苦楽亭 評

何故、義兄にルビを振ったたのだろう、ならば夫「おっと」「つま」つまと読ませると思うが、こちらの方がルビ必要だと思う

風樹 評

あぁ人生だなぁとしみじみとした気持ちにさせられました。この気分と秋茜はピッタリで、ピッタリ過ぎて歳時記の例句のような……。この歳時記から切り離せたら俳句がさらに深く豊かなものになっていくのではないでしょうか。作者にとつては、先刻ご承知のことでしたね。あぁ人生だなぁと思うことが多くなりました。生と死をみつめていくと、もっと深く、もっと強く、もっと新しい今の説得力に富んだ句が生まれるのではないか、そんな期待が……。

稚女 評
季語は秋。亡夫が生前愛用し彼のトレードマークのようであった眼鏡だが、目下は亡夫の兄に譲って使ってもらっている。しかし、たまに義兄と会った際にそこに亡夫が立っているようによく似た顔と佇まいに驚いてしまう。秋茜という下五は茜色に染まった空が広がる頃という意味だろうか?

すみれ 評
赤トンボが飛んでいるのを見ると、「秋が来た」と直感的に感じる。ご主人の愛用していた眼鏡を兄へ形見として渡したのでしょう。亡くなってからの日々を思い出したり、懐かしさの募る眼鏡。物悲しい秋の季節と重なり、赤トンボがご主人の魂を運んできたと考えた。季語として秋茜をつかった点がよい。

十忽 評
下五の「秋茜」はアキアカネとした方がいいように思います。いずれにしてもアカトンボのことなので、眼鏡とトンボで、トンボメガネのダジャレかと思ってしまいそう。散文的ではないでしょうか?。

鉄平 評
季語は「秋茜」。景は見えるが類句が多そうだ。オリジナリティがほしい。

智 評
夫を亡くした辛さが、形見を義兄に渡すことを通じて感じられる。秋茜がその寂しさを一層強くする。「亡き夫」という直接的な表現をもう少し工夫できたらよかったと思う。

 

眼鏡取り素顔覗かす星月夜 野村

2点/選者=智、与太郎

苦楽亭 評

眼鏡取り、言葉が適当でないと思う、具体的すぎて、美しくない、下5が星月夜などと美しい言葉だけに、惜しい

風樹 評

おもわず眼鏡を取ってしまう。これも老眼鏡世代の始まりか。その時、どんな星月夜がみえたのか、聴きたかったなぁ。素顔なんか新ためて見たくなんかないので、何が見えたのか、その方が興味が湧くのですね。

稚女 評
星月夜は秋の季語。星月夜のその夜、やっとデイトに応じてくれた秘書課の彼女、バリバリと仕事をこなす有能な女性として車内の男性社員の憧れのマトだ。食事をしてその後、満天の星の月夜のように明るい公園を散歩した。「すごい星だね」の僕の言葉に「本当に」と答えた彼女を見るといつの間にか眼鏡を外していていつものキャリアウーマンから優しい笑みの浮かぶ素顔を見せていて、その顔に心臓を鷲掴みにされた……という句意でしょうか?勝手な解釈をしてしまいましたが中七の「覗かす」が惜しいと思いました。

すみれ 評
満天に輝く星で月夜のような明るい秋の夜。眼鏡をかけると星の明るさで、相手の方の顔(性格)が見えてきたと言う句。内容がはっきり捉えられなかった。

十忽 評
眼鏡を取れば素顔になります。下五に「星月夜」とあるので、俳句になったかのように錯覚しますが、全体としては散文の匂いがぷんぷん。

鉄平 評
季語は「星月夜」。地味な顔立ちだと思っていた人の、眼鏡を取った顔を見てギャップにドキっとした。恋の句だろうか。「素顔覗かす」と説明するのではなく、どんな顔だったのかという結果を描いたほうが作者独自の表現になるし、読者もそれを想像する楽しみが生まれるのではないだろうか。それと「星月夜の素顔ともとれてしまうので、「星月夜」はきっちりと切ったほうが良い気がする。

智 評
「素顔覗かす」のは眼鏡をとった人なのか、星月夜なのかが分かりにくかった。眼鏡をとった時に星月夜に照らされていつもと違う素顔を見た者の驚きを表現していると解釈した。

 

