俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第306回句会報告【兼題句/お題「空(そら)」】

f:id:yanagibashiclub:20200518155957j:plain

5月16日に行った第306回句会「兼題句」報告です。お題は「空(そら)」。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

下りしままの幕嗤う鴉の空 稚女

2点/選者=苦楽亭、すみれ

苦楽亭 評
広く、重く緞帳が下りている舞台。下りたままなのは、昨今のコロナ禍の影響か。緞帳にえがかれているのは深紅の夕焼けに真っ黒なカラスの群れか。鳴きながらとび回っている風景は、何か恐ろしい現実を隠すためか。カラスたちは叫びながら古巣へ帰ろうとしている。その隙間隙間、深紅の夕焼けから見え隠れしている人類のさまざまな不幸の記憶か、悪の残滓か。今ひとたびはその残酷な記憶は、しぱらくかくしておこう。読者はひたすらうつむいて不幸の現実から身をかくして置きたい。予定されていた芝居の題目はきっとダンテの「神曲地獄変に相違ないのだから。なんだか、ちっとも明るい兆しの見えない一句。こういう句もあったのですねぇ。

風樹 評
句評待ち

すみれ 評
自粛で演奏会・映画・演劇の中止。扉の閉まったままの劇場。空では鴉か飛び回る。「下リしままの幕」から、シーンと静かな空気が伝わる。その状況を嘲笑う鴉、「鴉」と「嗤う」の漢字の表現がよい。

与太郎
現状を詠んだ句でしょうか。幕と鴉が飛んでいる空が同時に見えるというところが、視点が定まりませんでした。

鉄平 評
察するに作者は気持ちの悪い状況なのだろう。もしかしたらコロナ騒動のことかもしれない。「下りしままの幕」「嗤う鴉」と表現が月並みで付き過ぎに感じた。

智 評
「嗤う鴉」という何となく怪しげな響きから、幕の後ろに隠れているものは何かという不安が感じられる。幻想的な印象を受ける。

 

指揮棒の空を切るとき山めざめ 風樹

天9点/選者=智、稚女②、すみれ、十忽、めんこ、宮原②、鉄平

苦楽亭 評
(の)ではなく(が)じゃないかな。(の)では、指揮者が見えてこない。

稚女 評
近景で指揮棒がふられている。指揮者の前方には山が遠景に見える。指揮者は縦横に指揮棒を振って合唱か合奏をリードしている。まるで山を縦横に切っているかの様に見える。いつしかクライマックスとなり山に陽が当たりまるでめざめたかの様に生き生きして見える。想像することが容易でしかも面白い一句と思いました。ただ、こうしたら、こうなったという言葉の並べ方より下五の山目覚めるから始めた方がより俳句的?と感じました。

すみれ 評
指揮棒は伯を刻むだけでなく、速さ・強弱・曲の表情など様々な表現をする。この句では指揮棒で空を切るとき( 大きく振ったとき)、山は目覚める(山は冬から春へと変わる)。指揮棒の力強さを感じる。季語の「山笑う」より「山めざめ」の方が力強い。

十忽 評
指揮棒の誰が指揮棒を振っているのか言及されていないが、中七の「空を切るとき」によって時間の経過を示している。季節そのものが時とともに移ろいで行くけれど、それを統御しているのは時間なのかそれとも神にも似た大きな存在なのか。空を切ったとき、のうちに山がめざめるという景色の大きさがいい。

与太郎
なんとなく、類句を見た気がします。空を切るという言葉が、あまり良い意味でない気がしますし、山めざめという擬人化かつ類型のことばに、新鮮味を感じませんでした。

鉄平 評
「山めざめ」は春の季語「山笑う」と同義と解釈した。ジャジャーンのところで指揮者はおもむろにタクトを構え、左から右へ真一文字に空(そら)をスパッと切った。すると魔法が解けたかの如く、冬眠していた山々が一斉に目を覚ました。ファンタジーなのだろうが指揮棒が空を切る事も山が目覚めることも比喩なので嘘っぽく感じてしまった。

智 評
空間を切り裂くような力強い指揮棒の動きが目に浮かぶ。動かざる山をも動かすような激しさは、怒りなのだろうか。

宮原 評
指揮棒というモチーフの選び方が秀逸だと思った。よく晴れた5月の空の下、指揮棒が向く先の緑が魔法のようにキラキラと輝き出して部分部分であった様々な色調を持つその緑は1つの壮大な「山」というシンフォニーに収斂されていく。音楽のイメージと相まって5月の山の爽やかで瑞々しい情景が目に浮かぶ。

