俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第307回句会報告【兼題句/お題「ラジオ」】

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6月20日に行った第307回句会「兼題句」報告です。お題は「ラジオ」。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

ラジオ欄新聞裏表紙からいつ消えた    風樹

無点

苦楽亭 評
「紙」はいらないんじゃないかな。

稚女 評
確かに新聞の裏表紙に掲載されていたラジオ欄はテレビ欄に乗っ取られてしまった。いつからなのだろうか? これは時の流れにおける事実を述べているにとどまりその上、中11を使用したにしては、ポエムの存在を感じられない。

すみれ 評
テレビ欄は見るがラジオ欄はほとんど見ない。ラジオ欄は別のページにあることは、この句を読んで気がついた。視点は良いと思う。中七の」新聞裏表紙から」を短くまとめられたらと思う。

与太郎
時事ネタ+ノスタルジーなのでしょうが、これは俳句ではなく時事批評です。

鉄平 評
消えたことをこの句で初めて知った。昔は野球や深夜放送など、ラジオを聴く機会があったので新聞のいわゆるラテ欄もよく見た。五九五の無季の句。作者は「いつ消えたんだろう」と首を捻っている。作者も普段新聞を読まず、無くなったことをなにかで知ったクチか。中9なので句がゴツゴツとしている。「裏表紙」は無くても意味は通じるだろう。読者が放っておきっぱなし感が否めない。

智 評
問いの内容が単純で、しかも誰に問いかけているのかが見えてこなかった。

 

ラジオからユーミン音量いっぱいに    すみれ

1点/選者=めんこ

苦楽亭 評
ユーミンか。春日八郎、美空ひばりだったな。歴史を感じるラジオは音量いっぱいにしても文句言われなかった。もう一つ引っかかってこないのは、下5の直生さかな。

風樹 評
そうだったよネーあの頃のこと思い出すと胸がキュンとなってくる。あの頃はまだ松任谷由実と言っていたっけ。そういえばこんな話を最近耳にしたっけ。或イベントの時、スタッフ一同に弁当を用意したというんだ。なんと銀座の超有名な寿司店に注文した弁当だったという。スタッフの一人が「こんな有名な寿司店の弁当は初めてだ」。彼女はそれを聴いて「あんた。私を誰だとおもっているの。ユーミンよ」いやー、さすがにすごい話です。でも何だか鼻白む話ですね。いずれにしても、ラジオは我々の郷愁そのものですねー。でもこの一句、胸を熱くする思い出ですが、唯それだけ。思い出をそのままなぞってどうでしょう。俳句と言うまえに、思い出の一筆になってしまって。「ラジオ」という兼題そんなものかなー。

稚女 評
一句目に続き無季の俳句。ユーミンといえば今も活躍しているが、かっては彼女のファションも歌も時代を牽引している感があった。彼女の生き方やファションを真似ることが先端を歩くことと思われていた。この句の作者はユーミンのファンでいつもラジオを全開にして彼女の世界に慕っていたのだろう。その思いは伝わってくるが俳句としては事実を述べたに過ぎず、いただけなかった。

すみれ 評
夏の夜。ラジオを切った瞬間、灯虫が誘蛾灯の電気に触れ落ちていく光景。「ちりり」と言う音から灯虫の死を感じ、無残さを感じる。私の小さい頃、誘蛾灯はお店の天井に取り付けられていた。

与太郎
変わらない時代の象徴がラジオなのでしょうか? もう少し何かがほしいです。

鉄平 評
ラジオから松任谷由美の歌声が流れてきた。作者の好きな曲。思わずボリュームをいっぱいに上げた。すごい音だ。天井や壁が震えている。隣近所から苦情が来た。いくら好きだからと言っても音量をいっぱいに上げてはいけない。俳句も同様。作者だけが気持ちよく、読者はちっとも気持ちよくないのである。

智 評
その場面を述べているだけで、報告句で終わってしまっていると感じた。

 