かくれんぼ好きな眼鏡や敬老日 稚女

3点/選者=大橋、十忽、宮原

苦楽亭 評

そう、眼鏡はかくれんぼが大好きなんですよ、句もユーモアがあり、いただきたかったが、4句目だった

風樹 評

敬老の日ということなら当然眼鏡は老眼鏡ということか。この眼鏡をかけて見ると世の中が違ってみえ、まさに世の中とかくれんぼ。どうやらこの作者は老いということに不覚にも今まで気付かず、やっと気付いた時にはすでに老いの中に閉じ込められもはやどうしようもない。かくれんぼをしてもせんないことなのです。でも作者はこの眼鏡を好きだとかんじているのですから、どうもイメージがまとまらない。なにか重要なワードが省略されているような一句と思ってしまうのです。

すみれ 評
今年の敬老の日は9月21日。子どもの頃の思い出をかくれんぼ、好きな眼鏡と表現したのか。季語の敬老日と結べなかった。

十忽 評
かくれんぼが好きな眼鏡ってどんな眼鏡?と思いましたが、これは擬人化ではなくて作者がめがねを探している様子をこのように自虐的に表現したのだということがわかり、素直で愉快な句だと思い、一点。

鉄平 評
季語は「敬老日」。上五「かくれんぼ」で切るか、「かくれんぼ好きな」で切るかで句の内容も微妙に変わってくるが、いずれにしろまだまだ推敲の余地がある気がする。

智 評
擬人化し過ぎている印象だった。「眼鏡」=「目が悪い」=「年寄り」=「敬老日」というつながりもありきたりに感じた。

大橋 評
眼鏡がかくれんぼ。愛らしい句だと思いました。

 

引継ぎのヤクルトレディにメガネ飛ぶ 大橋

1点/選者=鉄平

苦楽亭 評

意味不明、ヤクルトレデイ、ビンタ張られたのかな

風樹 評

手がかりが発見できずに途方にくれています。ヤクルトレディがどうしたのだろう。どうやら引き継ぎで我が家には違う人が届けてくるようになったのか。その人を見て、メガネ飛ぶ。もうわからない。謎解きの一句。降参です。

稚女 評
無季。正直に全く意味を読み取ることができませんでした。下五の「メガネ飛ぶ」が意味を分からなくしているのでしょうが、またこの表現が作者が最も言いたい部分であるとも思いました。

すみれ 評
街で見かけるヤクルトレディの皆さん。新しい方へ引き続いでホットしているヤクルトレディさん。「メガネ飛ぶ」が理解できなかった。「メガネ飛ぶ」とはどう言うことなのか?

十忽 評
詠まれている内容が理解できない。メガネは誰が、何のために、どこから飛ばしたのでしょうか?

鉄平 評
無季の句。上五中七は何か物語が始まりそうな予感があるが、「メガネ飛ぶ」が分からない。いくつか想像はできるが、「メガネ飛ぶ」を比喩として使っているのではないだろうか。この場合の比喩は分かりづらくしているだけで効果的ではない気がする。

智 評
片仮名を多用し過ぎかなと思った。「メガネ飛ぶ」の意味もつかめなかった。

 

手でさぐる眼鏡となくした言葉たち 風樹

8点/選者=めんこ、みみず、苦楽亭、野村、与太郎、宮原②、鉄平

苦楽亭 評

五感が鈍くなると、全ての感覚を少しずつ発揮して探し物が始まります、手もそうだけど、眼も一番困るのは、言葉たち。こいつが、出てこない、喉元まで出ているのに、ゴクリと飲み込んでしまって、もう出てこない

稚女 評
無季。上五の「手で探る」のは眼鏡を手探りしているということで、暗闇の中で見えないのか、体が思うように動かないのか、そしてなくした言葉たちとはかっては自分の中に会った言葉たちが流失してしまったということでしょうか?どちらもネガティブな表現そのものでもう一つ心が動きませんでした。

すみれ 評
眼鏡はどこだろうと手で探るのは分かるが、「なくした言葉たち」をどう捉えたらよいのか迷った。「言葉たち」が気になり、作句意図を読みとることが出来なかった。

十忽 評
意味がよくわかるような気が、最初はしたんですが……なくした言葉たちではぐれてしまいました。

鉄平 評
無季の句。老いの句だろうか。「なくした言葉たち」とまとめてしまったので詩を感じられなかった。作者だけが知っている具体的な失くした言葉を使ったほうが良い気がした。

