俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第299回句会報告【自由句】

8月17日に行った第299回句会「自由句」報告です。

 

炸裂を煙につつまれ花火果つ 苦楽亭

無点

風樹 評

詠んでいる内容は、花火が打ち上がり、花開き、果てるまでの状況を活写しています。解説そのままで、とても分かりやすい一句です。上五の「炸裂」という激しい言葉に、ただならぬ雰囲気が伝わり、何が起きるのかと期待が炸裂しましたが、ごくあたりまえのまっとうな花火でした。作者は何に感動し、何を伝えたいとおもったのでしょうか。感動は、どうも伝わりません。“たまやー!!”

稚女 評

上五中七のつながりがおかしい。炸裂が〜、あるいは炸裂は~が正しいのではないだろうか?言わんとしていることはわかるのだが、花火の音や匂いや情景が伝わってこない。

十忽 評

「炸裂を煙につつまれ」の上五、中七の因果関係があやふやである。

すみれ 評

夜空に色鮮やかな大輪の花火を打ち上げますが、中7・下5の「煙に包まれ 花火果つ」で、打ち上がらなかった花火の句。あっという間に終わってしまった花火、残念な声が聞こえそうです。

与太郎

それぞれの言葉の繋がりがよくわかりませんでした。

鉄平 評

勢いよく開いた花火が、強風により発生した煙に包まれ、良く見えないまま果ててしまった。なんとも冴えない花火です。状況を説明しているだけのように感じました。作者独自の発見を伝えてほしいです。

智 評

花火の一瞬の場面をうまく切り取っていると思う。

 

セミ鳴いて湯に瞑目の首二つ 稚女

人3点/選者=庵々、智、めんこ

苦楽亭 評

句意が平凡。

風樹 評

「瞑目」には、目をつぶっている状態の意と、人が死ぬことを表現する言葉のふたつの意味があります。一方の意味をとると、温泉につかっているふたつの首と、しごく当たり前の景で、いまひとつ面白くありません。上五の「セミ鳴いて」も効果を出していないようです。もう一方の意をとると、俄然謎が謎を呼ぶミステリー。さっそく明智小五郎かファイロ・ブァンスに登場いただかねばならない状況となります。癒しの一句なのか、ミステリーなのか、作者は両方の景を意識し、暗示させているのでしょう。さて、4つの首のミステリーでした。

庵々 評

全山あるいは近場の森か林からセミの鳴き声が湧き出て、際限なく湧き出してきて風呂場を包みこんでいる。静かな風景の中に湯につかる二人。温まる体は欲望という湯につかる。この面白さの中に瞑目がある。そんな面白さがある。

十忽 評

瞑目は大げさすぎ。「湯に目をつむり」で十分だとおもうのだが…。

すみれ 評

セミ鳴いてセミの鳴くのが例年より遅い夏だか、一斉に鳴き出したセミ。山の温泉宿の露天風呂に、目を閉じて浸かっている二人。日常の生活から開放され、のんびりとした気持ち良さが伝わってくる句。

与太郎

感動のポイントがよくわかりませんでした。

鉄平 評

どこか山奥の温泉でしょうか。湯には見知らぬ首が二つ。この二人の関係は同志か、はたまた夫婦か。あまりの心地よさそうな表情に作者は「この二人の魂はこの世にないのではないか」という錯覚を覚えたのかもしれません。「瞑目」から、中七下五だけでしたら、「作者の夢の中のお話し」となんとなくですが納得できたかもしれません。しかし上五の「セミ鳴いて」によって現実に引き戻されてしまいました。「作者の夢の中のお話し」のほうが好みだったので、取りませんでした。

智 評

夕方の銭湯の風景が目に浮かぶ。夏の日常をうまく表現してると感じた。

 

百万の足もと溶けるシュシュひとつ 与太郎

2点/選者=奈津、鉄平

苦楽亭 評

上5、中7と下5の関係がわからない。

風樹 評

パソコンのグーグルを開いて、「シュシュ」を理解しました。実物もチェックしました。しかし、「百万の足もと溶かす」ような発見はできませんでした。百万人の足もとなのか、百万円の足もとなのかもわかりませんでした。すみません、降参です。

