俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第306回句会報告【自由句】

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5月16日に行った第306回句会「自由句」報告です。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

晩春に歩いてみたし多摩蘭坂 すみれ

2点/選者=十忽、宮原

苦楽亭 評
本当にこうゆう名前の坂あるんだろうか、あるとすれば、急坂だろうな、晩春の季語でもいいのだけど、なぜ晩春なの他の選択はなかったかな。

風樹 評
多摩のどこかに「多摩蘭坂」という名の坂があるのか、あるいは作者のオリジナルなのか。いずれにしても「歩いてみたし」というのだからまだ作者も歩いていない。読者の共感を求めるならば、その坂がどんな坂なのか、イメージを浮かべられるような材料が欲しい。唯一晩春とあるが、これだけではこの坂を歩きたいという魅力が生まれない。あこがれ、気配、なにか心を強く刺激してくれる感動、何かが足りない。俳句の妙技に事欠いた17文字は単なる散文にすぎなくなってしまうのか。季語が何かささやいている。予感がある、気配が起きてくる。残念だなぁ。あと一歩なにかに迫ることがあれば、多摩蘭坂のイメージが形となり、作者に説得されてしまうのだが。今、読者は坂の下で、置いてきぼりにされて、途方にくれている。

稚女 評
春の終りに多摩蘭坂をあるきたい、、、という内容と解釈しました。多摩蘭坂という名前の坂を私は初めて知りましたが、この句では、作者もまだ出掛けたことはなく、晩春にそこに行きたいという、なぜ晩春なのかなぜ行きたいのか不明である。作者はこの坂の名前に興味を持って、一句にしたのではないだろうか?仮名で書くと「たまらんさか」だ。私たちを、なんとしてもこの坂を歩いてみたい気持ちにさせるにはもう一つ何かが足りない。

十忽 評
忌野清志郎の歌で有名になった多摩蘭坂だが、歌詞に月とキスをするとかしたいとかとあって、そのイメージがこの句に重なって何とも言えない雰囲気を醸し出している。

与太郎
晩春になったら、歩いてみたいなあと思わせる不思議な名前の坂がある。その名もたまらん坂。たまらんなぁ。作者の気持ちをそのまま言われても、どうして歩いてみたいのか、よくわかりませんでした。

鉄平 評
この世にはまだ行った事のない場所がたくさんあり、いつか歩いてみたいと思う場所はたくさんある。例えば旅行雑誌などでは読者に行ってもらおうと気の利いたキャッチコピーを立てている。俳句も然り。読者に「歩いてみたい」と思わせる「作者の発見」が必要なのではないだろうか。

智 評
調べると、多摩蘭坂忌野清志郎の聖地とのこと。忌野清志郎の命日は晩春の5月2日。彼を偲ん歩くのだろうか。普段の風景とはどのように違って見えるだろうか。誰かを思い出しながら歩く道の輝きが感じられる。

宮原 評
5月2日が忌野清志郎の命日だったことをたまたま見ていたテレビで知った。長く続く坂をゆっくり登ればどこからともなくRCサクセションが聞こえてきそうだ。なるほど忌野清志郎の歌は晩春によく合う気がする。暖かいのだけれどどこか切ない。

 

鳩の糞雀の糞のぬくまれり 与太郎

3点/選者=すみれ、十忽、風樹

苦楽亭 評
ぬくまれりの、時間差と関係が(だからなんだ)わからなかった。ぬくきまま、ならわかるのだけれど。

風樹 評
昨今、コロナ禍のため、都市に人がいなくなった。TV画面に現される渋谷スクランブルや新宿駅南口前殺風景な、アスファルトばかりが目立つ画像だ。アスファルトは鳩の糞も雀の糞もいつまでも表面にそのまま残り続けてしまう。そして一定の世界観の中で、「ぬくまれり」だ。俳句はなにを語ればいいのだろう。この現代の状況を見つめつつ、鳩の糞と雀の糞に何かを語らせなければならないのか。ただ現実の前で身を震わせていればいいのか。「ぬくまれて」いればいいのか、あるいは「ぬくまれて」いる鳩の糞と雀の糞を前に、大都市のあわれな末路を予感すればいいのか。人類の負わねばならない無力感にただたじろいでいけばいいのか。 
自由とや民主主義とやぬくまれり