智 評
「なくした言葉たち」がどんな言葉なのかは興味をそそるが、全体的にやや抽象的すぎる印象だった。

野村 評
どんな言葉をなくしてしまったのか…ぼやけた視界と相まってなんとも言えない心許なさが伝わってきました。

 

四度目の岩波文庫眼鏡かけ 苦楽亭

人4点/選者=十忽、めんこ、稚女、風樹

風樹 評

四度目とあるが、きっと回数を表しているのではなく、愛読書といつた意味合いととらえたい。私にも一冊の大切な愛読書がありますが、あまりにも美しい本なので、メモや添え書きなどの赤ペンで汚してしまうのはもったいなく、同じ本が文庫本が出版されていたので、もっぱらそれの方を思う存分汚しています。ところがあるとき銀行に忘れてしまい、慌ててさがしにいきました。おもえば、さんざん汚してしまった本こそ、大切なものになっていたわけです。でも、この景色は、あまりにも古い感性ではないでしょうか。こういう姿勢でいいのですから、どうかこの世界から出発してもっと自由に彷徨をなさったら、多分、あなたの俳句ノートはどんどん豊かに、厚みをましていくことでしょう。いってらっしゃい、あなたの一人旅へ。そんな応援の気持ちで1点とさせていただきました。

稚女 評
無季。岩波文庫なる固有名詞に惹かれていただいた句ですが、できれば題名を提示した方がインパクトのある句になったのではないだろうか?生涯に4度も読み返そうと思う本に出会えた幸せ、若い頃の感動そして2、3、4回と読むたびに新しい発見や感動に出会えることの喜びを伝えて欲しい。

すみれ 評
四度目とは岩波文庫を4回読んだと言う句か?4回目は眼鏡をかけて読んだから、月日の経過と年令を感じさせてくれる句。ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」を思い出す。作者の心に残る本名を取り上げてもよいのか?

十忽 評
一度目の岩波文庫の時はまだ十代で裸眼だった。二度目、三度目はまだなんとか読めた。しかし、五十代半ばの四度目の時は流石に眼鏡なくしては読むことができなかった。というストーリーが簡潔に句になった佳句。

鉄平 評
無季の句。お気に入りの本というのは何度読んでもワクワクとするものだ。気持ちはよく分かるのだが、詩にする場合には、四度目に四度目たる説得力が無ければいけないと思う。それが感じられない。三度目でも五度目でも通用してしまう。また下五もただ本を読むのに眼鏡をかけたよというだけで、お題があまり生きていない気がする。確かに四度目だよなあと感じさせてほしい。

智 評
四度も読むとは、よっぽど気に入った本なのだろう。本を読むのに眼鏡をかけるというのは当たり前すぎる気がした。

 

めがね越し君を見る目の歪み率 与太郎

3点/選者=めんこ、すみれ、野村

苦楽亭 評

恋の句ではないのだな、歪みか、歪み率という言葉は面白いのだけどちょっと、嫌な句だな、めがね越しとか、歪み率とか

風樹 評

これまではずっと裸眼で君を見てきた。今度新しく作った眼鏡で君を見たら、まったく違う人に見えた。このギャップはまさに目の歪み率か。自分の所為なのに、これでは「君」も立つ瀬がありませんよね。それともまったく逆の現象なのか。僕にはなんだかいまいちよく分からない句でした。

稚女 評
無季。これは時間の残酷さを詠んだ句だろうか? 歪むとは心や行いが正しくなくなったり、ねじ曲がったりすることで、歪む割合が増えてきているのはなぜなのか?君とは誰か? 裸眼ではなく、眼鏡越しに見るとはどういうことなのか? 十分な解釈ができませんでした。

すみれ 評
君を見るの「君」とは彼女のこと、眼鏡越しに彼女を見ている。日常使うことのない「歪み率」という言葉を上手く、句に詠んでいる。歪み率が小さいことを期待。

十忽 評
中七の「君を見る目の」と上五の「めがね越し」の意味が重複していると思います。たとえば、中七は「君の笑顔の」としても意味は伝わったと思うのですが。下五の「歪み率」は面白いと思いました。

