俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第305回句会報告【自由句2(3月分)】

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4月18日に行った第305回句会報告。3月句会で発表予定だった兼題句です。

 

木が眠る雪解けの音に耳すませ 風樹

1点/選者=智

苦楽亭 評
眠っているのと音に耳すませに違和感がある。

稚女 評
4月の句会の投句としては、期間も季語もずれているという句。この句で耳を澄ませているのは、眠る木であろう。しかし、実際には木に耳はないし、したがって雪解けの水の音に耳を澄ます行為は作者が冬木の存在を眺めて感じた風景なのだろう。葉を落とした木々は冷気の中でまるで眠っているかのようにしんと立っている。しかし、この水の音の中に微かに春の到来を感じさせる……。下五の表現を変えたい。

すみれ 評
山道や田んぼのあぜ道を歩いていると、枯葉や枯草の下から水の流れる音が聞こえてくる。水の音に心が癒され、春の到来を感じさせてくれる。早春の山里を思い出す「音の春」の句。下五の「耳をすませ」は作者ではなく、「木」だろう。木々も芽吹きの春です。

十忽 評
上五の木が眠る、下五の耳すませの擬人化が成功していないように思います。

与太郎
一本の木が眠っている。あたかも雪解けの音に耳を澄ましているように、じっと静かに眠っている。本当だろうか。それを信じるには、何かが足りない。信じさせて欲しい。擬人化よりも、描写の方が、耳を澄ませている様子が伝わると思います。どのように耳を澄ませていたのか、観察し、伝えて欲しかったです。また擬人化であったとしても、上五は「木『が』」が良いのでしょうか。「は」の方が良い気がします。さらに「音」は不要に感じます。

鉄平 評
春を待つ木々の句。読者が物語を想像する材料は「木」と「雪解けの音(ね)」だけで充分に揃っている。眠らせたり耳をすまさせたりと擬人化が過ぎていて嘘っぽく感じてしまった。

智 評
徐々に春めいてくる自然の姿が擬人化によってうまく表現されていると思った。

 

駐車場とマンションの街彼岸西風 みみず

1点/選者=すみれ

苦楽亭 評
住まざるをえないから住んでいるが、彼岸風しか吹かないか。体がすんなりと、受け入れてくれない。

風樹 評
我が街「東京」。軒並みに高層マンションが乱立し、気が付いてみればマンションも駐車場もみんなコンクリート造り。かつて東京をコンクリートジャングルと表現されたが、何か、どこかが、何かに似ている。墓地である。マンションの乱立は、まさに墓石の乱立にそっくりではないか。だからこそ彼岸西風が吹く。彼岸西風は俗に西方浄土からの風という。このジャングルは、死のイメージでいっぱいだ。とはいえ、東京人は、東京を何と言われようと東京を愛している。他県人が結局は故郷を愛しているように、東京人も具体的に東京を愛している。家の周りには春もかならず毎年訪れ新入うぐいすも数羽で「ホーホケ、ホケ、ホケ」と練習に努めている。この句は残念ながら一面的なとらえ方でしか東京をとらえていないようだ、東京も実はもっともっと複雑で奥が深い。作者の東京は説得力に欠けているのではないか。俳諧の刃のにぶさが目立つ一句となってしまったようだ。

稚女 評
春は風の日が多い、この下五の彼岸西風とは、春の彼岸のころに吹く西風で俗に西方浄土から吹く迎え風という。しかし、この頃どうかするとまだ寒さが残っているという季節感を含む季語。上五、中七、下五のどこにも動詞がなく、この三つの材料から喚起されるものでこの句を評するしかない。東京の街は今やどこも、マンションと駐車場だらけである。そんな無機質な東京の街にも、西方浄土からの迎え風を感じさせる風が吹く季節になったのだという思いを詠まれたのでしょうか?