 

記念日のハレがケとなる夏の空 十忽

1点/選者=智

苦楽亭 評
記念日では、なんの記念日かわからない。具体的に書いた方がいいのではないか。

風樹 評
「ハレ」と「ケ」はワンセットで考えられている。悪いことが起きると「明日はきっとよくなる」と自分を励まし、良いことが起きると「良いことばかりはない」と喜びすぎることを諌めたりしますね。まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」。この感覚は日本人の暮らしのメリハリとなって強い影響をとなっています。なにかうれしい記念日の「ハレ」もいまは苦しい「ケ」と考えよう。今世界の人がそのように我慢を重ねているのですね。せつかくの爽やかな初夏の日々であるのに。日々のニュースをみていると、なんだか大人が我慢をしなくなった、そんな気もする今日このごろです。なんだか、散文を読まされているようで。

稚女 評
なんの記念日だろう?公の記念日も年々増えているが個人的に夫婦や家族の記念日を作っていることも多いだろう。具体的な言葉はないので判断することはできないが夏の空自体のことなのか?あるいはケとなって思わず空を見上げたということなのでしょうか?

すみれ 評
イベントの中止や延期。記念日を祝う予定の「ハレ」の日が「ケ」となってしまった。記念日とは何の日だろう。夏の空を見上げてため息をつく様子を想像させてくれる。

与太郎
ハレとケという言葉が、使い古されていて新鮮味を感じませんでした。感動のポイントが良くわかりませんでした。

鉄平 評
夫婦の記念日だろうか。かつては記念日を祝っていたが、年を追うごとになあなあになってしまったのだろう。中七は単なる説明のような気がするし、前にも似たような句があったような。作者だけの体験、発見で表現してほしい。

智 評
今の世は記念日であってもそれを素直に喜べない空気が漂う。その陰鬱な気持ちが、爽やかな夏の空との対比により一層強く感じられる。

 

初夏の智恵子の空や熱気球 すみれ

3点/選者=苦楽亭、みみず②

苦楽亭 評
空の様子が分かりやすい。智恵子の空でも、東京の空ではないだろうな。

風樹 評
智恵子抄」は詩人高村光太郎が1941年に出版した詩集ですね。あまりにも高名過ぎておもわず空をみあげてたら、熱気球。「智恵子抄」という高村光太郎の詩集を前提とした一句。
いやなんです、あなたがいってしまうのが------この悲劇的な愛の強さ、重さ。まさに永遠の名詩集、美しすぎる悲しい詩編ですね。この歳になると身に沁みて重い詩編です。いやなんです、あなたがいってしまうのが----こんなに人を愛する迫力、愛の強さに、この一句、どうからんでゆけるのか。句のめざすところが何か、わかりません。智恵子の空は熱気球ですか。それだけですか。

稚女 評
福島二本松に生まれた智恵子はその故郷の安達太良山から見あげる空が本当の「空」という。この句は初夏、智恵子、空、熱気球という名詞だけで成り立っている。これらの材料から想像をたくましくして、この句を鑑賞してみました。なぜ初夏なのか、なぜ熱気球なのか、そしてそれらの句材がどの様に一つの世界を作り上げているのかを。初夏の智恵子が本当の空と言っていた彼女の故郷の空に今は色鮮やかな熱気球が上がっているよ。と解釈しました。この熱気球を智恵子が見たらどの様に言うのだろうか? ここに見える空も本当の空ではないというかもしれない。

与太郎
類型のものの組み合わせで、新たなものが生まれている感じがしませんでした。

鉄平 評
高村智恵子は東京には空がないと言った。「智恵子抄」を読んだことがないので「智恵子の空」がイメージできず、句の評価ができなかった。勉強不足でごめんなさい。

智 評
智恵子抄で「空が無い」と詠われたが、見上げれば初夏の青い空はやはりある。空があることにほっとした気持ちであるところに、思いがけず熱気球をみつけた小さな喜びが表現されているように感じた。

 

上の空で目刺焼く知らせ待ちつつ 宮原

2点/選者=十忽、鉄平

苦楽亭 評
句意不明

風樹 評
コロナ禍も何も、世の中のことはすべてうわの空。ボーッと生きてるんじゃねーよ!!  そうしてこの半年を生きてきました。実は今もまだ、明確に現実感を取り戻しているかと言えば、まだちょっと、うわの空。そんな私たちを空からながめている鳥の目を感じます。秋刀魚ならぬ目刺しを焼くという知らせとは、いったい何なのか。これはクイズなんですか。俳句なんですか。なぞなぞですか。どのような俳諧の「省略」があるのだろう。どのような俳句の静謐、俳諧の気配を感じればいいのでしょうか。

