俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第308回句会報告【兼題句/お題「旅」】

f:id:yanagibashiclub:20200721132745j:plain

7月18日に行った第308回句会「兼題句」報告です。お題は「旅」。

旅を感じさせれば、「旅」の字を使わなくてもよい。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

病室の十日の旅や梅雨嵐 みみず

人4点/選者=智、大橋②、風樹

苦楽亭 評
入院生活十日の旅、生に向かう旅、内も嵐、外は梅雨嵐でも嵐はいつか去る。十日と言う時間を区切ってその中の心情と外の様子、の対比が面白かった。病院(の)だとどうも俳句に締まりが無く「へ」にした方が説明的にはなるが、句は閉まると思う。

風樹 評
病室の窓から外が見える。外は梅雨の嵐の大変な状況……。病室からは出られない状況……。はたして「十日の旅」とはなにか。一時退院の日程か、楽しみにしていたなにかか……。あくまでも病室から外を見るだけの状況……。状況はだんだん身を狭めていく。昨日できたことが、今日は出来なくなる不安、状況……。窓の外の梅雨嵐は、実は我が身の状況……。状況だけの昨日・今日・明日。状況だけの一句。そのほかは……。

稚女 評
通常ではない状態に身を置くことは一つの旅の形と言えるのでしょう。細かく言えば、日常の中で、買い物に出かける際にいつもと違う初めての道を選ぶことも、上記の解釈で言えば旅なのかもしれない。作者は梅雨の最中を10日間病と闘っていたわけで、その思いは梅雨嵐に表現されている。目下はコロナ騒ぎで病院にいること自体危ないことでもあるけれど、病は待ってくれない。

すみれ 評
入院した10日間のことを作者は「病室の旅」と詠んだ。梅雨の大雨による洪水の被害が出た頃と時を同じくしている。入院中の不安と梅雨嵐の不安が重なる句。季語が明るい言葉でも良かったかな?

十忽 評
十日の旅はコロナウイルスで入院したことを指しているのだろうか。上五の「病室の」をはっきりコロナウイルスに感染したと限定した表現にしてもいいように思うのだが。

与太郎
入院のあいだの10日間、それは旅のようなものだった。毎日梅雨の嵐の日々。まるで何かを示唆しているようだ。「なにか」を知りたかった。季語だけでは、あまり伝わってきませんでした。

鉄平 評
季語は梅雨嵐。これから十日間入院する直前の句だろうか。入院を「旅」と表現したということは、入院には楽観的で、十日間を楽しもうとしているのかもしれない。下五の「梅雨嵐」は楽観の逆のようにも取れるが、もしかしたら嵐が来たときの子供ようなわくわくした気持ちなのかもしれない。いずれにしろ、作者は入院を喜んでいるのだろう。ただ、詩を感じられないのは「十日の」とまとめてしまったからではないだろうか。作者は旅気分でも読者として旅を感じられなかった。

智 評
10日間の入院生活を「旅」と例えたのだろう。その時の心の乱れるさま、不安が「梅雨嵐」という表現にうまく託されていると感じた。

大橋 評
10日間のご入院でしょうかどこか寂しげで不安そうな感じがとてもいいと思いました。

 

夕顔や一夜限りの旅の縁 十忽

3点/選者=みみず、野村、苦楽亭

苦楽亭 評
一体何があったのだろう。意味深な句。季語の夕顔と中7、下5のつながりがいい。

風樹 評
一夜限りの旅とはどんな旅なのだろうか。そこで見る緑が、これからはもう見ることが出来ない風景なのだろうか。夕顔の切ない美しさがよく見えてきます。句の前半と後半がはなれてしまって、ちょっと残念。兼題を練り直すと、いい句になる気がします。

稚女 評
夕顔の音の響きと夕方開いて朝には花の終わりになる儚さと、一夜限りが呼応している作品と感じましたが、全体に古い感覚で、目下は情報機器が発達し、リモート連絡も自在であることで、一昔前のような悲恋、悲劇は生まれないつまらない世の中でもあります。

すみれ 評
夕顔は夕刻に咲く花。旅では「一期一会」が使われることが多いが、中七の「一夜限り」で、植物の夕顔と源氏物語の「夕顔」が重なる。旅では見知らぬ人との出会いが多々ある。その出会いを句にしている。