稚女 評
二種類の鳥の糞にスポットが当たっている、もともと鳥たちの体内から糞が出る時には体温で暖まっているはず。しかしこの句では下五になにかの力でそれがぬくまれたという。それではこれらを温めたものは何……? と考えると「太陽」というものしか思い当たらない。なぜ作者は鳥の糞を詩材にしたのか? 仮定?暗示?の両方からの考察するも納得のいく答えに恵まれませんでした。

すみれ 評
冬の寒さを越えてきた身には暖かさを感じる陽春のぬくさである。鳥の活動も活発になり、ベランダの手すりや公園で鳥の糞が目につくようになる。作者は糞を見つけて暖かさと春を感じたのであろうか。糞に視点をおいた点が面白い。

十忽 評
きれいじゃないけれど、春へのアプローチの仕方がとてもユニークで、理詰めではあるけれど説得力のある句になっている。面白い句です。

鉄平 評
鳥の糞に温もりを感じた作者。鳩も雀も出てきて糞が積み重なり、物理的さは温かさは感じられるが、その裏側にあったであろう美しさが感じられない。「ぬくまれり」がただの温度になってしまった。作者が発見した温もりはなんであったのだろうか。

智 評
糞という尾籠なものの中に春の暖かさを見出す感性が面白いと思った。

 

一閃が微かに走り緑雨降る 十忽

地5点/選者=智、稚女、みみず②、めんこ

苦楽亭 評
この季節の句、景が美しく、後1点あればいただきたかった。

風樹 評
雷だろうか、夜の闇の中をひそかに、雷鳴もなく、ピカリと走った。冷たい緑雨が降っている。あの一閃の光は何だったのだろう。天から何かの告知があったのだろうか。念のために「微かに」は何と読むのでしょうか。ひそか? わずかに? ただ、何かこの一閃に輝いた光だけで、音の無い世界に、どうやら何か予感めいたものが残る。時は夏、新緑の頃に降る雨の夜である。予感の行き場がない。この部分を読者にほうりなげて、作者は知らぬ半兵衞とはいかに。読者はこれ以上この句に付き合ってはいられないのです。

稚女 評
若い青葉の萌え出る季節に降る雨は緑色の雨と感じます。ただ、春の終わりに春の嵐という形容がぴったりの雷雨があり、天界のこの儀式の後、季節は移行します。この句では一閃が微かに見えたというので、雷音を聞き取れないほどの遠雷が一瞬地上を照らし、雨は緑をより鮮明にして降っている。好きな情景なのですが、下五の「降る」はもったいない。

すみれ 評
微かに光る稲妻。その直後に雨が降ってくる。すべての樹木が若葉をつける、さわやかな緑の中に降る雨は初夏の若葉を艶やかに見せる雨と捉えた。作者はこの光景を見ているのでしょうか? 新緑の山は美しい。

与太郎
なんだかむずかしい言葉を使っているが、具体的なイメージを掴めませんでした。一閃なのに微かだったり、走ったり。結果緑雨だったり。言葉に振り回されている気がします。

鉄平 評
一閃とは雷だろうか。遠く向こうの雨雲の中を微かな光が走った。きっと美しい光景だったのだろう。しかし「一閃が微かに走る」という言い方は散文的でいただけなかった。「走り」「降る」と動詞も多い。結局作者が言いたかったことがなんなのかよくわからず、緑雨も取ってつけた感じがしてしまった。

智 評
微かに走った雷の光。それに気づいたとたんに雨が降ってくる。雨が新緑をより一層鮮やかに浮きだたせる。その瞬間の情景を上手く切り取っていると感じた。

 

花筏になりそこなって風だまり 苦楽亭

1点/選者=稚女

風樹 評
風景がよく見える。公園の小さな池か城の堀か、桜の花びらが風に散ってかたまっている。しかし筏というようにうまくひろがってはくれなかった。風だまりにかたまってしまった。風流人の歩を止める風だまり。読者はそれに付き合うべきか、参加すべきか、何か砂を嚙むような寂しさをかんじてしまう。上五、中七のゆるみが下五でさらに背中を押されて あゝそうということで終わってしまう。作者は読者をどこへつれていってくれるのか説明してほしい。感動が薄い。だからなんだか発展が無い。