すみれ 評
家々が建ち並んでいた土地にはマンションが建ち、小さな空き地は駐車場となっている。都会でよく見かける風景。今までは、どんな建物が建っていたのであろうか。人口減少の影響か……。そんな街を春風が包んでくれている句。

十忽 評
都会の風景をピックアップしているのですが、その殺風景さが伝わってこない。読み手の想像に委ねるにはもう一工夫されてもいいかと思いました。

与太郎
駐車場とマンションばかりある住宅街。そんな場所にも彼岸に吹く風はやってくる。人工物の隙間を縫うように。わかるけど、情感に新鮮さを感じませんでした。

鉄平 評
久しぶりに訪れた街。どこもかしこもマンション、駐車場、チェーン店が立ち並び、かつての街並みの面影は微塵もなかった。という具合だろうか。日本の高度成長期はとうの昔に終わり、このような事が言われるようになってすでに何十年も経っている。作者の発見としては乏しく感じた。

智 評
自然とは無縁と思えるような無機質な街にあっても、自然は訪れてくれる。自然の大きさを感じさせた。

 

世の中の喧噪を背に雛飾る 智

地5点/選者=Mr.X③、みみず、十忽

苦楽亭 評
動と静を読みたかったのかな、背か気持ちはわかるのだが。

風樹 評
「雛飾る」とあるから、おそらく七壇に緋毛氈を張りつめた風景の中に男雛女雛を飾って行く様子が浮かぶ。その肩は少女の生きにくい世の中のさまざまな喧噪に両肩をしっかり捕まえられて細かく震えているのかも知れない。雛人形の顔は彼女の哀しみを反映することのない久月あたりの甘すぎる表情をしているのかも知れない。お祭りのひととき、彼女はしばし世の中の喧噪を忘れて陶然とあこがれの世界に遊ぶことができたのだろうか。ところが今ひとつ「世の中の喧噪」ではなにを表現しているのか伝わらない。少女のふともらすまなざしも、ため息も聞こえない。残念なことである。作者はまだ、少女の哀しみが実感されていないのではないか。そのひとかけらでもとらえることができたなら、喧噪などとは言っていられなかったのではないか。せっかく一瞬のドラマチックな風景をイメージしたのに、残念でならない。ここからが俳諧の妙であるのに、突き放して終わりにしていました。ここからなのに。

稚女 評
この喧騒とは世界を恐怖させているコロナウイルスのことでしょうか?あるいは別の思いが作者にはあるのかもしれないけれど。「喧騒を背に」何故しなければいけないのか、「喧騒の中」だからこそ、毎年の行事を変わらずに行おうということの方が心を打つのだが……。

すみれ 評
「世の中の喧騒」とはコロナウイルスの感染拡大のことか?喧騒を気にすることなく、淡々と雛を飾る作者の姿が見えてくる。不安な気持ちが「雛飾る」で落ち着いた気持ちなるのだろう。終息を願う。

十忽 評
中七は世の中のコロナ騒ぎを言っているのだろうか。喧噪を背にというだけで、静かな座敷の中で箱から雛を出して飾りつけをしている様子が良く見えてくる。素直ないい句だと思います。

与太郎
世の中はなにかとかまびすしい。その騒がしさを背に受けて、世間様を代表しておひな様を飾る。何かの象徴のような、巨大なひな飾りなのだろう。「背に」はどちらの意味でしょうか? 「背負って」なのか「背を向けて」なのか。通常、「背に」とだけ使った場合は、「背負って」の意味だと思うのですが。

鉄平 評
雛人形を飾っている最中に聞こえてきた喧噪はどんな声だったのだろうか。いまならコロナやオリンピックの事だろうか。作者が俳句にしようと思わせた喧噪。なぜ勿体ぶって喧噪と一括りにしてしまったのだろう。雛を飾る作者に感情移入できなかった。

Mr.X 評
コロナ騒ぎなどより初節句に夢中な親の心情が表現出来てると思いました。

 