与太郎
夕顔を一夜限りの「縁」に結びつけるのは、どうもクサすぎていただけませんでした。

鉄平 評
季語は夕顔。旅先の飲み屋で、見知らぬ客同士盛り上がったのか、はたまた、行きずりの女性 or 男性との甘美な一夜のことか。「一夜限り」とまとめずに具体的な物語を描いてほしかった。そうすると季語の夕顔も生きてくる気がする。

智 評
夕方に咲き、朝にはしぼんでしまう夕顔との一期一会を詠んだのだろうか。ただ、その出会いを「旅の縁」とするにはやや大げさな表現のようにも感じた。

野村 評
旅の一期一会の尊さ、儚さが美しく感じられました。

 

今回は葉っぱに注目ぶらぶらり めんこ

無点

苦楽亭 評
中7が兼題とどうゆう関係があるのかわからない。

風樹 評
今日の旅では、ひとつ葉っぱに注目してみようか。ひとり、ぶらりと旅をするのはとても楽しい。そして寂しい。そこはかとなくカラ元気のところがユーモラスでした。ただし、ぶらぶらりは、活きていない。下五の音数にあわせたのでしょうか。その時の旅人の心理にぐーんと迫れたらよかったですね。

稚女 評
旅の兼題なのでそれを踏まえてこの句を読み混んでみました。今回はと上五に表現されているので、前回もあって、そして今回はとつながったわけなら前回は何に注目したのでろう? 下五部分が旅と言えるのだろう。逍遥することは、まさにぶらぶらりの形容で表すことが多いのだけど、この十七文字から誰がどこで何をしているのか残念ながら見えてきませんでした。

すみれ 評
葉っぱの観察をしながらの光景でしょうか? 下五の「ぶらぶらり」は歩く様子ではなく、葉っぱから何か垂れ下がっている様子にも見える。ぶらさがって揺れ動くのは何か?十分、捉えられなかった。

十忽 評
上五に「今回は」とあるので、前回は何に注目しての散歩だったのかと気にさせるところが面白い。下五の「ぶらぶらり」、意味はわかるが語感がよろしくない。

与太郎
今回の旅は、路傍に繁茂する「葉」に注目してみよう。という、作者の宣言はいいが、どちらかというと、その結果を知りたい。注目したらなにが見えたのか。

鉄平 評
無季の句。旅の句とは分かりづらいが、旅をテーマとした句集の一句として考えればありなのかもしれない。「今回は」と使いたいならば、素直に「この旅は」としてはどうだろう。葉っぱも色々な種類の葉があるので、季節が分かるものや、形状のわかる具体的なものなどにすると、なぜ葉っぱに注目したのかの裏側にある物語を想像できるのかもしれない。「ぶらぶらり」は作者が歩いている様子なのか、葉がぶら下がっている様子なのかが分かりづらかった。

智 評
あえて目的もなく散策している様子が浮かぶが、やや説明的に感じた。

 

カプチーノ「カプッチョ」と出され明日帰国 鉄平

人4点/選者=十忽、稚女、すみれ、苦楽亭

苦楽亭 評
景がわかりやすい。様子がユーモラスで明日は帰国。心も様子がいい。

風樹 評
イタリア旅行から帰国する前の日なのでしょうか。どこかのレストランで「カプチーノ」を注文したらカプッチョが出て来たのでしょうか。イタリア旅行もイタリアの珈琲も、カプッチョの知識もなにもありません。マイコンで調べなければ理解できないのは、なんだか不都合な気がします。いつから俳句はそうしたことをしなければ解読できなくなってしまったのか。一読意味がすんなりと姿を現し、その姿を見てさて、俳句の情や深さ、テーマへの接近をじっくりと楽しむこととしてきました。けっして謎解きでもパズルでもあのません。いかに読者にま違いなく理解していただくか。俳句はそれからの勝負とおもっています。ですから、一読理解不能の句に出遭うと、とても残念に思ってしまうのです。近年そうした句作によくお目にかかるようになりました。私はひたすらうつむいて通り過ぎるほかないのです。