ラジオ切る灯虫がちりり落ちてゆく    智

地4点/選者=風樹、十忽、与太郎、鉄平

苦楽亭 評
ラジオを切って灯虫か、何で灯虫なのの疑問が残った。

風樹 評
ラジオのスイッチを切ると、「灯虫」がちりりと落ちてゆく。どうやら究極のアナログ人間の幻想か。タンスの上に鎮座された木製のラジオ受信機。当時はみんなありがたがってどこの家の茶の間もみんなそうだった。そしてスイッチを切るとちりり。あぁ、あなたもラジオを愛する世代の方なんですね。思い出しますよ、「紅孔雀」「オラーさんただ」「赤銅鈴乃助」、美空ひばりにバタやんに------ 涙が出るほどなつかしく、僕らはあれらに魂をつくられて育った。その時ラジオは時代の最先端をゆく家電機器、いや魔法の箱でした。そして、確かにラジオは生活のど真ん中を占めていました。あの頃のことを思い出させてくれた一句でした。でも、なぜか思い出は詩になりにくい。思いだけでは俳諧の世界に  入れない。「ちりり」と落ちて行くのは、このあこがれやときめきではなく、魂のきらめききだったのでしょうか。「ちりり」は僕らの青春の魂のぼろぼろと落ちていく景だったのかも知れません。

稚女 評
中七の灯虫はどのように読むのだろう?これは灯りに群がってくる虫のことと解釈しました。上五とそれ以下の表現に関連性はなく電気に群がっていた虫がぷつんとラジオを切った途端にちりりと落ちた……ということだろうか?『落ちた』ではなく『落ちていく』と言う進行形を使って何を表現したかったのかよくわかりませんでした。ラジオを切ったら聞こえてきた何かを表現してもよかったのではないでしょうか?

すみれ 評
ビールを片手に、ラジオを聴いている父親の姿を詠んだ句。ラジオから流れてくるのは「広沢虎造」の浪曲。虎造は昭和時代の浪曲師、「清水次郎長」でも聴いているのだろう。父にとっては至福の時であろうか…。

与太郎
夏の夕の静けさが伝わってきます。上五が少し苦しいですが、まあラジオがお題ということで。

鉄平 評
「灯虫」は夏の季語。灯りに寄ってくる虫の総称。時期的には少し早いか。現代のクーラー完備に閉め切った窓の家屋ではなかなかお目にかかれないだろう。どうしても四畳半一間のアパートを連想してしまう。昔を思い出すような切なさを感じる風景だ。しかしそれはすでに知っている感覚。きっと小説や映画なんかでも目にしたことのある風景だ。作者が発見した新しい風景を見せてほしい。推敲次第で「現代」の句に化けそうな句ではあったのでいただいた。

 

ビール持つ父とラジオと虎造と    稚女

2点/選者=十忽、すみれ

苦楽亭 評
この景はあった。虎造時代にビールか、いい時代だった。

風樹 評
広澤虎造の浪花節は夜の父親の青春歌でしたね。だからといって、こう並べられては散文以外の何者でもなくなってしまう。丸いちゃぶ台のむこうにどかっとあぐらをかいてビールを握っている父は、その時なにを見ていたのだろう。父の前に座っていた子供のあなたに何が見えていたのか、見えていなかったのか、どうやらそのあたりが俳句ではなかったでしょうか。

すみれ 評
ビールを片手に、ラジオを聴いている父親の姿を詠んだ句。ラジオから流れてくるのは「広沢虎造」の浪曲。虎造は昭和時代の浪曲師、「清水次郎長」でも聴いているのだろう。父にとっては至福の時であろうか……。

