俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第305回句会報告【自由句1(2月分)】

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4月18日に行った第305回句会報告です。コロナの影響で2月、3月句会ともお休みで、まだまだ自宅待機が長引きそうなので4月は初のビデオチャット句会を試みました。また今回はゲスト2名(宮原くん、Mr.X)が参加しました。2ヶ月分といつもより多めの選句でしたが、久しぶりに顔を合わせることができました。まずは自由句1(2月分)から。

 

 

イカーをマシュマロにする雪の朝 すみれ

地6点/選者=苦楽亭、稚女、奈津、風樹、Mr.X②

苦楽亭 評
そんなに嬉しい状態ではないだろうが。マシュマロか、当たり前の景だが、さてどうするとゆう困惑の様がいい。

稚女 評
雪の朝、さあ、出勤だ~と庭先に止めてあったマイカーの所に行くとなんと車はどこへやら、巨大マシュマロがあるではないか。これは食べ出があるぞと瞬間、喜んだのだ。硬い金属製品の車が柔らかな天からの挨拶で覆われ朝の光の中で輝いている光景は面白い。この句の順序を変えて「マシュマロになりしマイカー雪の朝」にするとマイカーのおどけぶりが楽しい。

与太郎
自分の車をフワフワで丸いマシュマロにしてしまったやつがいる。その犯人は雪の朝だ。光景も目に浮かぶし、実感伝わってくる。しかしいまひとつ、世界に引き込まれない。その原因は三つ考えられる。上五の「マイカー」の言葉づかい、中七の「にする」の表現、そして雪をマシュマロに喩える表現だと思う。まずは上五の「マイカー」。いまどきクルマのことを「マイカー」と呼ぶのに違和感を覚える。この場合「自分の車」という意味なのか、「自家用車一般」の意味なのか。前者だと自分の車以外はマシュマロにされているのか、後者ならタクシーやバスはされていないのか。その必然性があまり強くないので、「マ」で揃えることを優先してしまったのではないか、という疑惑が拭えない。次に「にする」の表現。作者はどこにいて、いつこの光景を見たのか。朝一番でその光景を「発見」したのであれば、「にする」という時間概念のない、一般論にまとめてしまうとみずみずしさが失われる。「にした」とした方がまだ作者の立ってい時空が伝わってくる。そして雪をマシュマロに喩える慣用表現は、ありがちで残念。

鉄平 評
イカーに積もった雪が、まるでマシュマロのように見えたという可愛らしい一句。ただ「マイカー」が語呂合わせのためだけであって、マイカーである必要性が感じられなかった。それと「〜を〜する〜」という説明的な言い方も句をつまらなくしているように感じる。

智 評
情景は目に浮かぶが、比喩としてはやや平凡な印象がした。

Mr.X 評
積もった雪をマシュマロと可愛い表現にしたことが素晴らしかったです。 

 

ストライプシャツ往くゼブラゾーンの春 稚女

2点/選者=すみれ、与太郎

苦楽亭 評
3月の句ならいただいたかな、ストライプとゼブラゾーン。当たり前すぎて、頂けなかった。

すみれ 評
厚いコートを脱ぎ、ストライプのシャツを着て街を歩く。道路には縞模様の道路標示・ゼブラゾーンが描かれ、明るい春の光がそそいでいる。縞模様をシャツとゼブラゾーンで表現した点が面白い。

与太郎
白と黒のストライプシャツを着ている人物が歩いている。ちょうどゼブラゾーンの上を。上下に揺れなから移動していく刹那、路面の模様と服の模様が重なって、身体が消えたように錯覚する。白と黒のコントラストの中に遠近感が失われ、時空が歪んだように感じられる。そういえば春なのだ。その錯覚は明るくなってきた日差しと無縁ではないはずだ。

鉄平 評
景は分かるし、模様で遊ぼうとしているのも分かるのだが、どこかで見聞きした表現で作者のオリジナリティを感じられなかった。また声に出して読んだ時におさまりの悪さを感じた。

智 評
ゼブラゾーンを行く車の中に見えたストライプシャツに春の爽やかさを感じたのだろうか。ストレイプシャツの清潔感と、春めく爽やかさとがよく組み合わさっていると思う。

 