稚女 評
作者はイタリア旅行中らしい。当地ではカプッチョが正しいのかな? 喫茶店でそのような発音でカプチーノが出てきたと言うことでしょうか?イタリアらしく気楽で明るくカプチーノは「カップッチョ」だと明日帰国……出されの表現で状況はわかるけど。

すみれ 評
外国での会話は発音が難しい。私もアメリカで、コーヒーと発音したらコーラが出てきた。発音はカフェでした。外国旅行ならではの楽しい失敗談であり、旅行の一場面のユーモアのある句。イタリアでは「カップッチーノ」と発音するらしい。「明日帰国」が良い。

十忽 評
イタリア旅行でカプチーノを飲んだ時の句だが、それが下五の「明日帰国」でうまく表現されていると思う。カプッチョの意味を調べてみると法王の帽子からきているとあった。語源を知らないと作者の造語かと疑ってしまいそうなところも面白い。句全体の流れというかテンポがいいと思った。

与太郎
最終日にようやく気がついたと言うことでしょうか? その異文化間をもっとストレートに聞きたかったです。

智 評
調べてみて、カプチーノの語源は修道士の服「カップッチョ」だった。でも、句意がよく分からなかった。

 

紫陽花を片手に時空を超える旅 与太郎

1点/選者=風樹

苦楽亭 評
時空を超える旅でなぜ紫陽花なのか。

風樹 評
きんと雲を呼んで、いっきに七万キロを飛び越える。孫悟空は、紫陽花を腕に、大活躍。そんなメルヘンの旅を思わせてくれた一句。もうそれだけで心躍る冒険の旅。三藏法師のお師匠めざして、今日も時空をひとっ飛び。楽しい一句ですね。しかし、そのメルヘンに俳句はどこにあるか。ふと考えさせられてしまいました。

稚女 評
時間も空間も越える旅って、心あらずの旅ってことでしょうか? 紫陽花の命の美しさにしばし心をとらわれてしまった状態を読まれた作品と解釈しました。実際の様子を一句にされたのかもしれませんが紫陽花を他のものに変えても成立してしまい、時空を超えると言う壮大な表現に納得できる上五の表現が欲しい。

すみれ 評
時空を超える旅に、なぜ紫陽花なのか? 紫陽花を日本からオランダに持ち帰り、日本人妻(お滝さん)の名前をとり「オタクサ」と名付けたシーボルトシーボルトは世界に紫陽花を紹介した人物。日本には品種改良されて逆輸入された紫陽花。この事を「時空を超える旅」と捉えた。紫陽花はハイドランジアと言う。

十忽 評
紫陽花をたまたま手にしていたのか、それとも時空を超えるための必須アイテムが紫陽花なのか、それをはっきりさせた方が面白い句になったと思う。ただ単に時空を超えただけでは、漠然としすぎている。

鉄平 評
季語は紫陽花。文学とSFが混じったようなシュールさは感じるが、そこまでで、句の背景にある物語が見えなかったので、よく分からないままだった。

智 評
「紫陽花」と「時空を超える旅」との関係性がうまく掴みとれなかった。寧ろ「紫陽花や」で切って、関係性を断つ方がいいようにも思った。

 

草矢放つ宇宙の旅予約して すみれ

天8点/選者=智、十忽、稚女、宮原②、野村、鉄平②

苦楽亭 評
取りたかった句だったが、宇宙「に」旅「の」予約しての方が夢の世界の様子がはっきりするんじゃないかな。

風樹 評
「草矢」とは、芒の葉を矢のように飛ばす子供のころの遊びですね。狙いは宇宙ですか。いまのうちに予約を入れておきたい。「どちらへ」「ちょっと宇宙まで」そんな挨拶が流行るような時代になるのでしょうね。まだまだのようなのが「宇宙まで」としかわからない。読者の私にも分からない。なので、どうもこの句、リアルに欠ける。前半の素敵な振りがちょっとかわいそうな気がします。上五の世界が句全体に活きていたら、もっと素敵な句になったのではないでしょうか。

稚女 評
細い線形の青々した葉を割いて指に挟んで矢のように投げつける遊び……が草矢の季語の説明にあった。おこなったことも、そのような遊びをしているのも見たことはないけれど。空間を矢のように飛ぶ草矢を見て、宇宙への憧れを感じたのだろう。下五の予約して……は予約したと言うことでしょうか?