稚女 評
多分、この目刺しは真っ黒に焦げてしまったことだろう。上の空状態は良い知らせを待つ時も悪い知らせを待つときにもその思いが強い分上の空度も高くなってしまう。しかし、この句では待っている状態がとても俗っぽいので、恋人からの連絡や勲章授与の知らせなどではないだろう。トイレットペーパーが手に入ったかいなか程度のことかも。そんな想像を膨らませくれて楽しませてもらった一句。でも俳句としては詩はどこに?

すみれ 評
「目刺し」は春の季語。私の小さい頃は、口をワラで刺し貫いて干し上げた「ほほ刺し」を食べていた。「目刺し焼く知らせ 待ちつつ」・・・知らせを待っているのは誰だろう。関係が十分理解できませんでした。

十忽 評
上の空で何の知らせを待っているのか。コロナウイルスPCR検査の結果だろうか、それとも受験の合否の知らせだろうか。いづれにしても目の前の目刺しの焼け具合よりも気になることがあるという状態が、目刺しの頭というか目刺しの目つきそのものまでが上の空であるというふうに連想させられてしまう面白い句。

与太郎
「上の空」は(自分の)心情の説明なので、不要だと思います。むしろ、知らせを待つ心情を伝えてほしいです。

鉄平 評
作者は知らせを待っている。何をするにも上の空。なぜ上の空何か、良い知らせなのか悪い知らせなのか、この句から読み解くワードは無い。そこがチラリと見えれば読者は詩を感じられるのだろう。次に「うわのそら」を「うえのそら」にしてみた。すると句意は一変する。人間界の空のまた上の空で誰かが目刺しを焼いている。焼き網を手にたまにチラッと下を覗く。何やら知らせを待っているようだ。この場合の知らせとは不思議と「良い知らせ」のような、園山俊二の漫画のようなほのぼのとしたのんきさが伝わってくる。

智 評
何も考えずにただぼんやりとしてる中、目刺が焼けるのを待っているのは誰だろう。ゆったりとした中にも、知らせを待つ緊張感も感じられる。目刺を焼く香りが漂ってくるような気がした。

 

青い空帽子とマスクの隙間にも 与太郎

人4点/選者=風樹②、めんこ、鉄平

苦楽亭 評
句意不明

風樹 評
せっかくの青い空、気持ちのいい初夏のこんな日に帽子とマスク姿はただ事では無い防御の姿ではないか。それにしても帽子とマスクの間には何があるのだろう。作者はこの気持ちのいい1日に何を見、なにを聴いたのだろう。作者は「今も」といっている。してみればすでに世の中のあらゆる知覚器官に知れ渡っていることなのだろう。コロナ禍か、花粉症か、今盛りととびまわっている野鳥のひな鳥たちか。ただならぬ危機をはらんでいる一句。当然今年のコロナの脅威は忘れることは出来ない。もはや人類は最強の敵を生み出してしまったのだ。なすすべもなく、国家は手玉に取られ、さんざんの日々をおくっている。しかし、この帽子とマスクの隙間にも現れているものは人間の無力感、恐怖感、絶望感にまで育ってきた「気配」であろう。この気配こそ人類をおびやかしている何かに違いない。目にみえぬ気配、聴くことのできない気配の足音------、危機感か。かなり恐ろしい一句。帽子とマスクの隙間からも動き回っているそれはそれは恐ろしい悪魔の出現か。空はあくまでも澄み渡っている。

稚女 評
季語のない句ですが、上五を5月空にすればより季節を感じさせてくれる句になったのではないでしょうか? 青い空は1年中見ることができるけど、5月の空は独特の青さを感じるはず。現在のコロナ騒動の中、街行く人は帽子、マスク着用が習慣化している。下五の「にも」は「から」ならばいただきました。「にも」だと方向性に迷います。青い空の光が隙間から差し込んだのか隙間から真青なる空を見上げたのかで評価が違うので。

すみれ 評
五月晴れの空。街を歩くとほとんどの人はマスクをつけている。その風景をよんだ句なのか。下五の「隙間にも」の「にも」をどう捉えてたらよいのか?隙間に入っているのは何か?さわやかな空気?ウイルス? 何かは十分想像できなかった。