雀ふくら雲ふっくらと寒あかね 苦楽亭

4点/選者=すみれ、奈津②、宮原

稚女 評
冬の雀は福良雀などと表記され、丸々と太った雀、あるいは寒気のために羽毛を膨らませているのを目にします。この句では二つのふくらの表現で冬の日中の穏やかさを感じさせるけれど、下五の「寒あかね」は冬の夕焼けを表す季語なのでどうしても見えてくる風景にふっくらという表現が適切ではないということでいただけませんんでした。

すみれ 評
寒気の中電線には羽毛を膨らませた雀、空にはふっくらとした雲が浮かんでいる。そして、影絵のような夕焼けで、穏やかな一日が終わろうとしている。ほっとする句。「ふくら、ふっくら」の表現がよい。

与太郎
まだ残る寒さのせいで、雀はふっくらと膨らんでいる。見上げれば、空の雲は真冬の厳しさを捨て、ふっくらと春を孕んでいる。もう一度視線を落とすと、目の前には寒あかねの花が咲いている?視線が定まらず、また季節感もなんとなくせまってこない。

鉄平 評
冬の夕焼けは木立や建物などのシルエットが美しく、束の間だが印象深い。冬の夕焼けには通常ふっくらとした雲は見えないので実景とは考えにくい。これは作者が感じた印象で、かつ句の肝であろう。ふくら雀を見かけ、それまで寒々としていた景色がふっくらと見えた。ただこれだとふっくら感はふくら雀で感じられるので、説明になってしまっている。また「ふくら雀」と「寒あかね」も季重なりだ。まだまだ推敲の余地がありそうだ。

智 評
雀の愛くるしさ、雲の柔らかさが、寒あかねの鮮やかな色でより強調されてくる感じがする。「ふくら」「ふっくら」という言葉の対比も面白いと思った。

宮原 評
雀の親子が寒い寒いと言いながら寄り添うほのぼのとしたイメージとともに、童謡の夕焼け小焼けが脳内再生されて何とも懐かしい気持ちになった。あの歌だと「カラスと一緒に帰りましょ」となっているので雀にとっては少々都合が悪いことになるが。母と手袋をはめた手を繋いで寄り添い歩く帰り道、外気は寒いはずなのに、そんなに寒く感じなかったのは自分が幼かった故だろうか。「ふくら」と「ふっくら」の音の重なりもこの句の暖かいイメージの広がりに寄与していると思う。

 

せせらぎを子守唄にして蕗の薹 智

3点/選者=苦楽亭、みみず、Mr.X

苦楽亭 評
2月のせせらぎの流れは子守唄にならないだろうが、暖冬の今年は蕗の薹をいただいたので今年はありか。ある句だろうと思うが、微笑ましさがいい。

稚女 評
浅い春を感じさせる句と思いました。浅瀬の小さな流れが絶え間ない水の音を奏でていて、その流れの両岸に蕗の薹がいつの間にか顔をのぞかせているのだ。しかし、この水の音を子守唄にして育ったという表現はありがちで、下五を他のものに変えても成立してしまう。具体的な「子守唄」ではなくこの小さな流れに絞った表現をした方がひっそりとした蕗の薹の存在が際立つ様に思った。

すみれ 評
春を告げる蕗の薹。雪解けの水が流れる側に蕗の薹が顔を出している。せせらぎを聞きながら生長したのであろう。せせらぎと蕗の薹の「動と静」の対比。せせらぎの音が聞こえてきそうです。

与太郎
せせらぎの音が聞こえる。穏やかな日差しのせいだろう。真冬に比べて柔らかく聞こえる。そして眠気を誘う。目蓋が閉じそうになる。ふと川縁を眺めると、艶やかな緑色をした蕗の薹が顔を出している。彼らもせせらぎの音をききながら昼寝をしているのだろう。眠りながら体内にエネルギーを蓄え、ふっくらと膨らんでいくのだ。中七の「て」は不要では? また「する」という動詞は、使わないようにした方がスマートになると思います。「にして」とすると、やはり説明臭さが漂ってきてしまうので。