稚女 評

降参です。わかりません。

十忽 評

高温に溶けるアスファルトの上のシュシュ。酷暑の風景だろうか。上五の「百万」と下五の「ひとつ」の対比をいとしたのだろうか。が、今ひとつ詩情が足りないように思う。

すみれ 評

「百万の」と言う表現から、たくさんの人の集まりを指しているのでしょうか?そこに、シュシュが落ちている情景を想像した。「足もと溶ける」の意味が十分理解出来ませんでした。

鉄平 評

アイドルの力は絶大です。見ているものを陶酔させ骨抜きにします。最近はグループアイドルが主流ですが、ひとりの人間がルックスで何万もの人間を虜にするのはすごいことですね。それを「シュシュひとつ」と表現したのはなるほどなあと思いました。ただ「足もと溶ける」という比喩は、もう少し考えてほしかったです。

智 評

足元まで茹だるような暑さのなか、シュシュに涼しさを感じたという場面であろうか。今一つ情景をうまくつかめなかった。

奈津 評

情景がよくわかる句なのですが、惜しいのは、どうしてシュシュだけに焦点を絞ったのか、「ひとつ」とした何かを想像させてくれるものがなかったのが残念。ただ「百万の足もと」の表現はなるほどと思いました。

 

樺林(かばばやし)朝蝉の声満満と 庵々

1点/選者=すみれ

苦楽亭 評

どこであろうと蝉の声が満々は平凡。

風樹 評

高原の朝、白樺林を蝉の声が満満と占めている。作者はそういう爽やかで素晴らしい朝を楽しんだのですね。よい夏休みでしたね。読者にもその時の感動を、少し分けてくださいよ。読者はみんな東京で、暑苦しい地下鉄に乗って汗かいているんですから。

稚女 評

樺林朝蝉の声満満ともう一つ物語って欲しい。朝蝉が林を揺るがすほどに声をあげていたよ…という事象のみではなく。

十忽 評

景が漠然としている。俳句としての新鮮さに欠ける。

すみれ 評

「樺林」から高原を思い浮かべた。早朝から、蝉の声がたくさん聞こえてくる。蝉の声で目覚めたのでしょう。清々しい朝の空気を感じる。林間学校を思い出す。

与太郎

「満々と」では「満々」感が伝わってきませんでした。

鉄平 評

樺林の朝の蝉の鳴き声に、作者は並外れた生命力を感じたのでしょう。ただ樺林でなくとも蝉の声は満ち満ちています。樺林の朝蝉だからこそ聞けた鳴き声はどんなだったのか。そこが知りたかったです。

智 評

夏の樺林に蝉の声が満ちていく情景が美しいと感じた。「満満」という表現も面白いと思った。自分ならもっと透明感のある言葉を使うと思うが、この方が静けさと力強さとがうまく表現できていると思った。

 

アボカドとお岩の体幹ひずみおり 鉄平

地4点/選者=奈津②、稚女、風樹

苦楽亭 評

この暑さを読んだのかな、アボガドとお岩が結びつかない。

風樹 評

お岩とは、「四谷怪談」のお岩さん。四谷怪談といっても地下鉄四谷駅の四谷ではありません。雑司ヶ谷四谷町(現豊島区雑司ヶ谷)が舞台で、我が家から近く。私の散歩コースのひとつです。それはともかく、作品を見ると「アボガド」とありますが、“アボカド”のまちがいでは?。いずれにしてもどちらも夏の定番。というわけでの両者の体感がひずんでしまうほど猛暑の夏の今日この頃を詠んだ一句でしょうか。なんだかよけい暑苦しくなりました。せっかくお岩さんが登場したのに、ちっとも寒くならないのは何故だ。

稚女 評

アボガドと知名度ナンバーワンの幽霊である、お岩さんを句材にしてしまった句だ。そう言われてみるとなるほど、両者の体幹は斜めに歪んでいるな~。どちらも季語でhないけれど、お岩さんが出れば夏の句だろう。視点のユニークさに脱帽。

十忽 評

お岩さんは、いずれは夏の季語になるのだろうか。ゆがんだ形のアボカドとお岩さんの共通点として体幹に着目した点が新しい。しかし、それ以上の何かに言及してほしかった。

すみれ 評

「アボカドと お岩の体幹」の関連が上手く繋がりませんでした。「お岩」は「四谷怪談」のお岩さんでしょうか?