十四五本緩む鉄路もあるんじゃない 与太郎

人4点/選者=苦楽亭、稚女、めんこ、鉄平

苦楽亭 評
怖い句だ、鉄路は緩んじゃいけない、緩むから今みたいになるのだから、警告の句。

風樹 評
十四五本と言えばもう正岡子規の代表作から離れることはではません。もはや十四五本は固有名詞のごとく、あるいは、この言葉のもとでは、どんなに素晴らしい俳句を工夫しても子規の次善、あるいは弟の席を離れることは出来ないこととなりましょう。それでもあえて十四五本を使うならば鶏頭のイメージを乗り越えられるかのためしにすぎない。この句は鉄路にそれを表した。鉄路すなわち線路であろう。果たして本家の十四五本を乗り越えることができただろうか。その疑問ばかりで、句の味わいまでに至らない。作者は「あるんじゃない」という口語でゆるみをしかけた。勝負は?始めからわかっていたことだ。あとは作者に覚悟があるかどうかである。この句、読んでいけばいくほど俳句から遠くなっていく。

稚女 評
さて、鉄路「レール」が緩むってどういうことだろうか?季語も季感を感じさせる言葉もなく判断に迷います。しかも。あるんじゃないなどとどこか投げやりで無責任な表現で。解釈不能ながらどこか、不気味な怖さを感じる句です。

すみれ 評
振動や衝撃などにより線路のボルトは緩む。作者はボルトが緩んだ数を数えたのではなく、予想として、14・5本と表現している。視点がおもしろい。

十忽 評
上五のさす意味がわからない。緩む鉄路は以前に北海道で起きた事故を言っているのだろうか。危険な句だ。が、下五の軽さが内容にそぐわないと思います。

鉄平 評
正岡子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」のオマージュか。上五中七はとてもわくわくさせてくれた。しかし下五が期待外れだった。「あるんじゃない」と聞かれれば、あるのかもしれないし無いのかもしれない、としか言えない。

智 評
春の暖かさで鉄路も緩むということだろうか。十四五本としたのは何かいとがあってのことだろうか。うまく情景がつかめなかった。

 

空の箱ソファの下の青畳 めんこ

3点/選者=みみず、稚女、十忽

苦楽亭 評
からと読まずそらと読んでも面白い、取りたかった句。

風樹 評
或る高層マンションの一室。その一室は空に浮かんでいる。だからソファの下は青畳。あるいは配達されたアマゾンの段ボール箱か引越しのまだがらんどうの部屋かも知れない。イメージはふわりと空に浮かんでも、その先に進まない。なにも浮かばない。作者のせいにすることは出来ないが、何だか謎のまま。読者の私はふと、ことばの冒険ということに行き当たった。ことばそのものはすべて意味か指定の存在を有している。ところが言葉と言葉の組み合わせ、構成が意味を持ってしまう。そうした用法が生きているのかも知れない。アバンギャルドな文学の中に、そうした運動が現れるのも別に不思議な事ではあるまい。意味を表さない、意味を否定する文学------。なんだか新しい芸術の原野の前に立っているようで、今はその場に立ち止まって無言のままにしておこう。ごめんなさい。この先は何も言えません。そういう俳句があっても、いいのではないかというだけを言っておこう。でも、作者は意味も構成も読者のよりそいさえ否定して、一句にいったい何を求めているのだろう。

稚女 評
またまた、謎解きのような俳句だ。初めは「そら」の箱と読んでしまい外の世界と家の中の世界がどのようにつながっているのか様々に解釈を試みた。この句は上五と下五をソファの下なる中七で対比させている作り方をしている、端に異質なものをぶつけて存在の不思議を描いただけなのだろうか?作者の意図がわかりません。

すみれ 評
青畳は夏の季語。表が新しくて青々として見える畳は気持ち良さそう。上五の「空の箱」が気になる。意図的に、「空の箱」を持ってきたのでしょうか?部屋にある「空の箱」に視点をおいた不思議な感じのする句