鉄平 評
子守唄というからには寝ている赤子はイメージできるが、どういう状況だろうか。抱っこされているのか、段ボールに捨てられているのか、それを作者はどこから見ているのかわからない。どの辺のどんな川なのか。状況が分かるものがひとつほしい。蕗の薹も単に春の季語として使っている感があり、上五中七とのつながりが感じられなかった。

Mr.X 評
長野の田舎の小川の情景を勝手に想像いたしました。

 

行く道の小石の音に春を知る 十忽

2点/選者=智、みみず

苦楽亭 評
中7が意味不明。

稚女 評
作者は自分の歩いていく道の小さな石の音にまで注意をする繊細な方の様だ。行く道ということなので、この石は足元に転がる砂利の様なものなのでしょう。確かに厳寒の頃と春暖の頃では踏み締めたときの音も足裏の感覚も違ってくる。よくわかる句ではありますが、上五の表現は不要であるのと、もう一つインパクトを感じられず頂けませんでした。

すみれ 評
作者はどこの道を歩いているのだろうか?玉砂利の道、砂利道。「小石の音に春を知る」とは小石を踏んだ時の音に春を感じたのであろう……。春を感じながら、ゆっくりと歩いている様子を想像する。

与太郎
道を進んでいる。足元では小石が音を立てている。心なしかその音は軽い。明るい日差しのせいかしら。そうか、春なんだなぁ。こちらも情景も感情もわからなくはないが、全体の説明調が残念である。厳選された言葉で、華麗にその世界に誘ってほしい。

鉄平 評
作者が無意識に蹴った小石か、はたまた他人が蹴った小石か、その音で春を知ったという。上中下とも説明的なため詩情が感じられない。いつも通りではなかった小石から作者は何かを感じ春を知ったはずだ。その何かを表現してほしい。

智 評
雪解けで道の小石を踏む音が聞こえるようになり、春が来たな、と感じた場面だろうか。小石の音というありふれたものから春を見出すという視点がいいと思った。

 

竹細工春の光の届けらる 与太郎

地6点/選者=十忽、すみれ、めんこ、みみず、風樹②

苦楽亭 評
竹細工が春の光を届ける、この竹細工はなんだろう、どうゆうもの。当たり前でも竹の子じゃないのかな。

稚女 評
春の光がどこからどこへ届けられたのか読み取ることができませんでした。届くのではなく、届けられるという受け身の表現から判断すると、竹細工に向かって春の光が注いでいるという読み方になるのだが。竹で細工されたものがどんなものなのか、そして光の注がれるところにどの様に置かれていたのか。ビジュアル化することができないのが残念。

すみれ 評
青竹で作った竹細工に春の光が当たっている。竹の青色が美しいと感じた句。「届けらる」は「届けられ」ではどうでしょうか? 冬の竹林を歩いてみたくなりますね。

十忽 評
竹細工に春の光が当たっている。ただそれだけのことを言っているにすぎないのだが、下五の「届けらる」によって状況は一変したように思う。どこからとは言及していないが、春の光はどこかから届けられたのだ。光が当たるのと、光が届けられるのでは、光の見え方が違うと思うのだ。その違いが読み手の想像を広げてくれるのだ。届けられた光によって産まれた竹細工の印影が鮮やかである。

鉄平 評
作者のもとに竹細工が届いた。その竹細工にふと作者は春の光を感じたという。わざわざ「届けらる」と使っているので親しい人からの贈り物なのであろう。しかし竹細工の種類、形状や、作者にとってどのような関係の贈り主なのかが分からないので「春の光」を感じられなかった。

智 評
「届けらる」の主体が「竹細工」で、一物仕立てと解釈した。竹細工が光に照らされたことで、春めいてきたことに気付いた場面だろうか。

 

春立つ日蛇口には表面張力 奈津

天8点/選者=智②、十忽、稚女、与太郎、めんこ、宮原②

苦楽亭 評
皆さん3月の句を読んでいる、まだ2月なのに。この、蛇口は上をむいているんだ、取りたかった句。

稚女 評
春立つ日ということは2月3日ということ。春とはいえ、寒気厳しい盛り。上向きの蛇口から水が顔をのぞかせている、表面張力によって張り出した水が弧を描いている。句意はよくわかるのだが、中七、下五はごく当たり前のことだし、動詞のない句でこの三つの名詞から何かを喚起させてくれるかの判断の結果、引き付けられる何かが足りない、表面張力している水に春を写し込んだら面白のでは?