与太郎
ラジオはどうしてもノスタルジーの象徴なのでしょう。かといってそれを並べられても困ってしまいます。

鉄平 評
虎造は最初タイガースファンの愛称かと思ったが、ググッてみたら「広沢虎造」という浪曲師を検索した。「父、ビール、ラジオ、野球」も「父、ビール、ラジオ、浪曲」も昭和のある時代を表す代名詞であり、幼少期を想う作者のノスタルジーなのだろう。しかしその代名詞をただ並べただけで詩になりうるのだろうか。作者の父はどんな父だったのだろうか? ビール瓶をマイク代わりにしていたか? 青筋を立て口をとがらせ歌っていたか? 作者だけが知る、あの日の光景が伝わってこない。

智 評
虎造とは、浪曲師の広沢虎造のことだろうか。父の日の一場面を思わせるが、「と」で単純につなげ過ぎたのか、情景がばらけてしまっている印象。

 

戦闘機空に輪を描きラジオ鳴る    与太郎

無点

苦楽亭 評
この句は前回のオリンピックの時の句だ戦闘機が、そうではあるが上5、戦争中だと思ってしまった。

風樹 評
本当にみたのでしょうか。戦闘機が空に輪を描いているのを。本当に見たのでしょうか。B-29があたまの上に飛んできたら。戦争中のトーキョーの空に何が見えたのでしょうか。戦争をどう読めば俳句になるのでしょうか。ただ、この時代、この世にとんと存在している。それしか実は分からない。すでに廊下の奥に密かに佇んで居るのかも知れません。そう考えざるをえないのです。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」白泉句集より

稚女 評
戦後一番の娯楽はラジオだった。貧しい夕飯の後は家族全員体を寄せ合ってラジオに聞き入ったものだった。しかしそのラジオでさえ手に入れることができない人々もいた。現在のように娯楽の多様性はなく、何もないことが決して不幸なことではなかったように今から振り返ると思える。上五の種明かしのような中七に工夫が欲しい。

すみれ 評
戦争の場面を思い出す。上空を旋回する戦闘機とラジオからの音声に耳をそばだてて聴いている人たちの緊張感と恐怖感が伝わる。

鉄平 評
5月29日、政府はコロナウイルスに対応する医療従事者への感謝を名目に、東京上空に戦闘機を飛ばした。感謝の意を戦闘機を使って表明することに世間の声は様々あるが、掲句はイエスともノーとも言っておらず、ただ写生句として事実を述べている。もしノーと言っているとしたら、淡泊な中に怖さが見えてくる気もしなくもないが、いずれにしろイエスでもノーでもこの17文字から読み取るのは読者の勝手な想像の飛躍になってしまうだろう。作者の気持ちが垣間見られる何かがほしかった。また「戦闘機」は「ブルーインパルス」のほうが良かったのではないだろうか。例えば「ブルーインパルス輪を描きラジオ鳴る」ではどうだろうか。

智 評
都内を飛んだブルーインパルスを詠んだのだろうか。飛行機は空を飛ぶものだし、「空」と描写しなくてもいいのではないか。ラジオが「鳴る」という表現は面白いと思った。

 

子ら消えてラジオの時間茜空    苦楽亭

地4点/選者=風樹、智、十忽、鉄平

風樹 評
「子ら消えて」……そうか、当時子どもだった、自分につきあたった。「子ら消えて」……そうか、消えて行くのはこの世代の大人たちなのだ、ちょうど今頃、この世から消えて行く頃合いになっていたのだ。この世代の人たちはいったいなにをしてきたのか。この世からどんどん消えて行く頃になって、思い至る。世の中をいじくりまわして、片っ端から捨ててきて、汚し続けて、捨ててきて、さて、空は茜色。この句の狙いは僕らにむけて、定められたのだ。何だか、こんな人生論をのべる俳句ではなかったはずなのだが。

稚女 評
戦後一番の娯楽はラジオだった。貧しい夕飯の後は家族全員体を寄せ合ってラジオに聞き入ったものだった。しかしそのラジオでさえ手に入れることができない人々もいた。現在のように娯楽の多様性はなく、何もないことが決して不幸なことではなかったように今から振り返ると思える。上五の種明かしのような中七に工夫が欲しい。

