【句の詩を読む/第01回】嘴と喉そして魂燕の子 寺井谷子
嘴と喉そして魂燕の子 寺井谷子
大曽根風樹=文
まず、嘴が見えてくる。大きく精いっぱいに開かれた、健気な嘴。その嘴の奥に喉がある。何かを叫びつづける喉がある。母燕を呼ぶのか、餌を求めているのか、力の限り叫びつづける。生のほとばしり。ありのままの生、すなわち命。論理も感情もない。歓びも悲哀もない。怒りも楽しみもない。そこにあるのはただ、むき出しの生命があるのみ。すなわち、魂のみ。魂そのもの。
そして、叫びが読者の耳を襲う。何に向かっての叫びか。母燕か。神、仏へか。いや、そうではあるまい。神も仏も、人間のことだけに関心がある。人間のみが、いかに幸せに人生を過ごし、終えることができるかということだけを教える。地球上にある人間以上に膨大な数の生命、動物、昆虫、木や草、花々、とほうもなくある命。命そのものの存在について、神も仏も、語らない。燕の子はそんな人間固有の神や仏に何かを求めていない。
何に向かっての叫びか。叫びはおそらく母燕を超え、森を超え、国を超え、地球を超え、一気に永遠に広がる宇宙の闇に向かって叫んでいる。無限の無に向かって叫んでいる。だからこそ、魂。説明のできないもの。説明の必要のないもの。「もの」であるもの。すなわち、魂。むき出しの、魂そのもの。
この一句にあるのは、大きく嘴を開いて叫ぶ魂があるのみ。それ以外になにもない。そしてしかも、あらゆる命が、ある。動物、昆虫、木や草、花々、人間たち、すべての生命、その命が叫んでいる。
一匹の燕の子が、すべての命の存在と叫びを照らし出している。命とは何かという叫びとなって、あらゆる命の存在を統合する。その時、魂への認識が直感される。魂の存在のみが直感される。一匹の燕の子が限りなく広がり、拡大し、地球を超えて無限に大きくなる。すなわちそれが、魂の存在。魂そのもの。
「嘴と喉」で体言止め、「そして魂」で体言止め、「燕の子」で体言止めされている。一句に三度の体言止めがあり、言葉がぶっきらぼうに投げつけられる。言葉が非常に強い「もの」となって迫ってくる。暴力的な破壊力をもって投げつけられる。いや、投げつけられたのではなく、言葉が鋭利な刃物となって突き刺さるのだ。その時、言葉は魂となる。魂という名の刃が、読者の感性に、認識に、論理に、そして日常の時間に突き刺さってくるのだ。次の瞬間、読者の感性、認識、論理、そして日常の時間すべてが停止される。一瞬の不動、一瞬の沈黙、一瞬の無。読者はこの句の前に立ち止まり、無の世界に突き落とされる。自ら受けた傷に、なぜか心地よい感覚を残しながら。
この感覚は何だろう。魂そのものを感じ、無限の暗闇の中に飛び立ち、魂という名の刃に傷を負いながら、いつの間にか読者自身が一個の魂となって無の世界に放り出された。この心地よさ、この浮遊感。
かつて体験したはずの、自分の誕生にまつわる感覚。母の胎内から旅立った時の開放と恐れ、畏怖と絶望。その時自分は、大きく嘴を開き、赤い喉で叫んでいたはずだ。一個の魂、一匹の燕の子となって。
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