鉄平 評
無季の句。恋の句だろうか。なにか詩は感じられそうなのだが、説明的でもったいない気がした。「めがね」「君」「歪み率」で季語があれば充分な気がする。

智 評
「歪み率」という表現は面白いが、俳句というよりは川柳のような感じ。

野村 評
あばたもえくぼ、でしょうか。少し照れてしまいました。

 

脱衣籠銀河見上げし眼鏡かな 鉄平

3点/選者=大橋②、稚女

苦楽亭 評

露天風呂は解るが、句に深みが感じられないのは、景を3つ並べただけだからかな

風樹 評

脱衣籠の中に見に着けていた衣服を脱ぎ捨て、ついには最後に眼鏡をとって脱衣籠に放り投げて、ふと銀河を見上げた。身になにも着けていない自分が銀河と対面する時、銀河はどう見えたのだろう。作者はそれにはふれない。あくまでもヌードの我が身と銀河の対面である。作者があえて自分の姿をヌードにしたのは、銀河そのものも何も見に着けていないことを意識しているのであろう。その対比がこの句のポイントとなる。なんと清々しい銀河であろうか。銀河が何かの象徴でもなく、そんなけちくさいことではなく、銀河そのものが何かを語りかけてくるような、ふと涙さえわいてくるような、純で一途なすばなしい瞬間を感じました。

稚女 評
季語は銀河、秋の季語。銀河、天の川とも言われるが秋は空気が澄んでいて美しい。この句は露天風呂を楽しんでいる作者が空の見える場所にある脱衣籠の一番上に眼鏡を置いて湯船に入って輝く星々を見上げている。実際に愛でているのは作者であるけれど、脱衣籠の中で眼鏡も見上げているという設定が楽しくていただきました。

すみれ 評
山の温泉宿を想像。露天風呂に入り星空を見上げる作者。風呂にはると、視線は空を見つめることが多いが、視点を変えてもよいのではないか?

十忽 評
脱衣籠と銀河を見上げている眼鏡の位置関係が悩ましい。

智 評
脱衣籠においてある眼鏡が天を仰いでまるで眼鏡自体が銀河を見上げているように見える場面だろうか。とすれば脱衣籠があるのは外であるから風呂は露天風呂だろうか。今一つ情景をつかみきれなかった。

大橋 評
夜の温泉でしょうか。旅情が思い浮かぶ素敵な句だと思いました。

 

満月や微笑む艶女の眼鏡跡 めんこ

2点/選者=智、苦楽亭

苦楽亭 評

満月も艶女も丸々としていて、眼鏡ではなく、眼鏡あとと表現したのは、お見事

風樹 評

満月がほほえんでいる。まさに艶女。その艶女は普段は眼鏡をかけているのだが、その時は眼鏡をはずした。その跡がかすかに残って、なんとなまめかしい満月か。満月にほほえみをおくられて、作者はすっかりまいってしまったか。でも読者はちっともまいってこない。満月を艶女とみた点は秀逸。でもすこしありがちなことかな。

稚女 評
満月は秋の季語。秋は月と言われるように澄んだ空に澄んだ美しさを見せてくれる。この句は艶女が眼鏡を外し裸眼になり微笑みながら明月を愛でているという句と解釈しました。五番の素顔覗かすと同じような表現ながら五番では眼鏡をとって素顔を覗かせたのが、女性なのか、誰なのか不明ですがこの句では艶女の登場だ、艶女のイメージはどのようなものなのか分からず、残念ながらビジュアル化できませんでした。

すみれ 評
夜の月が澄んで美しいと言われる満月(今年の十五夜は10月1日)微笑んでいるあでやかな女性の顔に光り輝く満月。満月に照らされて眼鏡の跡がくっきりと見えると言う句。満月・艶女ともに美しい夜を想像。満月の光顔巍々と照りわたり 福田蓼汀

十忽 評
中七の「微笑む艶女」の得体がよくわからない。眼鏡跡とあるからには、きっと年増女に違いないと思えてしまうところが悩ましい。

鉄平 評
季語は「満月」。「満月」「微笑」「艶女」これでもかと恐怖を煽る最近の日本ホラーのごとく付きすぎである。満月、女、眼鏡跡で表現はサラッと、読後感は怖くといきたい。

智 評
妖艶な女性に残る眼鏡の跡。それが満月で照らし出されているところか。満月と艶女と眼鏡との対比がユーモラスかつミステリアスに感じた。