第302回句会報告【自由句】
11月30日に行った第302回句会「自由句」報告です。
- 仰角と方位に迷う冬の夜 十忽
- 病室の窓を額縁天の川 みみず
- 紅葉の魁となり紅葉す 稚女
- いわし雲一匹動くとみな動き 庵々
- 夕時雨方位磁石の指すままに 智
- 車輪錆び始める音冬ざれて 苦楽亭
- 秋寂やおんな鉄板刮ぎおり 鉄平
- 短日や鏡に別の母似顔 奈津
- 流刑地の望む富士の赤きこと めんこ
- 楠や停電と団欒と 与太郎
- 月光にジャングルジムの四角形 すみれ
仰角と方位に迷う冬の夜 十忽
人3点/選者=すみれ、みみず、稚女
苦楽亭 評
解りやすそうで、解らない旬、 星、月、夜空が澄みすぎていると言うことかな、迷うのは、自分、思考?
稚女 評
この季節は夜空が美しい。冬の星座を次々に確かめてどちらに首を回しても感動感動で迷ってしまう…という意味に捉えましたが、その解釈だと「迷う」という表現が適切ではないように思うのですが。
すみれ 評
冬の代表的な星座はオリオン座〔南の方角〕、カシオペア座〔真上の方角〕。冬の夜空の星座を探している様子でしょうか? 星座を探すとき方位は確認して見るが、見上げる角度までは意識していなかった。改めて、星座を探したい。仰角と言う言葉に視線を当てたのが良い。
与太郎 評
白い喉を見せて、ご婦人が空を見上げている。あっちへふらふら、こっちへふらふら。ときに目線を下げ、左右を見渡し、また見上げたり。つられて空を見上げれば、冷たい空気にすんだ星空。気がつくとご婦人だいぶ貼られたところにいる。いったい何を探してるのやら。できれば、ご婦人が何を見ていたのか、何を探していたのかを教えて欲しかったです。行動や過程の説明でなく。
鉄平 評
「迷う」を使わずにもっと仰角と方位で冬の夜を迷わせて欲しかったです。
智 評
寒さの中、高層ビルを見上げているのだろうか。都会生活の中で、自分の居場所が、ひいては自分の存在価値が分からなくなってしまったもの悲しさを感じる。
奈津 評
なぜ迷うのか?「冬の夜」だから迷うの? 迷った理由が知りたいです。
病室の窓を額縁天の川 みみず
2点/選者=智、稚女
苦楽亭 評
窓の額縁か、解りやすい句だが心に引っかかってこないのは、中7の平凡さだと思う。
稚女 評
一読して情景が分かる句だ。作者は病室のベッドの上に横たわって天の川を見上げているのだろう。窓いっぱいの夜空を一枚の絵のように感じたのだ。下五の天の川は秋の季語なので、冬の夜空を描写するなら冬銀河などにするともっと星が瞬き始めないだろうか?