 

鉄平 評
空は青々と澄み切っているのに、帽子やマスクで防備しなければいけない辛さ。しかしそんな状況の中でも働かなければいけない、動かなければいけない。額に汗をし、呼吸をすればこの青空を感じことができる。小さく儚い青空を発見した。「青い空」と一括りにせず、「五月空」と季語でも良かったのではないだろうか。いまだからこそ感じられる空のほうがよかった。「にも」ももう一考ほしい。

智 評
人がどのようにあろうとも、気付けば自然はそのまま在る。早く帽子やマスクを取り去って、自然を体いっぱい感じたいという想いが表されていると受け止めた。

 

葉桜やカーテン越しに空を見る 智

1点/選者=与太郎

苦楽亭 評
葉桜でなくてもいい。

風樹 評
季節はながれ----毎年花見客で賑わう川筋の土手の並木も、今年はムダに桜が咲き、ムダに華やかな季節を装い。季節は流れ----すでに葉桜となって窓辺を装う。季節はやはり流れて行き、葉桜のカーテン越しに空を見る。季節感が強烈に詠われ、一定の情緒が流れ、俳句として季節を味合わせてくれる。しかし、それ以上の何も無い。すべて世は事も無し。以上ですか。

稚女 評
カーテン越しというのは、カーテンを開いてみるのではなくカーテン生地を通してみるということでしょうか? 今回の投句にはコロナ影響が色濃く感じられる句が多くみられますが、この句もコロナ禍のステイホームの句と思いました。平時の句として読むとなんでじゃ~? という疑問が湧きます。しかし、コロナ怖いの現在でもなぜ美しい葉桜をカーテンを開いてみないのか? 稚女は隅田川の周辺を人の少ない時間を選んで歩き、去年以上に桜見物は堪能しました。不自由を強いられた現在ですが、例年よりゆったりと桜の精と遊べました。

すみれ 評
カーテン越しに空を見ている情景だろう。若葉の葉桜も美しいが作者は皐月晴れの空を見上げていたいのだろう。

与太郎
桜の咲き始めから、葉桜になるまで、まともに外に出て見ることもなかった。見えるのはカーテンの隙間や、レースのカーテン越しに見える空ばかりである。現状を詠んだ句の中では、きちんと情景と瞬間を捉えていると思います。

鉄平 評
葉桜と初夏の空の青々しさを作者は家の中からカーテン越しに見ている。きっとコロナの影響で外出できないことを表現しているのだろう。上五の「葉桜」と下五の「空を見る」はどちらか片方で良い気がする。まだまだ推敲の余地がある句と感じた。

 

卯月なり手帳は白く空青く 苦楽亭

地5点/選者=智、稚女、十忽、みみず、めんこ

風樹 評
散文に近いのではないか。卯月は卯の花の咲く頃。卯の花月。卯浪とは風に揺れる卯の花を浪に連想したもので、やはり夏の季語。この季語があってかろうじて俳句の席に空席を見つけた。事情があって今年の手帳は何のスケジュールも入らない。ステイ・ホームというわけ。うむ、この季語と「空青く」の言葉は近いようですれ違ってしまう。感動もなにも起きない。ここに俳句のもつ緊張も、爆発も、感動も、心に響く事も何も無い。残念である。

稚女 評
この句もコロナに影響された一句なのでしょう。実際に私も一時、作句しようと試みてもすぐに頭に「コロナ」が浮かんできて驚きました。毎日、手帳をチェックして過ごしていた日常から目下は、日程を気にすることなく毎日が全て「我がもの」状態。その分、神経を使うことから解放されています。知人がこの時間を楽しんでいる不謹慎ながら……と手紙に書いてきましたが、確かに私もそんな気楽さも不謹慎ながらあります。その気楽さでこの句を読むと作者も同じ思いなのかもしれない「失礼かな?』と思ったりしました。

すみれ 評
4月は新年度のスタート。心弾む躍動の季節である。例年なら手帳はビッシリ予定が埋まっている筈だが、今年は空欄。「手帳は白く」で、寂しさが伝わってくる。

十忽 評
卯月なり中七の「手帳は白く」で、コロナの影響で仕事がないことを思わせる。ありきたりだが空の青さが卯月らしくて、手帳の白さと対称的である。そのありきたりな所に緊張感があっていい。コロナウイルスに言及することなく、自粛している状態までも思わせる句になっている。