十忽 評
空の箱はソファの下に置いたままになって忘れられていたのかもしれない。引っ越しをするにあたってソファを移動した時に気がついたのだが、箱の下の畳は置いた時のまま青々としている。空の箱の空がソラとも読めるし、また青畳の青は青空の青を連想させて不思議な感覚にさせる。面白い句です。

与太郎
空中には箱が浮かんでいる。その形はソファの下に残った新品さながらの青畳を写しているかのようだ。「空」は「から?」ですかね。だとしたら意味が違うのですが。「そら」の方が楽しく感じました。

鉄平 評
畳の部屋で、棚やソファをずらすとその部分の畳は青々としている。それは事実として、では空の箱はなんなのか。この句は空の箱がポイントなのだろうが、空の箱がうまく生かされていないように感じた。

智 評
普段は見えない場所が思いがけず鮮やかな色をしているということを発見した驚きが伝わってくる。

 

心とか心愛(みあ)と名付けられ春寒 稚女

無点

苦楽亭 評
こんな腹のたった事件はなかった、春寒で忘れられてゆくんだろうな。

風樹 評
子供が生まれた時は、両親はきっと、心優しい女性に育ってほしいと願って名付けたのであろう。生まれた時はそれはそれは幸せな毎日だったであろう。泣いたといっては心配し、熱が出たといっては心配し、まるで赤ん坊は幸せを運ぶ使者のようであったろう。しかし、母は寝不足が続き次第に不機嫌になり、父はそんな彼女の顔を連日目の当たりにして自分も不機嫌になり、子供の世話に疲れて後悔の念に縛られて行く。そしてやがて新聞種に陥っていく。子育てとはそんな安易なものではないことを思い知る。この「春寒」は単に季節の問題ではあるまい。すでにこの時代をとおり過ぎてきた大人たちである読者には、心に吹雪く春寒であるかも知れない。だがこれは素材であろう。素材である時間を通り越して作品にしてしまった。作品にするのが速すぎたのではないか。じっくりと温めて、発芽を待てば、もっともっと深い世界が見えてきたのではなかったか。結局季語の無駄遣いとなってしまったようだ。

すみれ 評
虐待事件と季語の春寒をつかうことにより、悲しみを深くする。「心にたくさんの愛を持つように……」と名付けられた名前。子どもは未来の宝。子どもの成長を見守る社会であって欲しい。社会に問題を投げかけている句

十忽 評
俳句にはあまり似つかわしくない内容で、詩情にも欠けると思いました。

与太郎
よくわかりませんでした。「名付け『られ』」たのは誰でしょう?

鉄平 評
両親に虐待され亡くなってしまった心愛ちゃんを通して、現代社会において「心」や「愛」のなんと軽いことよ。と下五に「春寒」を用いて作者は嘆き悲しんでいる。しかしこれは誰もがテレビや新聞の報道で知っている情報であり、大多数が共感する悲しさである。まだまだ生温かく、身近な事件を詩にするのはとても難しいこと。17文字一語一語にとても注意が必要であり、よほど作者個人の衝撃、発見の度数が大きいものでなければ詩にしないほうがよいと思った。

智 評
寒さがぶり返した春の日に生まれた子供への名付けだろか。寒さと、新しいいのちの暖かさとがうまく結びついている印象。

 

剪定の音軽やかに木瓜の花 十忽

無点

苦楽亭 評
春らしい句、でもそのまんまで、いただけなかった。

風樹 評
木の上の方から剪定の音がする。清純、清潔な音である。春、今年は例年より少し速く、二月には美しい木瓜の花が青空を背景に咲いているのが見えた。しかし「剪定」も春の季語であり、「木瓜の花」と季重なりであることは、作者の意識的な表現か、不注意かは一応指摘しておかねばなるまい。いつもの散策コースで発見した春の風景とする。美しいひとときである。しかし残念ながら美があさい。ここから検討を加えて最終作品に育てていかねばならない。それが俳句である。思いつきではもういられない。それにしても、他の句ともども、季語のなんと軽く扱われるようになってしまったのか、季語は危険である。おろそかに使うと、底があからさまにばれてしまう。季語について、実はもっともっと研究と美意識の鍛錬が必要なのである。一筋ならではいきませんぞ、おのおの方。
 私の主張が常々、季語不要を主張しているのは、俳諧に敬意をもっているからで、俳句もりっぱな文学であり、芸術たらしめなければと考えているからにほかなりません。つい季語に頼ることだけは避けていかねばならぬのです。

稚女 評
状態も情景もよくわかる句。しかし、当たり前の表現で意表性に欠けていて、いただくところまで心が動かないのは何故なのだろう?