与太郎

繋がりがイメージできませんでした。

智 評

ひずむ、とは何がひずんだのだろうか。アボガドやお岩さんの体幹に何かしらの外力が加わったということか。その外力を想像してみたが、うまくつかめなかった。

奈津 評

個人的に実在しないものがある句は避けてしまう傾向にあるのですが、この句のお岩さんについては、なるほどと感じました。顔の傷がアボカドの皮に見えるし、幽霊のふわふわした体幹を句にしたところがとても面白い。アボカドもどれも微妙に形が崩れているし、目の付け所が良いと思いました。

 

猫あくび破れ団扇にヤモリ居て 奈津

2点/選者=めんこ、鉄平

苦楽亭 評

ヤモリは団扇の絵?団扇にヤモリの絵は描かないだろうし、生きたヤモリだったらあくびなどしていないだろう。

風樹 評

縁側に猫がいて、破れ団扇があって、ヤモリも居て----世はまさに事も無し。猫と団扇とヤモリの三題噺が展開されそうな道具立て。さて、このあとにどんな俳が現れてくるのでしょうか。さあ、幕を開けて下さい。昭和物語の始まりです。

稚女 評

猫のあくびと中七、下五の関連性が不明だが、部屋の中にある日常的なものたちなのだろう。団扇、ヤモリは夏の季語で、ある夜の暑いいちにちの終わりの退屈な時間を描写したのだろう。私もあくびがうつりました。

十忽 評

いい風景だと思います。下五の「ヤモリ居て」だが、ただ居るだけでは物足りないように思いました。

すみれ 評

猫のあくびはのどかな光景。あくびは自分の立場や感情を伝える為に、動物に備わっている能力。この句では猫がヤモリを狙っているのか?偶然に、ヤモリが居た場面でしょうか?

与太郎

情景が散漫で視点が定まりませんでした。

鉄平 評

夏座敷の風景でしょうか。大あくびの猫。少し離れたところて、団扇に隠れたヤモリが破れ目から覗いている。猫はヤモリに気づいているのか、気づいていないのか、気づいていて興味がないのか。それを興味津々に見ている作者の姿が想像できました。ただいろいろと説明しようとして、逆に分かりづらくなっていると思いました。例えば句意が、猫が気づいていた場合「かぎ尻尾家守の通過許しおり」ではいかがでしょう。また気づいていて交戦状態の場合「猫の目と団扇の穴に家守の目」ではいかがでしょうか。

智 評

のんびりとした猫の姿と、緊張感のあるヤモリとの対比が面白いと思った。

 

糸ほどのカマキリ止まる花擬宝珠 すみれ

人3点/選者=庵々、十忽、与太郎

苦楽亭 評

景としては平凡だが、色彩の鮮やかさでいただいた。

風樹 評

真夏の日射しに負けずに、白や紫色の花を咲かせる多年草。花ギボウシのまっすぐに伸びた茎に、細くみどり色のカマキリが止まっていると詠んでいます。上五の「糸ほどの」がこの句のキーワードですね。作者は擬態の様子におかしみをかんじたのでしょう。この必死に生きるカマキリに作者自身を見たのかも知れません。ただ、俳句作句の常套手段の一つで、新鮮味もあまりないかな------。

稚女 評

花擬宝珠という植物を見たことがないけれど、橋の欄干の柱頭を飾る擬宝珠に似た形状のものなのだろう。花擬宝珠という音はとても素敵なのだが、糸ほどの赤ちゃんカマキリがそこに止まっていたよ…だけでは作者の感動は伝わってこない。せっかく素敵な素材を目にしたのだから止まるというだけの表現がもったいない

庵々 評

生まれて間のないカマキリの赤子をギボシの花の中に発見。夏と夏の季。

十忽 評

素直ないい句だと思います。糸ほどのカマキリと楚々としたギボシの花の取り合わせがいい。

与太郎

イメージはできます。

鉄平 評

何か白い、糸くずのようなものが花擬宝珠に止まっている。よくよく目を凝らして見ると、それは小さなカマキリたち。花に止まって遊んでいるのでしょうか。それとも卵から還ったばかりの状態なのでしょうか。読者は「糸ほどの」で何か詩を感じられるかだと思いますが、詩と言えるほどの深いものを感じ取れませんでした。

智 評

「糸ほどの」という表現が、小さないのちの儚さをうまく表していると感じた。動きがないところに、動きも感じさせた。

 