与太郎
予定がないことを「白い手帳」で表現するのは、ありきたりだと思います。

鉄平 評
コロナ騒動で外出できず、今後の予定がなにもないということだろうが、出来事をそのまま言っているだけなので詩を感じられなかった。「卯月」もただ季語を置いたという感じがする。

智 評
葉桜の間から垣間見る空の美しさがうまく表されていると思う。空の色を白としたところも印象深かった。

 

葉桜の隙間を埋める空の白 めんこ

1点/選者=与太郎

苦楽亭 評
葉桜の隙間から見える空を埋めるとゆうだろうか。

風樹 評
よく晴れた日、初夏の木々の隙間から空が透けて見える。空が白いのは曇り空だったのか、あるいは何か意味があるのか。いや、この句の妙技は葉桜の隙間を発見した点にある。隙間に空の白。ふーむ。ノーアイディアだ。呆然としてしまう。この隙間に作者は何を発見したのだろう。

稚女 評
桜は蕾も5分も8分も満開も花の散る様子もそして葉桜も全ての状態を楽しませてくれます。しかしハザクラの頃になると季節の爽やかさもくわわって表現する言葉が見つからないほどの美しさを見せてくれます。若い柔らかな緑は新しい命を感じさせてくれます。この句の作者もそんな葉桜に魅せられてこの句を作られたのでしょう。しかし、空の色をなぜ白にしたのか、ここに作者の思いがあるのでしょうか?

すみれ 評
目を楽しませてくれた桜が散り葉桜の季節。葉桜の美しさにも惹かれる。私は葉桜の下で思いっきり深呼吸したくなる。下から葉桜を見上げると、葉の間に空が見える。下五は「空の白」と表しているが、「空の青」ではどうでしょうか?

与太郎
この「空」は「くう」と読むべきだろうか。葉桜の隙間は、本来であれば青い空が見えるはずなのに、いまはあくまで白い「くう」しか見えない。現状の中で、「くう」の「白」を発見したのが良いと思います。

鉄平 評
木漏れ陽から見える白い空は、作者の心の隙間を埋めてくれているような心持ちになったのだろう。それを「隙間を埋める」と解説してしまった。なので詩を感じられなかった。

智 評
葉桜の間から垣間見る空の美しさがうまく表されていると思う。空の色を白としたところも印象深かった。

 

送電線送るもの無く空の中 鉄平

地5点/選者=苦楽亭、すみれ、風樹、与太郎、宮原

苦楽亭 評
3月、4月の心の状態はそんな感じだった。つながってはいるのだが、呆然として何をどうしたらいいのか、言われたまんま。

風樹 評
深い森から森へ一列に並んでのびる送電線の波。送電線にはさまざまな情報や未来や、記憶や、伝統が送られている。森から森へ、村から村へ。しかし、ある時からこの送電線には何も送るものがなくなり、空の空気だけがカラン・コロンと流れて行く。森から森へ、村から村へ。送り手から受け手への何らかの決定があって、そうなってしまったのだ。受け手の疑心暗鬼はみるみる大きくなり、不審に満ちて、爆発しそう。送電線は立ち昇る不信の嵐の中に、不気味に、立ち続ける。不気味な、何かの予感に満ちた一句。訳も分からず、ただもうむやみに不安。現代の生活感を代弁しているようで、そうでないようで、この句は、読者に何かを伝えようと、必死なのに。

稚女 評
送電線は空を突き抜ける様に立っている。まさに空の中だ。しかしその送電線から送るものがないとはどの様な状況なのだろう?理解できませんでした。

すみれ 評
送電線の視点が面白い。会社・工場・店などの休業で電力使用量が少ない。高い鉄塔にかかっている送電線を見て、「送るもの無し」と作者は感じたのであろう。

与太郎
過疎集落の送電線だろうか。今はもう電気を送ることもなく、ただ空の中で風に吹かれて揺れている。中七が説明的だし、「送るものがない」というのは、本当に見えたり感じられたりしたのだろうか。そこが概念的だと、力強さがなくなってしまうと思います。ただ空の中にある、ゆられている、というだけのほうが、より情感が伝わると思います。

智 評
古びた、今は使われていない送電線なのだろうか。誰も見向きもしない無機質な冷たさの送電線が、空の中に走っている情景が浮かんでくる。忘れられたものの寂しさ、悲しさを感じた。

宮原 評
漫画アキラの世界が想起された。廃墟と化した都市の空をぼんやりと見上げれば送るもののない送電線が存在の価値をなくして空の中にただある。時勢と相まって少し怖くなった。