すみれ 評
家の主が混み合っている枝を切る鋏の音が、パチンパチンと聞こえてきそうな句。木瓜は200を超える品種があるそうです。深紅色(緋ぼけ)の花を想像。

与太郎
軽やかに植木に鋏を入れる音とが聞こえる。その庭にはひときわ目立つぼけの花が咲いている。……それ以上のことが、何も響いてきませんでした。

鉄平 評
散歩中の作者。通りかかった庭先から、植木の木瓜の花を剪定する音が聞こえた。作者にはその音が軽やかに聞こえたらしい。作者はなにを持って軽やかに聞こえたのか?そこが詩を作るにあたり、一番大切なのではないか。「音軽やかに」と言わずに音の軽やかさを表現してほしい。

智 評
鮮やかな色をした木瓜の花の中から、剪定ばさみが枝を切る音が響いてくる。色と音をうまく組み合わせてあると感じた。

Mr.X 評
あああ

宮原 評
あああ

 

春の雷ピアノの一音外したり すみれ

天10点/選者=風樹、智、みみず、宮原③、稚女、めんこ、奈津、与太郎

苦楽亭 評
中7下5がありきたり。

風樹 評
昨日、東京に雪が降った。実際は降るスピードが速く、たっぷりと水分をふくんだ、ほとんど霙である。でも、うれしい。これは断じて雪なのだ。雪は東京にとっては何かを黙らせる魅力と力がかる。窓を全開し「あー雪だ!」と笑顔となる。雪国の人々にとってはとんでもないことであろうか。たっぷりと水分を拭くんだ雪は、心のピアノの鍵盤をたたく。が、思わずはずしてしまう一句。心の鍵盤は気持ちよくうたっている。雪の少ない国の人の心ない感想と、おゆるしください。とても嬉しい。なにかうれしい。ひととき雪でおおわれてしまう。こころにうた声が響いてきこえる一句。ありがとう。

稚女 評
夏の雷と違って、春雷はおとなしく雷音も激しくない。しかし、春の宵、静かに演奏を楽しんでいたら急に雷鳴がして、思わず違う音を叩いてしまった。静かではないのだが、音と光の共演が面白い。

十忽 評
突然の雷の音に驚いて、弾いていたピアノの曲をミスタッチしたという句だと思いますが、句の流れがギクシャクしている気がします。内容もありふれていて面白味がない。

与太郎
春の雷はどことなく軽い。そんな軽やかな響きが、練習中のピアノの一音を外させる。演奏者は良い耳を持ち、良く聴きながら演奏しているのだろう。そして影響されやすい、繊細な心を持っているのだろう。良い瞬間を捉えたと思うが、もう少し言葉を選んでもらえると、より「美しさ」が増した気がします。「たり」もこの句の雰囲気には合っていない気がします。

鉄平 評
現実のピアノの音か、または作者の頭の中での出来事なのかもしれかい。全体的につき過ぎな感があり、あとひとつ何か物足りない。下五の「外したり」が説明的なのかもしれない。下五に一考ほしい。

智 評
演奏者の驚きが、その演奏者の指や表情ではなく、「音を外す」という行動でうまく表現されている。

宮原 評
春の雷は激しい音を伴わず、少し遠くで柔らかく鳴るようなイメージだが、それ故か演奏中に鳴った柔らかな雷はそれまで演奏に没入していた奏者の意識にするりと入り込んで指の運びを狂わせた。奏者はそのまま演奏を続けただろうか。それとも止してしまっただろうか。音に関する言葉で構成されているのに静謐さをたたえているところが素晴らしいと思う。