すみれ 評
「子ら消えて」は、夕方家に帰った子どもたちの事でしょうか?「消えて」ではなくて、他の言葉でも良いのかな?テレビのなかった時代、夕方はラジオを聴くのが楽しみだった。
私にとり、一番の思い出は「赤胴鈴之助」。今でも懐かしい番組です。

与太郎
これもノスタルジーのような気がします。それに茜空を合わせられると、もっと困ってしまいます。

鉄平 評
かつての子供は「思い出」という茜空消え、新しいラジオの時間がやってくる。それは「時代」を象徴しているのだろう。

智 評
子供たちの喧噪が消え、何となくもの悲しい時間となったが、そこにラジオから流れる美しい音色が聞こえ、茜色の空に溶け込んでいく情景が浮かんだ。寂しさの中に美しさがうまく表現されていると思った。

 

五月雨に滲むラジオの流行歌    宮原

人3点/選者=智、苦楽亭、めんこ

苦楽亭 評
五月雨に滲むなんていいな、ラジオはそう言うものです。ラジオには流行歌がぴったりです。

風樹 評
滲んでいるのはラジオから流れてくる流行歌。涙ににじんでいるのか、思い出に滲んでてるのか。なんだかセンチメンタルな修飾語のようだ。滲むと表現するとなんでもしっとりしてくる。ちょうど五月雨にもピッタリだことさら「滲む」という言葉にこだわってしまうのは、ひどくイージーな気がしたからだ。俳句ならばどのように滲んで見えるのか、この「どのように」が大切で読者にイメージを伝え易い。この「どのように」が工夫のしどころとなる。ここに注意していくと、俳句がより深くおもみを益す、うーんとうならせて欲しいところです。

稚女 評
滲むという動詞は「血が滲む」「涙が滲む」などという使い方があるけれど、この句の場合五月雨に滲むと表現されている、確かに梅雨は何日も降り続き、気持ちが塞いでしまうような長雨でもある。それではこの下五の流行歌とは具体的にどんな歌なのだろう。演歌もあるし明るい元気の出るものもあるし、ここは曲名で表現して欲しかった。五月雨に滲んでいることを納得できるような……。

すみれ 評
雨の降る中を流れる流行歌。懐かしの昭和メロディ……。どんな曲が流れているのか?下五は「曲名」でも「歌手名」でも良いと思う。朝の連続テレビ小説「エール」と重なる。

与太郎
流行歌って……。五月雨と滲むとラジオと流行歌……。べったりとくっつきすぎていますね。

鉄平 評
ラジオから流行歌が流れている。外は五月雨が降っていて、それによって流行歌が滲んで聞こえたという。もし本当ならば驚くべき作者の発見だが、一体どんな曲かかっていたのだろう。最近の流行歌はよく知らないが、あいみょんとか髭男とかだろうか。残念ながらそれを知るのは作者だけで、確かに滲んでいるなあという共感は得られなかった。

智 評
子供たちの喧噪が消え、何となくもの悲しい時間となったが、そこにラジオから流れる美しい音色が聞こえ、茜色の空に溶け込んでいく情景が浮かんだ。寂しさの中に美しさがうまく表現されていると思った。

 

つけっぱなしのラジオ踊る心太    十忽

天8点/選者=稚女②、宮原②、苦楽亭、与太郎、すみれ、鉄平

苦楽亭 評
面白い句だ、想像するとおかしい、ありそうな感じがするもの。

風樹 評
そうか、ラジオは踊るのか。だがこの句の謎は「心太」にある。この句とところてんとにどんな関係があるのか、発生しているのか。どうしてもわからない。ところてん、どーも季語がつながらない。とはいえ、爆発も新しい世界の開幕もない。てがかりも発見できませんでした。と、つぶやくばかりです。

稚女 評
この句はラジオの時代をしっかりと想像させる一句であった。唯一の娯楽であったラジオはどこの家でもかなり大きくつけていて、あの頃は野球も相撲もラジオで聞いてしっかり映像を頭に浮かべて楽しんでいた。歌しかり、浪曲、落語、、、しかり。横丁の甘いものやさん、いつもラジオがついていて注文するとおじさんは耳はラジオの野球に預けたまま心太つきでひとつきし「あいよ~」と出してくれる。踊る心太が痛快!