すみれ 評
病室から見える夜空に輝く天の川を見ている作者。天の川を楽しんでいるのだろうか? 下五の「天の川」を冬の空を意識して、「冬銀河」と表現したらどうだろうか。私は「よだかの星」を見てみたい。
与太郎 評
寝ることしかない日々。病室の窓はいつも同じだが、今晩はそこに天の川が見えた。不思議なものだが、メインの絵が変わると、いつもとは違う窓に見える。余談ですが、先日『窓』展に行ってきました。窓を額縁と捉える挑戦は、絵画や写真、立体咲く頻度、さまざまなものがありました。絵画史の一つの分野として確立しそうなほど。そこでは、額縁として捉えた窓の中に何を描き込むのか、あるいは額縁としての窓をどのように描き込むのか、そこに挑戦し続ける作品たちでした。そこには「窓は額縁ですね」と説明するものはひとつもありませんでした(怪しいのもありましたが)。説明や解釈は、創作者の仕事ではなく、解説者やキュレーター、せいぜい鑑賞者のすることだと思うのです。我々は創作者として、作品を生みだすべきだと思うのです。窓が額縁であると説明するのではなく、どう切り取ったのか、その結果どう見えたのかを描いて欲しい。鑑賞者は、そこに作者のいぶきを感じ取りたいのです。
鉄平 評
とても綺麗な天の川を見て、病室の窓を一枚の絵と見立てた作者。きっとこの窓は実際の窓ではなく、早く元気になって外へ出たい作者が、心にイメージした天の川と窓なのでしょう。ただ、切り取った風景を「額縁」と比喩する表現は古臭く感じました。作者の言葉で風景を切りとってほしいです。
智 評
天の川の美しさと、病室の窓枠を額縁とみているユーモア。その美しさとユーモアのなかに、自分を慰めているつらさが感じられた。
奈津 評
病室という閉鎖的な場所と、天の川の広そうなイメージの対象の境である窓を額縁として表現する。気持ちはわかるのですが、中七の窓をの「を」の使い方が不思議で、そこに気持ちが引っ張られてしまい作者の思いを素直に感じ取れませんでした。
紅葉の魁となり紅葉す 稚女
1点/選者=苦楽亭
苦楽亭 評
紅葉の始まり、魁はなんの葉だろう、紅葉の句は読んだが目のつけどころがいいと思う、中7が効いている。
すみれ 評
紅葉〔こうよう〕と読みました。秋、最初に紅葉するのはモミジ。モミジの葉の紅葉がスタートして、じょじょに紅葉していく草木を表現した句。上五の紅葉と下五の紅葉を掛けているのだろう…
与太郎 評
たった一枚のモミジが、赤く染まっている。緑の草原を、敵陣に向かって真っ先に駆けていく、赤い鎧の騎士のように、強い決意で赤くなっている。その意志のようなものは受け取った。しかし、さきがけの比喩がしっくりきませんでした。
鉄平 評
紅葉の最初のひと葉。黄色ががった一枚のそれを見て、作者は一面が真っ赤になった風景を想像したのでしょうね。
智 評
一葉がまず魁として紅葉し、そこから徐々に紅葉が広がっていく情景が浮かんだ。魁となる一葉は、何を魁とするのだろう。
奈津 評
ごめんなさい、全くイメージができませんでした。
いわし雲一匹動くとみな動き 庵々
人3点/選者=奈津②、苦楽亭
苦楽亭 評
海の中で鰯の群れが群れて泳いでいるように、いわし雲も風に乗って流れている、大きな景、ゆったりとした景、句は平凡だが好きだ。
稚女 評
鯖雲、鱗雲、羊雲とも呼ばれ、漁師は大量の兆しとするようだ。確かに魚を数えるには一匹なのだが、それなら動詞は泳ぐにしたらどうか?
すみれ 評
群れで行動する鰯。鰯の群れの動きと空に浮かぶ鰯雲の動きを重ねて表現した句。雲が速く流れている。その様子を「一匹動くとみな動き」と捉えている。
与太郎 評
高い空を覆いつくさんとする鰯雲。その一匹がにわかに動くと、わずかに遅れてみんな動く。一斉に。そら全体が動くように。「鰯雲」自体が慣用的な比喩なので、感動があまり新鮮に感じられませんでした。作者自身の表現を見つけてほしいと思いました。