すみれ 評
立春」は寒気の中に早くも一抹の春色を覚える頃である。温度があがると表面張力は弱くなる。蛇口から出る水は初めは真っ直ぐなのに、下の方はねじれていく。その様子に私は表面張力を感じる。

十忽 評
目の付け所がいい。水滴と言わずに表面張力と表現したところもいい。微かに上下している水滴の表面には、魚眼レンズで写した様な春の風景が見えるようである。 

与太郎
立春である。まだ春を感じるほど暖かくはない。が、水道の蛇口には水の膨らみがあることを見つける。そのわずかな曲線に、春を見つけるのである。中七の「には」は、「に」でよかったのではないか。表現はさりげない方が実を感じられる。

鉄平 評
蛇口の表面張力は珍しいものではない。しかし作者は蛇口の表面張力に何かを見つけ感じたはずだ。それを表現して初めて「春分」が活きてくる気がする。

智 評
蛇口からこぼれ落ちるのを表面張力で踏みとどまっている水滴。冷たかった水が少しずつ暖かくなってくる立春の情景が浮かび上がってくる。

宮原 評
春に訪れる人生の門出の不安と期待をうまく表した句だと思う。大学入学のため上京して初めての一人暮らし、最初に住んだ六畳一間のアパートを思い出した。家具もまばらな部屋にも蛇口はあって、そこに水滴がぎりぎりの張力を保ってしがみついている。張り詰めているものは不安か期待か。その部屋の台所は窓に面していたので、春の光を受けた水滴は期待の成分の方が少し多かったか気がする。

 

つくしでも摘んでおゆきと猫の道 鉄平

1点/選者=苦楽亭

苦楽亭 評
この猫は老雌猫、貫禄たっぷり、ユーモアたっぷり。塀の猫道の穴を指さしていたら面白いな。

稚女 評
土筆は春の季語、土筆坊などと愛称のある見た目には可愛い形の植物だ。しかし、スギナと呼ばれるこの植物はお百姓さんには憎悪される厄介者だという、この句でそのつくしんぼを摘んでおゆきと行ったのは隣の家のトラだったのか?俺の縄張りだけど、まあ今日んところは大目に見てやるぞ……てな感じで声をかけられたのだろうか?しかし、トラが通り抜ける道を人間様は立っていけるのだろうか?

すみれ 評
日当たりの良い場所では土筆が顔を出し、イヌフグリが青空の色の花を開く。そこが猫の道。猫の道を歩いて行く人に「土筆でも摘んでおゆき」と声をかけるのは、猫の道。童話の世界(ファンタジー)の想像させてくれた。

与太郎
つくしを摘んでお行きなさい、という声が聞こえた。いろんな草花が芽吹き始めていますが、まあつくしでも、と。あたりを見回しても誰も居ない。注意深く眺めていると、地面がわずかに歪んで、か笑うように波打っていた。こちら気がついたのをみて、からかうようにその身をくねらせた。そうだ、ここは猫の道だったのだ。奴らにはいつもしてやられる。ただ、不思議と、いやな気はしないのだ。

智 評
猫の道というのは、猫がいる道のことだろうか。そうであれば、声をかけているのは猫に対してだろうか。声をかける人を不思議そうに見つけている猫の瞳が浮かんできた。

 

伝言の一文字を消し霰降る みみず

人5点/選者=十忽、稚女、与太郎、めんこ、鉄平

苦楽亭 評
なんの一文字を消したのだろう、それが気になった。取りたい句だったが。

稚女 評
どこにある伝言板だろうか?昔は駅に伝言板がありそこで待ち合わせをする人が用件を書き込んでおいたものだが、現在は文明の機器があり伝言など残さずとも電波を飛ばせば間違いなく用が足りてしまう。言うなればすれ違いの悲劇もおこらなくなった。なのでこの伝言板の所在地が不明。あられに文字を消されてしまうなら外にあるのだろうし。それに一文字のみ消してしまったとなるとどのような降りかたなんだろう?もしかしたら、この一文字を消したのは携帯電話の持ち主で「会いたい」の最初の文字を消して、霰降る町に消えた……のかもしれない。