十忽 評
草矢を俳句で調べてみると「放つ」ではなく、「打つ」の方が多く見られた。語感としても「打つ」が合っているように思う。作者は自らの手で空間に草矢を放り投げるという点を強調するために「放つ」という言葉を敢て使ったのかもしれないが、後に「宇宙の旅」とあるので、ロケットを打ち上げるイメージにつながる「打つ」の方が合っているように思う。予約した宇宙の旅を連想させるダイナミックな句だと思う。

与太郎
中七に「を」をつけない理由は何でしょうか? 草矢とロケットのイメージがつきすぎて、あまり世界が広がりませんでした。

鉄平 評
季語は草矢。「草矢」から「宇宙の旅」の発想の飛躍は類句があるかもしれないが、下五の「予約して」が良い。実際に予約したわけでなく願望だろうが、少年期のわくわくした気持ちが伝わってきた。きっとコペルニクスニュートンも草矢を飛ばし、宇宙の旅を予約したんだろうなとワクワクさせてくれた。

智 評
「草矢放つ」という言葉が、宇宙へと飛び出してく心の躍動をうまく表現していると感じた。草矢という昔ながらの遊びと、宇宙旅行という未来との対比も面白いと思った。

宮原 評
近未来の世界観とアナログな草矢の対比が面白い。もう少し先の未来では予約して宇宙へ旅をするのが当たり前になるだろうか。夏休みに宇宙へ家族旅行することになり今から楽しみで仕方がない子供がその思いを乗せてアナログな草矢を空に向けて飛ばす。想像の世界で草矢は宇宙まで届くことだろう。

野村 評
手元から一気に宇宙へと飛翔するスケール感とロマンにグッときました。

 

わが名稚子稚い旅を続けよと 稚女

1点/選者=野村

苦楽亭 評
どうコメントしていいか、わからない。

風樹 評
「雅」とは、幼い、あどけない、かわいいなどの意。赤子が生まれた時、両親はかわゆくてかわゆくて、こうした名前ををつけたのでしょう。しかし、本人はたいがいそうは思わなくておおきくなってゆくのでしょう。大人になってはじめて、「雅ない旅を続けよ」と理解するのでしょうか。「雅い旅」とは、どんな旅なのでしょうか。ここがこの一句の根本ともいえそうです。一度自分の名前を織り込んだ句を作ってしまったら、じつはもう二度とこの手は使えない、いわば覚悟の一句。ここまで崖っぷちに我が身をさらしてまで、作句する作者の覚悟にまず敬意を表します。一読電流にやけどをしてしまうような、一句の中に電流が通って居るようなきびしい迫力を感じてしまいました。おそらく、この一句は作者にとって、人生にとって一大事件のような決心がかいまみえるのです。とても怖い一句でした。

すみれ 評
「ことばあそび的発想」で自分の名前の漢字を使った句。作者が自分自身に「推い旅を続けよ」と話しかけているようにも理解できるし、「稚い旅」をこれからも続けるだろう。旅を楽しむ気持ちは伝わる。

十忽 評
稚い旅の具体的なイメージがわかない。

与太郎
作者の宣言を聞かされても……。その結果を知りたい。もしくは実践方法を知りたい。

鉄平 評
無季の句。「続けよ」と言っているのは作者の親だろうか。それとも作者が自身の戒めとして言っているのだろうか。自己愛、自己憐憫の域を超えていない、または逆にそれらが突出していない句だと感じた。

智 評
名前が「稚子」だから「稚い旅」という語呂合わせ。「稚い」は「おさない」「あどけない」だが、そういう旅がどんな旅なのかも浮かんでこなかった。

野村 評
人生の旅という視点が面白く感じられました。

 

打水や旅行鞄を探りおり 智

地7点/選者=みみず、十忽、大橋、宮原、与太郎、めんこ、奈津

苦楽亭 評
長方形の皮の大振りの旅行鞄かな。様子はわかるが平凡。

風樹 評
旅先の城下町の横丁。ぼんやりあるいていると、いきなり街の人が打ち水を。そこでふと肩から提げた旅行鞄を手で探ってしまう。なにげない旅の一コマにピントを会わせて、ていねいに描写しています。このスタンスはとてもいいと思います。残念ですが、五・七・五全ぶが説明になってしまった。とても雰囲気のある景がうかぶのですが、心にのこりずらいことになってしまったようです。