鉄平 評
絵本のスイミーを彷彿させる、可愛らしい一句。実際の鰯雲は一匹だけが動くことはないので、作者が頭の中で作った句なのでしょう。その辺りが見えてしまってちょっとあざとさを感じてしまいました。中七下五の表現を推敲したら、変わってくるのかなと思いました。
智 評
ユーモラスで優しい句。雲の動きを「動き」という直接的な表現以外で言い表されればよかった。
奈津 評
思わず「あはは」なるほどねと思った。いわし雲を鰯に例えるその勇気。当たり前のことを俳句にする時のユーモアさを見習いたい、勉強になります。
夕時雨方位磁石の指すままに 智
人3点/選者=十忽、めんこ、みみず
苦楽亭 評
中7をどのように読んだらいいのだろう、上5下5と中7が繋がらない。
稚女 評
この句の作者は時雨の中を方位磁石のさすままに向かっていくという表現になっているが夕時雨なる季語との関連性がわからない。
すみれ 評
山登りの道を確認する時に方位磁石を使う。磁石の指し示した方向へ進んで行く登山隊。夕時雨で急いでいる様子が伺える句。※イスラム教の人はメッカの方向を知る為、方位磁石を使う。
十忽 評
山歩きの句として詠みました。山は時雨たり、雨が降ったりするとガスってきて周りの状況がよくわからなかったりします。そんなときは地図で目的地の方位を確認した後、磁石を頼りに進むのですが、そんな状況が素直に読まれたいい句だと思いました。
与太郎 評
突然、冷たく思い雨が降ってきた。軒下に逃げ込もうとしたら、目の前に女が歩いてきた。傘もささず、一心不乱に方位磁石を見つめながら。どうやらその針の刺す方向、つまりひたすら北を目指して歩いているらしい。しかし、そこに強い意志のようなものは感じられない。まるで幽霊のように、ふらふらとあゆみを進めている。何か起きそうな気はするが、思わせぶりで、読者からすると不満が残る。不満しかない、といってもいいかもしれない。
鉄平 評
指した先には何があったのか、指すままにどうしたのか。作者の胸中で、夕時雨はどのような変化をしたのか。気になりました。
奈津 評
「指すままに」から「行く」とか「進む」などと想像はできるのですが作者がどんな気持ちでしたのかを読み取る材料が「夕時雨」からだけでは伝わらなかった。
車輪錆び始める音冬ざれて 苦楽亭
天7点/選者=奈津、智、すみれ②、めんこ、みみず、鉄平
稚女 評
季語の冬ざれは見渡す限り冬の荒れて寂れた感じという。だとするならば、さび始める音よりもサビついたの方がこの季語にふさわしいのではないだろうか?
すみれ 評
季語の使い方が良い。車輪の錆び始める音は聞こえないが作者には聞こえたのであろう。草木も枯れる、人間も錆びる〔老化現象〕。錆びると冬ざれ、寂しい情景が現れている句。
与太郎 評
車輪がひとつ、ある。それほど古くはない。まだ銀の輝きが残っている。しかし耳を澄ますと、内部から錆びていく音が聞こえる。ぷつ、ぷつ、あるいはかさ、かさ、と。まるで内臓から腐っていく魚のようだ。それは草木が枯れて、寒くも淋しい冬のせいなのだ。と、下五の言い訳感が、どうしても納得できないというか、自分の心も醒めていってしまいました。
鉄平 評
作者がこの句で言いたいことは、錆び「始める」でしょう。まだ錆びていない車輪。しかしまさにいま錆び始まり、確かにその音を聞いた作者。車輪は作者の想像かもしれない。実景か想像かをもっとハッキリしてもいいかもしれない。それと下五の冬ざれはつきすぎ。上五中七で冬ざれの事を言っているのだから。
智 評
冬という季節の厳しさが、錆び始める音いう、いわば死をも予感させる言葉によって上手く表現されていると感じた。車輪は輪廻転生もイメージさせる。人はなかなかそこから抜け出せないという悲しみも受け取った。
奈津 評