 

三月の吐息や空の洗濯挟み 苦楽亭

地5点/選者=智、めんこ、すみれ、奈津、与太郎

風樹 評
青空が輝いている日は、青空を背景に洗濯物もゆれている。いろんな洗濯物が釣り下げられ、なんだかほほえんでいる。とくに三月に限ったことではないが、なぜか三月の吐息が似合う。選択鋏みを読みながら、目の前には洗濯物のバリエーション、タオル・Tシャツ・下着・ハンカチ----いつの間にか毎日取り込んで、たたんでが仕事になっている。しかし、なぜかこの句、いまひとつビントが合わない。作者の視線が何をとらえているのか、分からない。まだ甘いのか、句意を定めかねているのか。アイデアのまま句にしてしまったのか。

稚女 評
これも謎ときめいた句と感じた。中7の「空」はそらなのか「から」なのか「くう」なのか?今年の三月の吐息といえば、疑いなくウイルス騒ぎと想像してしまうけれど、上五は切字になっている。からの洗濯挟みと続くとしっかりとと止めたいものが止められないという吐息なのかな?謎が解けない。

すみれ 評
「三月の吐息」とはがっかりした時のため息と考えた。「空の洗濯挟み」と言う言葉が気にかかる。洗濯挟みに挟まれている物は何だろう。がっかりした気持ちを解消させてくれる物であって欲しい。言葉や文字……。いろいろ想像を膨らませてくれるスケールの大きい句。

十忽 評
面白い句だと思いました。ただ、上五が安易すぎると思います。空の洗濯挟みがとてもいいのでもったいない。

与太郎
なかなか温かくならない三月。ともすればため息も漏れてしまう。それは花曇りの中空に、あたかも洗濯ばさみのように、感情を留める。どこにも生きようのない思いが、漂いつづけるのだ。

鉄平 評
「三月の吐息」と「空の洗濯挟み」。もとは実態のあるものがどちらも「の」によって抽象化している。このふたつの言葉から、読者が想像を巡らせ、具体的な景色・物語を思い描いてもよいが、しかしどんなに頑張ってもそれは「想像」ではなく、「こじつけ」になってしまう。つまり詩として弱いのだと思う。

智 評
洗濯物を干し終わった後の一息が、空一面に浮かんだような洗濯挟みとともに青空へと溶け込んでゆく情景が浮かんだ。爽やかで穏やかな日常の一場面がうまく表現されていると感じた。

 

種袋絵の満開や臨時休校 鉄平

地5点/選者=風樹、苦楽亭、すみれ、奈津、与太郎

苦楽亭 評
子供達ガッカリしただろうな、満開の花の種を花壇に臨時休校とは、ストーと落とした。

風樹 評
様々な花の種の袋には、その花が開花した状態の美しいカラー写真が印刷されている。いろんな花のいろんな種袋が落ちている。ある学校の休校状態の花壇に見かけた。まるでさまざまな花が開花しているように、種袋の花が咲いて、この花壇は美しい。臨時休校のため、ひっそりと静かな花壇だからよけいに美しさを高く演出しているようだ。まるで咲き始めた都内の名物花見場のひとつのように、見物客のいないがらんとした道。上野の桜並木のように、どこか空しい風景。この静けさはたまたまのことだったのか、いずれこういう静けさはどこにでもひそんでいるものなのか、ほんのわずかのことなのか人の社会の間は深い。この深さの中を風が吹いている。しばらく耳を傾けていると子ども達のざわめきが聞こえてくる。ひたすらこの静かな時間に心が引かれていくのだ。

稚女 評
焦点は下五なのだと思うのだが、情報が多い句で作者の言わんとすることが明確に伝わってこない。満開状態に花が描かれている種袋が播いた地面の上に差し込まれている。しかし、学校は臨時休校でひっそりと静まり返っている……。そのような句意でしょうか?