稚女 評
コロナで生活が大きく変わった。変わったものの一つにウオーキングがあり、ほとんど毎日、隅田川周辺を歩いている、今まで知らなかった場所や木や花々に出会うことになった。今年の桜も蕾から3分5、7分そして繚乱。そして春の強い風の中で花骸が道の傍で土に帰っていくという命の終わりをも見届けた。この句では、風に吹かれて、花筏になれなかった花骸たちに心の目を向けている。人間の生きる営みにも通じる句と思いました。ただ、私の好みとしては中七の促音が惜しい。

すみれ 評
散った桜の花びらが川の水面を流れて行く「花筏」は、桜の花の別の美しさを見せてくれる。この句では上手く「花筏」になれず、風に流されてよどみに溜まってしまった情景であろうか?桜の絨毯が敷いてあるような「花筏」にならなかった句。

与太郎
たくさんの桜の花びらが川面に流れている。近づいたり、離れたり、微妙に隙間が埋まらない。もう少しで花筏って呼べるのに! これが川面の風の溜まりなのか。このままだと「かぜだまり」が主人公だが、「なりそこなった」方を主人公にした方が四方のになあ。

鉄平 評
花筏になりそこなった状態はどんな状態だったのだろうか。そこは作者が言葉を生み出して表現してほしい。

智 評
花筏のように美しくなれなくても、散った花びらにある美しさを見出そうとする作者の眼差しを感じた。

 

ツツジ燃ゆ不急不要でなけれども 稚女

1点/選者=めんこ

苦楽亭 評
人間大騒ぎしていても、自然の移ろいは変わらない。中7がまともすぎて頂けなかった。

風樹 評
TVでは連日「不急不要の外出は避けてください」「ステイ・ホーム」と叫び続けている。コロナ禍のこの初夏の、なんという騒ぎになってしまったのか。人はこの初夏、当然ツツジの燃えるような美しさにひかれて見物に行きたくなるが、その外出は不急でも不要でもない。考えて見ればこの句、散文である。こんなに危機にとんだ季節に、俳句は何をどう詠めばいいのだろう。俳句は「省略」という方法を持っている。省略することで対象に語らせるという心得、骨法を技法としている。「余白」「省略」など俳句の持っている妙味といわざるを得ない。この句の中にはたして沈黙や絶妙な「余白」があるだろうか。国の危機に、俳人は冷静であらねばならないのか。表現していかねばならないのか。俳人もあくまで表現者たらねばならない。

すみれ 評
ツツジの花から、館林の「つつじが岡公園」を思い出す。「不急不要」としたのは意図的なのだろうか?下五の「なけれども」で、ツツジの花を見に出掛けたと捉えた。赤色の「きりしま」の真紅は紅蓮の炎のようで、「ツツジ燃ゆ」という形容がピッタリだと思う。

与太郎
ツツジが燃えるように咲いている。毎年同じ光景だからこそ、現状が際立つなぁ。ツツジにとっては不要不急のことだと思いたい。時事ネタを折り込むと、どうしても理屈が先立って、情感というか、「詩」にまだなりきっていない気がします。

鉄平 評
コロナ騒動により「不要不急の外出は控えるように」と小池都知事よりお達しが下った。重要でなく急ぎではない用事以外は、外出を控えるようにという意味だ。掲句はそんな時事ネタを用いた。なぜか不急不要と逆にしているが大した事ではない。俳句の解釈としては「重要でなく急ぎではないがツツジは真っ赤に燃えている」と言いたかったのだろうと思う。しかし下五の「なけれども」で「え、どっちなの?」と混乱してしまった。「なけれども」は作者が作句に苦労して捻り出したのではないだろうか。ちょっと厳しい。

智 評
世間がどうあろうとも、自然はそれとは離れてそこに「在る」。人の矮小さと自然の大きさの対比がうまく表されていると思う。

 

斧受ける実生の頃のまなざしで 風樹

天7点/選者=智、与太郎、宮原②、鉄平③

苦楽亭 評
上5どう読めばいい。

稚女 評
実生から心を込めて育てた木をどの様な理由からか切り倒さなければならない。植物でも動物でも手塩にかけて育て、一緒の時を過ごしたものに対する思いは深い。この句の下五のまなざしが分かりづらいけれど、切り倒される木のまなざしと解釈するとどうしても違和感を感じてしまう。

