俳句結社 柳橋句楽部

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【句の詩を読む/第04回】産声の途方に暮れていたるなり 池田澄子

産声の途方に暮れていたるなり 池田澄子

大曽根風樹=文

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 産院の分娩室の白いドアが目の前にある。清潔な廊下のベンチには男がひとり、神妙な表情で座っている。その時、突然、白いドアの奥から産声が聞こえる。
 男はそこで、安堵の表情を浮かべるか。いや、ちがう。産声は、元気にその生命力をみなぎらせているか。いや、ちがう。

 

前世の記憶の辛さに、
 これから直面しなければならない人間の業を予感して、
 ひとつの生命の重さを直感して、
 誕生の普遍の重さに耐えかねて、
 父と母の悲しい幸せを思って、
 現世のあまりに過酷でおぞましい空気に触れて、
 無理矢理生み出された理不尽に、
 意味も意義も見当たらない自分の存在に、
 それでもなお、父と母の無惨な悦びに、
 
 途方に暮れているのだ。何ものも癒すことのできない不安を前に。しかし、途方に暮れているのはこの新しい生命だけではない。父と母もまた、生命の誕生とそれを為した自分達の途方もない結果に、途方に暮れている。生まれながらの遺伝子のように確実に持っている、答のない不安を、かろうじて日常の生活で紛らわす知恵、すなわち判断停止という知恵を働かせているのだ。

 

 わずかだが、幸せと思った時もある。
 稀には、生きる悦びを感じた時がある。
 顔を見合わせて、ひそと幸せを分かち合う時がある。

 

 しかし、この産声、この一句は、この悲しい知恵をいっぺんに吹き飛ばし、あの底無しの不安の穴をあらわにするのだ。その時、この小さな生命は何を見ているのだろう。そのつぶらに澄んだ目は、父と母の判断停止という健気な努力の重さを計っているのか。
 
 気が付くと、白いドアの前で産声を聞いている男は、つまり私(読者)自身だ。私自身もまた、小さな生命の誕生に途方に暮れている。血の連繋の重さに、意味と無意味の境を歩いてきた人生に、途方に暮れている。またしても、という感情が怒りとなって白いドアに激しく衝突する。
 その時、分娩室のベッドに横たわる自分自身を発見する。生まれたばかりの、醜く達観し、老成した皺くちゃな顔で産声をあげている自分自身がいる。すでに、母の胎内で体験してしまった人間の一生の辛さに耐えていけと言うのか。産声は、そう訴えている。

 静かで、あくまでも自制の効いたこの一句に、生命を震撼とさせる力を感じるのは、なぜか。どんな策略も戦術も見通してしまう狡猾と冷徹を感じるのは、なぜか。生まれたばかりのつぶらな目に、人間の英知をさえ超越している“ある存在”を感じるのは、なぜか。そして、震えるほどの愛おしさを感じるのは、なぜか。もはや、人は、この産声から決して逃れるすべはない。この産声とともに生きていくだけだ、この子の父と母がそうするように。

 

 

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