すみれ 評
種袋の花は何だろう。夏に咲く金魚草、サフィニアを想像。3月、4月は思い出に残る行事が盛りだくさん。休校により、がっかりしている子ども達の心を満開の花の絵が慰めてくれる。開花を楽しみに種を蒔く姿を思い浮かべた。

十忽 評
柳橋句楽部では初めての「種袋」ではないでしょうか。春らしい季語ですね。臨時休校はコロナ休校としてもよかったかなと思いましたが、それでは詩情が消えて生々しいのかもしれませんね。

与太郎
野菜だろうか、花卉だろうか。種の入った袋には、輝かしい近未来が描かれている。この臨時休校の先に、どんな未来が待っているのだろう。

智 評
種袋にある花の絵は満開だが、世の中はウイルス騒ぎで欝々としている。学校も休みとなり、子供たちの元気な声も聞こえない。花の絵の鮮やかさが、逆に寂寥感を更に強く感じさせる。

 

しんとして浅蜊の夢は鍋底に 宮原

3点/選者=風樹、苦楽亭、鉄平

苦楽亭 評
上5と中7、下5がうまくつながっている。どんな夢を見たのか聞いてみたい。

風樹 評
鍋の火は止まり、賑わいもなく、しんと静かな食卓の上。浅蜊鍋の浅蜊たちは鍋底に沈みしんとしている。かつて海の底で生を満喫し希望にもえて思い描いていた数々の夢も出しきった浅蜊の旨みとともに、今は勢いもなくなり、なべの底に沈んでいる。しずかな夕餉のひとときである。ふと耳を澄ましてみる。もしかしたら浅蜊のかつての希望にもえた主張が聞こえるかも知れない。おもわず箸も止まり、深遠な静寂の深みに落ちて行く。この塩気さ、この味わい。まさに美味というべきひととき。前の句(10番の句)は静けさを言わない。その分尊い。ためしに上五を読まずに読んでみて下さい。どうですか、静けさはじんと心の中で染みてくるようではありませんか。

稚女 評
鍋そこで浅蜊は春眠を貪っているのだろうが私たち人間はその眠りを破って夢ごと胃袋を満たしてしまうのだ。罪深いものだ。「アサリの夢」という表現に無理がある夢、イコール眠りだろうか?

すみれ 評
浅蜊と言えば、潮干狩り。静かな暗い場所で活発に活動する浅蜊……。鍋底の浅蜊は、これから、食べられてしまうのか?どんな夢を見るのだろう。知りたい。

十忽 評
情景はよくわかりましたが、中七の「浅蜊の夢」で興がさめました。

与太郎
深夜。あたりは生き物の気配すら感じられない。鍋に並べられたアサリたちの夢は、こぞんで鍋底に静かにたゆたいている。「しんとして」と言わずとも、「しんとした」雰囲気は感じられると思う。

鉄平 評
浅蜊が見ているのは夢の終わりなのか、それとも鍋底にいてなお未来を夢見ているのか。作者はそんな浅蜊のいじらしさを自分にダブらせ、儚く感じている。中七、下五に静寂感があり、そこが要な句なだけに、上五の「しんとして」が説明になってしまっているのがもったいなく感じた。

智 評
浅蜊が煮られてゆく時に見る夢はどのような夢だろうか。「しんとして」という言葉に、静寂な死に際して見る夢の儚さが表れていると感じた。

 

桜もち賞味期限と下っ腹 奈津

無点

苦楽亭 評
下5がわからない。

風樹 評
パッケージに貼ってあるちいさなシール。そこに賞味期限が印されています。生ものですから桜もちの賞味期限は短い。ただ、下っ腹との因果関係がたどれず、とまどっています。思い切り遠い単語で無いところが心配。衝突も爆発もない。だから何も動かない。関係もない。わずかなユーモアがあるが、浅い。人の心理を刺激して、川柳に流れ込んでゆく。川柳をおとしめるのではなく、苦しい笑いの心理も感じられないのだ。どうも残念な気がします。