すみれ 評
「斧」の言葉から薪割りの場面か、木を切る場面を想像。「まなざし」は作者のまなざしと捉えた。草木の発芽したときの作者の嬉しい気持ちと生長していく木を暖かいまなざしで見守ってきた木が切られてしまう。切られる木を発芽したときのまなざしでみている。その時の気持ちをよんだ句であろう。

与太郎
斧の刃をこの身に受ける。芽吹きはじめたころ、こんな歳まで生き延びられるとは思っていなかった、あの頃の気持ちのまま。おそらく育ちすぎたのだ。しかし、とても生き延びられないと思っていた実生のころの頼りないからだからすれば、斧を受けられるほど立派に育ったことに感謝しなければならないのかもしれない。

鉄平 評
老木は叫ぶことも痛がるそぶりも見せず、静かに死へとむかってゆく。老木は斧を受ける度に力強さ、切なさ、寂しさと色々な眼差しを見せる。そこに純粋無垢な老木の潔さを感じた。心を動かしてくれた良句だった。

智 評
大きく成長した木々も、生まれたての実生の頃があった。斧を受けて倒れることは木々にとっては「死」である。死に際して、木々も走馬灯のように「生まれ」を見るのではないだろうか。擬人的な視点がうまく表されていると思った。

宮原 評
斧が振り上げられたその刹那、実生の時を経て若木となり成木、老木となって今ではカラカラに乾いた薪に形を変えた木の長い来し方が走馬灯のように駆け巡り、斧を見上げる眼差しは実生の頃の無垢な眼差しに一瞬戻る。一瞬と長い年月のコントラストが見事だと思った。

 

鳥避けはビバルディ夏貸し農園 鉄平

人4点/選者=苦楽亭、稚女、風樹②

苦楽亭 評
上5鳥追にしないで、鳥避けが面白かった。ビバルデイ、四季の夏か、貸し農園だからできるんだな。我が田舎の畑では、ちょっと無理かな。

風樹 評
ビバルディといえば、当然名曲「四季」をおもいうかべる。コンクリートでかためられた集合住宅のベランダに、四季の花々か春の農園、ベランダ菜園などを作って楽しんでいるのだから、と、鳥避けなども工夫しなければならない。あるいはシーズンを限って貸し出す農園か。
そこで最近よく目にするCDだ。おひさまを受けてキラキラと輝くのだから、きっと鳥避けにピッタリだ。ああ残念。クラシック大ファンの僕には、悲しい仕打ち。ヴィヴァルディのCDならイ・ムジチのヴァイオリン協奏曲作品8の1・2・3・4は生涯愛聴すべき作品なのですよ。鳥避けなどとんでもありません。この句、説得力なしです。

稚女 評
福島の姉は猿除け、熊除けに付けっぱなしのラジオを畑に吊るしておくらしい。この句、農園ではビバルディの曲が流れているらしい。青い空の下「四季」を聴きながらの農作業はいいなあ。でも反対に働きたくなくなるかもしれない。意外性のある句ではあるけれど。下五の『貸し』はいらないのではないでしょうか?「夏の農園」の方がすっきりと見えてくる。「農園の夏鳥避けはビバルディ」はどうでしょう?

すみれ 評
貸し農園で夏野菜の苗を植える。鳥の食害や侵入を防ぐ為、防鳥ネットや音や臭いで鳥避けを行うが、この句では鳥避けに「ビバルディ夏」を流したのだろう。そして、曲を聴きながら休憩している様子を想像。

与太郎
ビバルディの曲が流れている。それは夏だけ貸している農園の、鳥よけだという。上五は不要。理由付けとか、種明かしとか、理屈とか、言い様はいろいろあるが、それは詩としては不要である。農園にビバルディが流れているということに出会った瞬間の感動だけを詩にしてほしい。

智 評
貸し農園で鳥避けをする、もうそんな季節なのかと思った時、ふとビバルディの「四季」の夏の旋律が浮かんできた場面だろうか。貸し農園とビバルディという全く関連のなさそうな言葉が違和感なく繋がっている感じがした。

 