稚女 評
上五とそれ以後の関連性がわかりません。打水は我が家での行為なのか、そして旅行鞄を探っているのは何のため?もしかしたら、探っているのではなく探しているのかもとも思いました。

すみれ 評
暑い日、打水をして涼しくなった。ところで、旅行鞄を見つけている光景。「探す」と「探る」の違いが気になり調べた。打水と旅行鞄の景が結ばなかった。

十忽 評
打ち水と鞄を探っている場所との位置関係がはっきりしないが、何となく了解してしまいそうな雰囲気がある。夏座敷から外で撒かれている打ち水を眺めながら旅の準備をしているのか、または旅から帰って片付けをしているのか、いづれにしても旅の雰囲気をうまく活かした句である。

与太郎
そろそろ暑くなってきて、打ち水を始める。日々の日常業務をこなしながら、夏だなぁと思うと、「旅行鞄はどこにしまったっけ」とそわそわとしてしまう。その心の動きがよく見えました。

鉄平 評
季語は「打ち水」。作者は旅行前なのか、旅行中なのか。どんなものを無くし、探しているのか。それが「打ち水」とどう繋がるのか。いまいち景が定まらず、ストーリーが見えてこなかった。

大橋 評
旅先の宿屋に着いたばかりの雰囲気でしょうか、面白いと思います。

宮原 評
汗を滲ませながら旅行鞄を探している様子が目に浮かぶ。大概旅行鞄というものはどこにしまったか忘れがちなものでなかなか見つけることができない。探せば探すほど汗が滴り落ちてくる。打水の効果もとうに無くなってしまったようだ。

 

目を閉じれば浮遊スペインベニスコラ 苦楽亭

無点

風樹 評
目を閉じても、読者にはスペインは浮かんできません。わずかに、かつて作者はスペインを浮遊していたような旅を経験しているのだなということはわかりました。そんな素敵な旅なのに、もっと具体的ななにかを示してほしかった。ベニスコラですか。ウーン何だか分かりません。作者はもう少し読者に愛情を注いでほしかった。きっと素敵な旅だったのでしょう。

稚女 評
スペインの旅を思い出している作品。特定の地名が描かれているので作者のかっての訪問地であるのだろう。きっと、良い思い出を沢山持っていて、何年経っても目を閉じるとその地でのあれこれが浮かび時を忘れてしまうのだろう……が鑑賞者の我々にはその地のことも思い出もなく作者と浮遊を共有することができない。独りよがりの句にしないためにはこの地での断片なりを描いてほしい。

すみれ 評
ベニスコラの街を訪れたことはないが、作者にとっては印象深い街なのだろう。映画の舞台になったと言う海の美しいリゾート地とのこと……。街を自由に歩き回った思い出が浮かんでくるのだろうが、読み手にも感動が伝わると良かった。

十忽 評
目を閉じるだけでスペインを浮遊するというその発想が安易すぎると思う。

与太郎
目を閉じると思い出すのはあまりにもありがち。俳句は目を閉じたあとに見える情景だけを描いて欲しい。

鉄平 評
無季の句。作者が目を閉じると、以前旅行したスペインのベニスコラに浮遊した。要は思い出に浸っているのだろう。しかし読者はベニスコラを知らない。ベニスコラではどんなものに出会いどんな体験をしたのだろう。それが無ければ、下の句はベニスコラ以外でも成り立ってしまう。

智 評
ベニスコラという都市は初めて聞いたが、有名なのだろうか。あまり有名でないからスペインという言葉も必要になったのであれば、やや説明的に過ぎる気がした。ただ、ベニスコラに作者の何かしらの想いが込められているのであれば致し方ないか。あまり人に知られていない事柄を句に込めることの難しさを感じた。

 