情景がイメージしやすく好きな句ですが、「車輪錆び始める音」なのか「音冬ざれて」なのか五七五にもなっていないのでさらにわかりにくく、そこがマイナスでした。
秋寂やおんな鉄板刮ぎおり 鉄平
人3点/選者=智、十忽、苦楽亭
苦楽亭 評
宴のあとの寂しさかな。皆が喜んで帰ったあと、後片付けをしている。鉄板を刮いでいる女の心情がこの宴がどうゆう宴だったか。
稚女 評
夏が過ぎ次第に寒さも深まって日も短くなりどことなく寂しさを感じる季節、女が鉄板をこそげているという、頭にうかぶのは、鉄板焼きに使うような料理用のものだ、この句からは秋寂よりももっと女の怨念のようなものを感じるのだが。ということで季語とのミスマッチを感じていただきませんでした。
すみれ 評
寒くなると鍋物や鉄板料理を食べたくなる。お好み焼き店を想像した。去り行く秋を惜しむ思いで食べている女性たちの賑やかなお喋りが聞こえてきそうな句。
十忽 評
鉄板を刮いでいるのが「おんな」であり、しかもひらがなでおんなと表記しているのは、一般家庭の台所で母親が小ぶりの焼肉用の鉄板を刮いでいるのではなく、営業が終わった後のひっそりとした店内で、初老のおんな店主が大きな鉄板を刮いでいる風景だろうと想像される。昔観た新藤兼人の「裸の島」を思い出しました。いい映画のワンシーンを観たようです。
与太郎 評
秋の物寂しい風情の中の出来事である。女が鉄板を削っていた。なぜそんなことをするのか。わからない。秋が淋しいせいだろう。秋が淋しければ、なんでも良いのか。よくわからない。
智 評
秋寂というもの悲しさと、鉄板を刮いでいるという女の怒り、妬み、恨みを思わせる情景とが反発しあって迫ってきた。やっぱり女性は怒らせるものじゃない。
奈津 評
秋の静かなイメージの中の出来事というのはわかるけれど、なぜ「おんな」でなければ ならないのか「おんなってこういうものだから」という先入観を利用する表現方法に納得できない。
短日や鏡に別の母似顔 奈津
人3点/選者=智②、稚女
苦楽亭 評
ある冬の日、ふと鏡を見ると母の顔、髪の毛の色、皺、でもここに母はいない。母に似た顔だ。でも、よくある旬だ。
稚女 評
この句の「別の」をどのように解釈するのか、鏡に写っているのは作者ともうひとり、母に似ている顔の持ち主なのだ、それと季語との関連性が不明、また、動詞もなく解釈できません。
すみれ 評
ショーウインドーの鏡を想像した。自分の映っている後ろに、母に似た顔の人が映っていることに驚いた瞬間の句。ハッと気がついたのでしょう。
与太郎 評
冬の日は短い。鏡を見ると、そこには自分の母親とは違う、別の母親の、そのまた似顔絵が映っていた。なぜかはわからない。日が短いせいだろう。なぜ別の母の似顔は、もう別人ではないだろうか。まあ鏡に映った自分の顔が、母に似ていた、ということを言いたいのだろうが、言い尽くされたテーマだし、手法であると思います。面白みを感じませんでした。
鉄平 評
ふと鏡に映った自分の顔。それは遥か昔、子供の頃に見た、ある日の母の顔にそっくりだった。今まで見たことのない母の顔。その顔を見たのは、その一回こっきりだった。その顔の意味をいまなら分かる。それは絶対に家族には見せてはいけない女の顔。そしていま、私もその顔だった。
智 評
映っているのは、母親に似ている自分の顔なのだろうか。別の、というからには自分とは違う誰かだろうか。うまく情景をとらえられなかったが、何となく幻想的な印象を受けた。
流刑地の望む富士の赤きこと めんこ
2点/選者=与太郎②
苦楽亭 評
この流刑地は流された場所ではなく、例えば入院? 窓からタ富士がえた、と読めば解りやすいのだが、流刑地をどう読めばいいのか解りにくい。
稚女 評
上五、中7のつながりが不明、流刑地から見た富士が赤いのならば流刑地より望むにしてほしい、また、赤きことという表現以外にあかさを強調する方法はないだろうか?