稚女 評
桜もちは食べたし、お腹の肉は落としたし……。下っ腹を気にする齢ならもう期限切れと承服し思い切り食べたいものは食べるべし。俳句というより川柳と言える作品。でも少し当たり前でそのものずばり。意外性が欲しい。

すみれ 評
春の和菓子と言えば、桜餅か草餅。中年になるとポッコリお腹になってくる。お腹を気にしながら、賞味期限を無視して桜餅を食べている光景であろうか?賞味期限と下っ腹の関係が十分出来なかった。

十忽 評
中七と下五の因果関係がよくわかりませんでした。

与太郎
先日買った桜餅。思いのほか賞味期限が早い。これは早く食べなくては。……というのがデブの元。つい自分の腹を見おろしてしまう。賞味期限を気にして食べ過ぎてしまうと言うことを、きちんと事実と描写で描いている。が、モチーフが類型的。「あるある」ネタになっていて、俳句(詩)というよりは、川柳とか大喜利みたいになってしまっている。もっと感動を!もっと奇跡を!(ささやかで良いので)

鉄平 評
賞味期限が迫っている桜餅。最近太り気味で下っ腹が気になるが、しかし早く食べないと傷んでしまう。という事であろうか。俳句と言うよりは川柳ぽいが、川柳だとしてもウイットを感じられなかった。

智 評
賞味期限が迫った桜もち。もったいないから食べたいけど、下腹も気になるという気持ちがよく分かる。食べたい気持ちと太りたくない気持ちのどちらを選んだのかが気になる。

 

桜餅箱の能書き葉を食うな Mr.X

2点/選者=十忽、鉄平

苦楽亭 評
向島長命時の桜餅は塩味のする葉っぱも一緒に食うんだよ。桜餅の甘さと、葉の塩味加減、たまんないね。

風樹 評
能書きの中で発見した言葉のような気がします。言葉はきっとブラスチックのまがいものなのでしょう。「葉を食うな」の発見にどんな句意を感じればいいのでしょうか。

稚女 評
長命寺の桜もちは3枚の桜の葉で包まれていてこの葉の塩漬けの適度な塩味が美味しさを深めてくれているように思うのだが、「食うな」の能書きを附しているのはどこの桜餅だろう?何故なのだろう?能書きであるならば、宣伝文句のはずだから。しかも桜餅のようなあえかな和菓子の能書に「食うな」はそぐわない。

すみれ 評
桜餅は関東では長命寺、関西では道明寺。正式には「葉をむいて食べること」が推進されている。桜餅は葉っぱで桜の香りをつけている。葉っぱは大島桜。人により食べ方は異なるが、私は葉っぱも一緒に食べている。

十忽 評
この句はどこかで聞いた和菓子屋さんの包装紙に描かれている文言でしょうか?下五の喰うなと言い放ったところが面白いと思いました。

与太郎
桜餅を買った。しかも大層に箱に入っているやつを。よく見ると「くるんでいる葉は食べ物ではありません」と書かれている。なんと事なかれ主義なことか。そんな能書きに、せっかくの春気分も興ざめである。こちらも皮肉というか、批評になっていて、感動が感じられませんでした。

鉄平 評
作者にとって桜餅の味とは、葉も一緒に食べての味なのだろう。しかし購入した桜餅の箱には「葉を食うな」と能書きがあった。春を感じる楽しみのひとつが奪われてしまった。これは作者にとっては由々しき事態であろう。箱に書いてあったことは事実かもしれないが、いまひとつ詩感が弱く感じた。もっと作者の発見を作者の言葉で詩にしてほしい。

智 評
能書きに「葉を食うな」とあるのはなぜだろう。桜餅を作る人でさえ、葉は単なる飾りと考えてしまっているということだろうか。こうして伝統は失われていくという作者の時代への警鐘が込められているように受け止めた。