青田道法隆寺裏のニシンソバ 風樹

3点/選者=与太郎、すみれ、めんこ

苦楽亭 評
法隆寺と青田道は付きすぎ。

稚女 評
青田の清々しい道を歩き法隆寺裏の蕎麦屋さんで名物の鰊蕎麦をいただきました。と言う句意と解釈しました。ここで評価するのはこの句の作者はこの地でこのそばを食べてどのように感じたかが大事な部分ではないかと思います。奈良法隆寺周辺の青い田圃道と名物の鰊蕎麦を被写体にした観光写真を説明しただけの俳句になっていて、作者がどのようにこの青々とした田圃道を歩き、法隆寺の建物の裏の鰊蕎麦に何を感じられたのかを描いていただきたい。また、下五のニシンソバは是非とも鰊蕎麦と表記してほしい。

すみれ 評
「青田道」が清々しく感じられる。田が青一色になる頃は風になびく稲が爽快で美しい。青田道を歩きながら、旅の途中で偶然訪れた「そば屋」で食べた鰊蕎麦。鰊蕎麦は北海道、京都の名物料理だが、奈良も……? のどかな「斑鳩の里」を思い出した。

十忽 評
おそらく作者は法隆寺へ旅行したことがあるのだろう。そのとき目にした風景そのままを五七五にしたのだろうか。いい風景だけではなく、そば屋やニシンにもう一工夫あってもいいように思う。

与太郎
青い穂とにしんそばの爽やかさが伝わってきました。旅情も感じられます。少し組み合わせがありがちで、新鮮さと作者の独自性があれば、更に良かったと思います。子規が「柿」を発明したように。

鉄平 評
季語は「青田」。きっと美味かったのだろう。しかし作者個人の日記の域。俳句としては詩を感じられない。テーマが絞り切れていない気がする。写生句にもなっていない。

智 評
法隆寺奈良県、ニシンソバは京都の名物。法隆寺の近くにも実際ニシンソバを食べさせるところがあるのだろうか。ニシンソバを詠むのであれば、法隆寺ではなく京都の神社仏閣の方がよいのではないかと思った。逆に、法隆寺を詠むのであればニシンソバではなく、法隆寺あるいは奈良県に縁のある言葉がよいのではないだろうか。こだわり過ぎなのかもしれないが。

 

短夜や旅の荷は解かれぬままに 宮原

地7点/選者=みみず、智、稚女、風樹、苦楽亭、めんこ、奈津

苦楽亭 評
旅の兼題で句意は平凡だが、季語の選び方がいい。

風樹 評
旅はだいたい、一泊でも二泊でも三泊でも、持って行く荷物はほぼ同じようなものですね。一泊して明日はもう帰るというスケジュールとなると、荷を解くのはめんどうで、ついほどかずのままですませてしまう。ということになりがちです。旅の心理をじつに明確にほどいてくれました。それでは意味もなく、旅の醍醐味もあったものではありません。消化不良になってしまいそうな、さてどうしたものか。いつしか取り返しの付かないことになってしまいかねず、そんな不安が。はじめは小さいことでも、しだいに大きくなっておおごとになってしまいかねません。心理の果てになにか、さて、これは俳句か、エッセイか。でも、たのしい一句でした。

稚女 評
この句をどのように解釈したらいいのでしょう。明け易い夏の夜のこと旅行先から帰国したけれど、時差ボケが続いていてまだ荷物はそのままに今夜ももう眠くなってしまった~。あるいは楽しい、刺激的な旅を過ごして帰国するものの、胸躍るあの思い出の詰まった荷物を片付けてしまうとあの時間は遠のいてしまいそう、もう少し旅の余韻に下っていたい、解かれぬだとどちらにも解釈できてしまう。

すみれ 評
6月は午前4時頃には夜が明ける。旅行から帰って来たが、思い出やお土産の詰まった荷物を開けずに、夜が明けてしまった。自分も経験があるが、旅の疲れが出たのでしょうか? 「解かれぬままに」でなく、何かひとつ、お土産や訪れた地名を入れても良いと思う。

十忽 評
旅の荷は解かれぬままにだけでは、何をどう想像していいの悩ましすぎる。その先が知りたい。

与太郎
夏の夜は短い。あっという間に朝が来て、日々の雑務で毎日が過ぎていく。慌ただしかった旅の荷物を解く暇もないままに。というところでしょうか? どこかで詠んだことのある情景な気がします。本当に「短夜」を感じたのか。「旅の荷」はどんなものがなにに入っているのか。どこに置いてあるのか。それらを深く探っていくことで、自分の心が本当に何に動いたのか、が見えてくると思います。もっとフォーカスして、それを伝えて欲しかったです。