すみれ 評
ラジオをつけたまま、仕事をしている。側に置いてある夏の庶民の味、心太。「心太」は踊りはしないが、ちょっとした揺れが踊るように作者は感じたのであろう。踊らせたのはラジオの電波?おもしろい句。

与太郎
なんとなく、字面から心も躍りそうで、愉快でした。ノスタルジーからは抜けられませんが、まあぎりぎり。

鉄平 評
誰が聞くでもなくつけっぱなしにされたラジオ。そのかたわらで心太が踊っているという。つけっぱなしだから踊っているというのだ。もし本当なら驚くべき作者の発見だが、なぜつけっぱなしだと心太が踊るのだろう。残念ながらそれを知るのは作者だけで、確かに踊っているなあという共感は得られなかった。推敲次第で化けそうな句ではあったのでいただいた。

智 評
「踊る心太」というのは、なかなか箸ですくえない状態を表しているだろうか。擬人化としても、ありふれた感じを受ける。

宮原 評
この句に出てくる人物は心太に夢中で「つけっぱなし」のラジオが耳に入ってこないようだ。ところが心太の方はラジオから流れてくる曲のリズムに合わせてスウィングを踊るようにツユをきらめかせ、体をくねらせながら口の中へ踊りこんでいく。メタな視点から見たその対比が面白いと思った。

 

雷鳴がラジオの波を止め光る    みみず

2点/選者=与太郎、めんこ

苦楽亭 評
ゴロゴロ様の電源はラジオの電波とは知らなかった。雷様が電波をいっぱい食べて太っている俳句はそのままの句だが、読み方によって面白くなる句。

風樹 評
この句のポイントは「ラジオの波」にあるようだ。ラジオの波は音波かため息か。止められながらも光輝いているのだ。そのように見えたというのだろうか。ゴロゴロドカーンとさわいでいるのは、雷鳴か、ラジオの波か。ゴロゴロドカーンがラジオの波を止めたなら、ラジオが壊れてしまったのか、調整し直せばいいのか。とにかく、ゴロゴロトカーン。

稚女 評
ラジオの波とは何だろう?ラジオの周波数でしょう?

すみれ 評
一瞬の雷鳴がラジオの電波を止めてしまった。 雷鳴の大きさを感じる。

与太郎
雷のせいでラジオの音声が一瞬途切れる。それを「波を止め」と表現したのは新しい発見です。若干「電波」という「知識」にひっぱられている気もしますが。

鉄平 評
「ラジオの波」とはなんだろうか。電波のことだろうか。それならば素直に「ラジオ電波」というだろう。ラジオから流れる波音だろうか。雷がゴロゴロと鳴るとラジオから流れる波の音が止まった。そして雷鳴が光った。雷鳴は光らない。光るのは雷だ。わからない。景が浮かばない。

智 評
「雷鳴」と「光る」が重なってしまっている感じがする。「光る」を何かほかの言葉で表現できたらよかったと思う。

 

星多し途切れるラジオうねる道    めんこ

2点/選者=智、すみれ

苦楽亭 評
山道をうねってバウンドしてラジオの音声が途切れる。それとも電波の届かないところで途切れるラジオ。わかるけど引っかかった。

風樹 評
満天の星空。なぜか途切れ途切れのラジオ番組。そしてうねる道。ドライブで夜になってしまった。高速道路はどこまでもつづく。以上、三題噺。そんな夜は、次の道の駅に入って、一休みしたらどうですか。