公園を風だけ走る子供の日 智

2点/選者=すみれ、めんこ

苦楽亭 評
今年はそうでしたが、隅田公園は子供と親多かった。

風樹 評
コロナ禍の今夏。ステイ・ホームがうたわれて、子供から公園までも取り上げられてしまった。こんな重大な事件なのに、俳句はさらりと風景を切り取り、一句を仕上げる。どんな風だったのでしょうか。子供はそれをどうみていたのでしょうか。俳句にするにはちょっと速すぎたのかもしれません。

稚女 評
今年はコロナ禍によって公園封鎖、子供の日にも元気に遊ぶ子供の姿が見えない寂しい公園にただ風がブランコを揺らしていた。この句は前文を付すことは必要ないでしょうか?正しく解釈するには状況を説明する何かがないと、ただ、単に不気味な句になってしまう。

すみれ 評
外出自粛で、公園で遊ぶ子どもの姿は見えない。「風だけ走る」でシーンとしている公園の様子が伝わる。寂しい連休でもあり、子どもの日。

与太郎
公園に誰もいない。風だけが流れていく。せっかくのこどもの日なのに。現状を詠んだ句だと思うが、人がいないことを風だけが吹いているとするのは累計に過ぎる。子供たちが「走る」ことを風に託したのだと思うが、「風が走る」というのもあまり詩的に感じない。

鉄平 評
コロナの影響で外出禁止の毎日。子供の日の公園は子供がひとりもおらず、なんとも寂しい。そんな風景を掲句では「風だけ走る」で表現しているが、「だけ」や「走る」が説明的なのと、よくある表現なので取らなかった。

 

挨拶さえ毒になりそうで蟻探し めんこ

2点/選者=与太郎、みみず

苦楽亭 評
蟻探しか、コロナ句としては面白い。

風樹 評
この句は前の句と同じテーマでちょっとヒネッた風景。ちょっと惜しいけれど、やはり全体が説明になってしまっている。いっそ、蟻が見た人間のまなざしをとらえてくれれば良かった。このままだと、やはり散文になってしまい、俳句の妙が見えない。

稚女 評
するのさえ憚ってしまう、知った顔が近づいてきたら蟻を探すふりをして地面に蹲み込んでしまう……。なんて深読みでしょうか?コロナと無関係であるとすると随分ひねくれた人物を描いたものだと感じてしまうのだが。

すみれ 評
近所の人とも道端で出会った人とも、長い立ち話はできない。感染しても感染させてもいけない、日常生活の緊張感と不自由さがある。視線を足元に向けると蟻が歩いている。下五の「蟻探し」で、小さな蟻を探すというユーモアがある。

与太郎
こんなご時世、挨拶することさえ憚られる。向こうから歩いてくる人が、みんな毒にさえ見えてくる。もうやれることは下を向いて一人でありを探すことぐらいだ。状況を詠んでいる句では、この句が良いと思います。下五の発見が良い。

鉄平 評
コロナ騒動でもはやマスク着用は義務化。安易に咳払いをしたり、会話すらままならない日常だ。掲句は挨拶でさえ伝染の元になるのではと不安がっている。上6中8なのが妙にリズムが悪いが、「挨拶も毒になりそで」ではどうだろうか。下五の「蟻探し」は季語だろうか? 字引には載っていなかった。「探し」がよく分からなかった。

智 評
せめてありふれた蟻というものを無心で探す時間だけでもその絶望を忘れたいという苦しさが感じられた。

 

藤棚の下亡き母の気配する みみず

1点/選者=苦楽亭

苦楽亭 評
句意としてはありきたりだが、一面の薄紫の世界がそんな気配を漂わせる。

風樹 評
あー残念だなぁ。せっかく作者はしっかりとなにをあらわすべきか掴んでいるのに。その説明にしてしまった。あー残念だなぁ。藤棚の下に感じた「気配」をもっと追求してみたら、どんな世界かあるいはどんな風景か、どんな気配が漂っていたのか。あー残念だなぁ。心境を表現しても俳句にはなり得ないことを作者は知っているはずです。そこから何を生み出していかなければならないかを知っていて、その努力を惜しんでしまったのですね。あー残念だなぁ。藤棚がどんなふうなのか、まったく見えない。亡きご母堂の面影も少しも浮かばない。