鉄平 評
季語は「短夜」。旅行後の句。しかも帰宅して数日が経っている。「や」で切ってはいるが、「短夜だから荷が解けない」ではただ季語を置いただけで季語が生かされていない気がする。短夜を使うならば、短夜特有の儚さを滲み出さなければいけない。美術館のパンフレット、喫茶店のマッチ、ケーブルカーの切符。作者が旅先で手に入れた些細なものが、読者にとっては物語を想像する手段となる。例えば意中の人に買ってきたものが無駄になってしまい解けない荷とか。句の裏側にある物語を想像できる何かがほしい。

智 評
旅の荷を解く暇がないというより、荷を解きたくないという想いが込められているように感じた。「短夜や」という切れはやや強いようにも感じたが、そうでなければ荷を解かない想いが伝えられないのかもしれない。

 

修学旅行思い出辿るGoogleマップ 大橋

人4点/選者=与太郎、すみれ、鉄平、奈津

苦楽亭 評
いい思い出がいっぱいあったんだ。

風樹 評
修学旅行の思い出は、奈良薬師寺の広場でした。ひとりの坊がわたしたちの前で説明をしてくれました。それはとてもわかりやすく、おもしろい説明でした。具体的にはなにも覚えてはいません。その後、テレビなどでお目にかかるようになり、寺の代表者としてえらく出世をして、画面でお目にかかりました。そんな懐かしさを思い出させてくれた一句でした。これからはどうかGoogleマップをぐーんとクローズアップして、微に入り細をうがって掘り出していただければ、もっともっと素敵な思い出が呼び覚ませるのではないでしょうか。

稚女 評
修学旅行の一番の思い出は友人達との旅館で食べた料理、寝たふりをして教師の見回りをごまかしたこと、少ない小遣いで家の人たちへのお土産を選んだこと……などであまり修学とは関係ないことがもっとも深い思い出になるのではないでしょうか? この句で思い出辿るがGoogleマップとつながっているのは今の機械文明の批判をこめているのだろうか? 作品が7、7、6語になっているのも気になりました。

すみれ 評
修学旅行と言うと懐かしい一番の思い出である。私達の時代は地図を見ながら歩き回ったが、今はスマホを持ちグーグルマップで調べる。修学旅行とグーグルマップの新しい感覚。時代の流れを感じさせてくれた句。若い人の句ですね。

十忽 評
散文だと思います。事実をそのまま記述しただけで終わっており、詩的な要素に欠けていると思います。

与太郎
Google Mapのストリートビューでは、まるで旅をするように、現地の風景の中を歩いて行くことができます。そういえば、修学旅行で行ったのはあそこだったな、ああ、この場所で○○ちゃんと、こんな話をしたっけな? 等と思い出しながらたどると、あっという間に時間が過ぎてしまう。でも、それは誰にとっても「あたりまえ」のこと。作者自身の体験を見せて欲しいです。場所はどこなのか。具体的になにを思いだしたのか。「Google法隆寺の前君とのキス」とか。

鉄平 評
自分の歳時記では「修学旅行」は季語でなかったが、歳時記によっては季語なのかもしれない。いまは初夏に行くことも多いので季語とした。いまはネット環境さえあればどこへでも行けてしまう便利な時代。修学旅行で行ったあの道、あの店、あの名刹。いま思い出すと顔が赤くなるようなハメをひとつふたつ外したことだろう。「思い出辿る」と一括りにせずに、具体的な場所や思い出とともにGoogleマップで作者の旅を辿り、楽しませてほしかった。ただ、長く俳句を作ってくると、つい頭の中で考えた句を作りがちだが、自分で体感した日常の出来事を素直に俳句にしようとする姿勢は、忘れていた気持ちを思い出させてくれた一句だった。

智 評
現代は、地図を見ながら、写真を見ながら旅の思い出を振り返るという情緒はなくなってしまったのだろう、という寂しさを感じさせる。英語での表記ではなく、片仮名の表記でよいのではないか。