稚女 評
「星多し」の上五は残念ながら却って星が見えない、夏の星の季語なら「夏星」とか「星涼し」があるがこの句は中七には途切れるがあり、下五はうねるなる表現があるので、決して明るい句ではなさそうだ。あるいはラジオの電波も届かないうねる山道を運転しているのだろうか?状況が把握できませんでした。

すみれ 評
ラジオを聴きながら登山中の句なのか? 夜の山小屋の風景を思い浮かべた。途切れがちなラジオを聴き、下を見ると曲がりくねった登山道が見える。山小屋で眺める星は涼気ひとしお。季語の「星涼し」はどうでしょうか? 空と地上の対比。

与太郎
ラジオというと、辺境で途切れるというお決まりのネタですね。新たな発見がありませんでした。

鉄平 評
上、中、下がぶつぶつと切れているせいか、ひとつひとつは具体的だが、3つがつながっているようでつながらない。作者は上、中、下のなにを強調したかったのだろうか。もう少し言いたい事だけに焦点を絞ったほうがよいのではないか。また「星多し」や「うねる道」を表す便利で美しい日本語があるはずなので探す努力をしてほしい。

智 評
灯の全くない山道を走っている車のカーステレオからラジオが流れてきているのだろう。電波が届かずに途切れるラジオからは不安な気持ちが伝わってくる。また、「うねる道」からもどこへ向かっているのか分からない不安感が伝わってくる。その不安を瞬く多くの星々が中和してくれている印象を受けた。

 

夏葱刻めば感染者数告ぐラジオ    鉄平

地4点/選者=風樹、稚女、宮原、苦楽亭

苦楽亭 評
ごく普通の日常、可もなく不可はあるのだけれど静か。ただ葱にしないで夏葱にしたのがいい。放送で人数が発表された瞬間、日常が非日常に変わる怖さ。

風樹 評
食材の季語をお題にしている一句。ある野菜の頭に「夏」をつければおのずと夏の季語になるが、夏葱とは別名「刈り葱」という。丈は短く細くてやわらかい。晩冬から初夏にかけて若葉を数度にわたって刈り取ることができるネギのこと、とか。とにかく夏葱を刻んでいるとラジオから、コロナの今日の感染者数が告げられているという状況。この句はこの一年だけに新鮮な味を出した句ではあるが、おそらく2020年は世界史に残る年になるであろうメモリアルな一句となる。しかし、残念ながらしごく平静である。危機意識が感じられない。つまりごく日常生活の中にこの危機が埋没されてしまっている。つまりは何よりも日常生活が強いのだ。どんな歴史の時にも、日常生活はあった。これ以上確かなことはない。たとえ感染者数がラジオからつげられても、そんなことで日常生活がゆらぐことはない。おそらくこの強さは死よりも……。

稚女 評
毎夕、その日の感染者数が発表にされ一喜一憂する。春浅い3月から始まり季節は夏、正体のはっきりしない相手との戦いに世界中の人々が疲労困憊している。それでも人間は食べなければならない、さて今夜はさっぱりと蕎麦でもたぐりますか。上五と中七下五の取り合わせの意外さが面白い。

すみれ 評
薬味につかう葱を刻んでいる時、感染者数を告げるラジオ。毎日、関心を持って聴く作者。「めば」が気になった。

与太郎
時事ネタでしょうが、ストレートすぎて「詩」を感じませんでした。

智 評
「刻めば」と、「ば」で次につなげるよりは、いったん切ってしまった方がすっきりとするのではないかと感じた。

宮原 評
ざくざくと葱を刻む音の合間にふと耳に入った今日の感染者数に手が止まる。世界規模で人類をパニックに陥れた未知のウイルスはいつの間にかすぐ側にあるものとして日常の中に入り込んでいる。葱という日常的に使う食材がそのことを一層際立たせている。