稚女 評
藤の花は遠見にはぼんやりとしていて、あまり美しさを感じないものだけど、近づいてみると香りも姿もとても気品を感じさせる花であることがわかる。作者の母上も藤の花を彷彿とする気高い母上であったのだろう。ただ、句としてはそんな気配を感じるのは作者であって母上を知らない読者には残念ながら作者と同じ思いは伝わらない。

すみれ 評
白藤ではなく、濃艶の紫藤。 滝のように垂れ下がる花は藤棚でしか見られない。ライトアップされた藤棚は幻想的な風景である。藤棚の下での、藤の花の甘い匂いがお母さんを思い出させるのか? また、藤の花が好きだったのか? 想像させてくれる。

与太郎
藤棚の下に、亡き母の気配を感じる。母が好きだったものなぁ。「気配する」は詩ではない。読者にどうやって「気配を感じさせるか」が詩であり、創作である。

鉄平 評
木陰に不思議な気配を感じるということはある。作者の母親は藤が好きだったのだろう、藤を見て母親を思い出した。作者はいまこの瞬間のこの藤だから気配を感じたのであって、藤を見るたびに母親を思い出すわけではないはずだ。読者の心を動かすための何かが足りない気がする。

智 評
藤棚の美しさの中に、死者と交流できるような妖しさを感じたのだろうか。藤棚の下に行くのが少し怖くなる。

 

べく杯の倒れて春の宵深し 宮原

地5点/選者=智、苦楽亭、すみれ、十忽、与太郎

苦楽亭 評
ベク杯が倒れて飲み手は春の宵(酔)を探しに。漢詩に出てきそうな句。

風樹 評
べく杯を回しながら酒の席をたのしんでいる春の宵のひととき。別に「深し」の感慨は浮かばない。この「深し」。勢い余って出たことばか、特に深い感慨を伝える表現なのか。僕は酒をたしなまないので、こうした経験は無いのだが、気分はとてもよく分かる。しかし、この句全体に説明ばかりしている。春の宵が深まった。その末にどんな風景が見えたのか、見せて欲しかったなぁ。なにが深まったのか、感慨がうすい、キーワードが軽い。飲んだくれの一言と思えてしまう。

稚女 評
PSにこの句を打ち込んで、確認すると見事に春の宵は「春の酔」になっていた。飲めない私はベク杯はどんなものか知りませんでした。また、これが倒れると言う措辞が具体的にビジュアル化できないのです。検索してベクはいの写真を見ると、倒れるというより転がるという表現の方がふさわしいのではないかと感じました。下五は深い夜をじっくりとお酒を飲んで過ごしましょう。ということでしょうか?

すみれ 評
お座敷遊びのべく杯、杯の形も楽しい。「べく杯」と季語の「春の宵」がピッタリあっていると思う。春の宵からお座敷遊びなんて優雅なひととき……。私も一度、遊びを体験したい。

十忽 評
へべれけになってから出てくる杯で、高知では宴会につきものだというべく杯。もちろん倒れたのはべく杯だけではなく、杯を持っていた酔っ払いも同時に倒れたことを意味する。酒飲みにとっては羨ましくもあり恐ろしくもあるが、一度は体験してみたいと思う。豪快な句です。

与太郎
手に持っていないと倒れてしまうべく杯が倒れた。春の宵はいったいどこに行ってしまったのか。まためぐってくるのだろうか。ひたすらわびしい。時勢を詠んだ句の中では、きちんと詩情に落ちていて、情感が感じられる。

鉄平 評
お座敷遊びのひと幕だろうか。しこたま呑んでとうとうべく杯を倒してしまった。しかしまだ宵の内、もっともっと飲むぞ〜!と言う解釈はいくらなんでも真正直過ぎるか。下の句の裏に作者が一番言いたい事が隠されていそうだ。それを「べく杯の倒れて」で読者に伝えようとした。しかしべく杯が倒れた程度で読者はドキッとするだろうか?

智 評
まだまだ宵の時間なのに、置くことのできないべく杯も置かずにおれないほど酔ってしまったのだろうか。そこまで酔ってしまったのは嬉しさか、悲しさか。できれば嬉しさを表した穏やかで暖かい句と思いたい。