すみれ 評
晩夏から初秋にかけての早朝、富士か赤く染まって見える現象。流刑地は源頼朝や日蓮が流刑された伊豆。罪人が見たであろう赤富士を自分〔作者〕も見たよー、と言う句。
与太郎 評
源頼朝は、伊豆に流されていた。源氏の嫡男という理由で。彼が戦をしたわけでもないのに。頼朝は、朝な夕なに富士を見る。とくに朝日に照らされ、赤く染まった富士に惹かれる。心の奥底に潜んだ、彼の野心を焚きつけるように、赤く染まった富士を。もちろん頼朝のほかにも、様々な時代の、さまざまな人々が、この地に流されてきた。さまざまな罪を着せられた彼らは、赤く染まった富士を眺めながら、いつか都に帰る日を夢みていたのだろう。そして今、私の心のなかの何かが疼く。赤い富士が、何かを焚きつける。
鉄平 評
罪人が流刑地から見た富士山はどんな風に見えたのでしょうか。経験したことがないのでわかりませんが、「赤きこと」では「そうかもしれない」と思えませんでした。
智 評
富士の赤さは流刑地で流された囚人たちの血の色であろうか。静かな中にも戦慄を覚える句。
奈津 評
2番の句と同様に、上五「流刑地の」の「の」の使い方が不思議で、やはりそこに気持ちが引っ張られ、作者の思いを素直に感じ取れませんでした。
楠や停電と団欒と 与太郎
無点
苦楽亭 評
さて上5と停電、団欒とどうつなげればいい? なぜ繊楠なのか。
稚女 評
季語もなく動詞もなく三つの名刺が並んでいる句で謎解きのよう。楠が大嵐で倒れて、電線を切ってしまい、停電になってしまった夜は皆が一部屋に集い、ちいさな明かりを囲んで団欒の夜になったという作品だろう。
すみれ 評
台風を思い出させる句。停電により家族が一つの部屋に集まって過ごすことを団欒と捉えた。上五の「楠」との関係が捉えられなかった。
鉄平 評
詩を感じられませんでした。
智 評
停電して真っ暗闇になっても、団欒できる家族の暖かさ、強いつながりを詠んだのだろうか。楠との取り合わせが、そこにどうつながっていくのかが読み切れなかった。
奈津 評
停電と団欒はイメージできますが、台風19号の大きな被害が出たばかりでどうなんだろう?と感じたのと、楠と停電が繋がりませんでした。
月光にジャングルジムの四角形 すみれ
地4点/選者=十忽、与太郎、稚女、鉄平
苦楽亭 評
なぜ四角形にしてしまったんだろう、ジャングルジムは四角形が多いのに、月光なのだから、下5に工夫があったほうがいい。
稚女 評
無機質なジャングルジムを月光が照らしている、これも動詞のない句。子供たちの賑やかな遊びばも、日が落ちて今は誰もいない公園の中でひっそりと静まり返っている。四角形という形で、ひそやかに月を浴びている。
十忽 評
月の光に照らされて、夜の公園に浮かび上がる四角形。作者の目の付け所がよく、その切り取り方も素晴らしいと思いました。
与太郎 評
月の光に、ジャングルジムが浮かんでいる。黒く影になり、わずかに上端だけが銀に輝いている。しかし不思議と平面的だ。立方体には見えない。四角形に見える。月の光はあらゆるものから、奥行きを失わせてしまうのだ。しかし、似たような句、柳橋句楽部でもいくつか見たような……。
鉄平 評
月に照らされ陰影の濃いジャングルジムは、昼に比べて四角形の輪郭がはっきりと見えます。また人気がないので寂しさや冷たさを感じます。「月光に」が説明ぽく感じました。「や」で切って、なおかつ「ジャングルジムは」としたほうがジャングルジムの形や陰影がより見えてくる気がします。
智 評
公園ではなく、校庭のジャングルジムが目に浮かんだ。誰もいない校庭で月明かりに照らされたジャングルジムの無機質さが、四角形という言葉でうまく表されていると感じた。
奈津 評
すっごくイメージできる。見たこともあるけれど「四角形」で表現してしまったのだろう? ジャングルジムの大体が四角形なので、あれれ?と思ってしまった。