すみれ 評
伝言板に書かれた文字。一文字とはどんな文字?「一文字」と「霰降る」が結びつかなかった。

与太郎
むかしむかし、まだ駅と呼ばれる場所に、掲示板があった頃のお話。見知らぬ人から見知らぬ人への伝言が、黒板に白いチョークで書かれている。慌てて走り書きされたもの、約束の時間に現れない人へのいらだち、まるで意味をなさない言葉の羅列。イタズラ書き。その中のひと文字を、小指の付け根を使って消す。駅員に見つからないように。そのひと文字は、とても重要なひと文字だった。それがなくなると、伝言の意味がまるで変わってしまう、魔法のひと文字だったのだ。変化は即座に現れた。天から霰が割ってきた。あの伝言は、人から神に向けた、祈りの言葉だったのだ。僕は、人類の未来を変えてしまった。

鉄平 評
どのようなシーンであろう。初めは駅の伝言板や現代ならSNSなどを考えたが、どうやらこの句はそのような現実的なものではなく、作者の頭の中の世界ではないかと思いついた。ふっと頭に現れた主の分からぬ作者への伝言。「あなたはこう生きるべき」。正しい言葉で綿々と綴られ、文句の付けようが無い。しかしなにか釈然としない。気に入らない。正しいのか間違っているのか、私はどうすればよいのか。作者はうろうろとしている。そしてなんとなく無作為に伝言の一文字を消した。すると栓が抜けたが如く、そこから大量の霰が降ってきたのだ。一体どういうことなのだろう。その挙動は「正解」なのか「不正解」なのか。作者の答えは出ずに、今も霰は降っている。

智 評
消した一文字はどんな文字だろうか。たった一文字を消しただけなのに、「霰降る」という言葉からはその重みを感じさせる。伝言を読んだ人の心情に引っ張られる感じがした。

 

豆を撒く信号はまだ青 めんこ

2点/選者=鉄平②

苦楽亭 評
上5と中7、下5をどうつなげればいいのかわからなかった。

稚女 評
上五と中七と下五で二つの事物をぶつけてつくられた句でしょう。この二つのぶつかり合い「二物衝撃」で思わぬ化学反応が生まれれば成功となるのだが。この句の場合、「豆を撒く」は上五、中は「信号は」で五語、そして下は「まだ青」で四語になる。作者はあえて十四語にして句を作られたのだが私にはその意図が理解不能でありました。この様にも読んでみました。「豆を撒く信号……まだ青」、しかし、わからない。ま行を三つ配したのは意図的とは思うのですが……。

すみれ 評
豆撒きの会場に急いで行く時の句でしょうか? 信号は赤ではなく青。青だから進もうとしている様子と捉えた。十分理解出来ませんでした。

与太郎
あまり深く考えずに、豆を撒いた。恒例行事だからだ。でも、なぜ大豆を投げるのだろう。たしか、厄払いでもするんじゃなかったか。よくわからないが、もうひとつかみ、窓の外に向かって投げつけた。家の前の信号は、まだ青いままだった。何かに変わってくれればいいのに、と思いながら、もうひとつかみ投げた。

鉄平 評
子孫繁栄、無病息災、平和を願うはいつの世もヒトの願い。しかしいつの時代にもそれを邪魔する鬼はいる。鬼は私利私欲、保身のためにヒトを不幸にする。当然ヒトは怒りを覚えるが、鬼は甘い言葉で、力で「これが正義なんだよ」と平和という青信号を発し続ける。ヒトは簡単にたぶらかされ、怒りの矛を収める。しかし暮らしは一向に良くならない。それを何度も何度も繰り返すうち、いよいよヒトの怒りが爆発し、あるとき信号は赤へと変わる。ヒトは鬼に豆を撒く。そこには戦略やルールなどなく、あるのはただ恨みのみ。これまでの恨み辛みを豆に込め鬼を虐殺する。争いは何年も何年も続き、ヒトも鬼も誰もいなくなった……。現代社会の信号は何色なのだろうか。

智 評
豆撒きをしていて、なかなか止まらないことを「信号はまだ青」と比喩したのだろうか。うまく情景が捉えられなかった。