風死んで猫のあくびの長きかな 十忽

人3点/選者=庵々、みみず、稚女

苦楽亭 評

風が死んであくびするかな、死んでいた風が吹き始めたから大あくびするんじゃないかな。

風樹 評

「風死んで」に猛暑の気分がよく現れています。でも、その後の中七、下五がこれまた常套手段そのまま。いかに暑苦しくとも「風死んだ」あとの俳を追求してください。作者が苦しんだ分だけ、俳に鋭さと、本当の味わいが現れるものだと思います。

稚女 評

風のぴたと止まって湿度の高い夏の盛り、毛皮を着ている猫はさぞかし辛いことだろう、人間だって辛いさ、先ほどから代わり番こに大あくび。風死す…という夏の季語の存在を初めて知りました。共感いたしましたが当たり前の風景でもう一捻り欲しい。

庵々 評

風もなくただ油照りの日には、クーラーの効いた家の中や木陰などで寝そべったりしている。そんな真夏の一日を象徴する猫。いい感じの句です(こんな評はないか)。

すみれ 評

「風死んで」は風が止んだことでしょうか?猫は風の通り道を知っている為、涼しい場所にいて、あくびをしている情景。

与太郎

付き過ぎな気がします。

鉄平 評

風ひとつ吹かない晩夏、まだまだ暑い日が続いている。そんな中、猫の長あくびを目撃した作者。こんな暑いのに、そうして気持ち良く長あくびなんてできるんだろうと、逆ギレ気味なのかもしれない。8月の句会に「風死す」という晩秋の季語はちょっと早かったか、猫の長あくびに共感できませんでした。

智 評

風が死んだという静と、長いあくびという動との対比が面白いと感じた。厳しさと穏やかさがうまくつながっていると思う。

 

描きくれし友の白桃仏前へ みみず

人3点/選者=十忽、苦楽亭、鉄平

苦楽亭 評

生の桃ではなく、絵の桃の発想が良かった。よほど美味しそうな桃だったのだろうな。

風樹 評

「描きくれし」がどこにつながるのかで、句の意が変化してしまいそうです。友が生前ひたすらに描いていた白桃なのか、絵を描いて、描きくれて死んだ友なのか。友の白桃とは、友が生前育てていた桃の木なのか、読者の気持ちは定まりません。だから友の死が、悲しみを伝えてこないのです。

稚女 評

友人が白桃の絵を作者に贈呈したのか、桃そのものを作者はもらったのか。この句から読み取れませんでした。描く、くれる、とも、白桃、仏前と句材が多く、けれどその関連性が不明で、作者の思いはどこにあるのか読みとれませんでした。

十忽 評

絵手紙の白桃であろうか。描かれたとはいえ、白桃が一段と輝いて見える季節感に溢れたいい句だと思う。

すみれ 評

友人が描いてくれた白桃の絵。その絵を亡き友人の仏前に供え、懐かしい友人を偲んでいる句。お盆と重なります。

与太郎

なんか、難しかったです。

鉄平 評

友から亡き人に宛てに、白桃を描いた暑中見舞いが届いた。とてもみずみずしかったので、そっと仏前へ捧げる作者。作者の嬉しさ伝わってくる一句でした。上五の「描きくれし」が説明ぽいので推敲の余地ありと感じました。

智 評

仏前に供えられた白桃の白さを想像すると、美しさの中にも怪しげな感じもする。やはり先祖の霊を想像させるからであろうか。

 

迎え火の燃え尽きたあと涼風や 風樹

天5点/選者=みみず、智、苦楽亭、すみれ、めんこ

苦楽亭 評

静かな句、そう、迎え火の後に涼風吹くんですよ。先祖が並んで、お墓から出たり、家に入ってきたり。

稚女 評

迎え火、送り火とも次第に廃れてきて仏さんは迷っていることだろう。よく情景がわかる句ではあるが中七の燃え尽きたは「燃え尽きて」にしたい。燃え尽きたのだから「あと」はない方が時間の流れを感じられるのではないだろうか?涼風と共にご先祖の来訪を感じるのだ。

十忽 評

下五の「涼風や」の切れ字が気になりました。

すみれ 評

迎え火は玄関先で霊を迎える日本の風物誌のひとつ。燃えた後に、立秋を過ぎた頃に吹く涼しい爽やかな風を感じたのでしょう。昔を思い出し、我が家でも数年ぶりに迎え火をたきました。

与太郎

新たな感動が芽生えませんでした。

鉄平 評

俳句界では、送り火のあとになぜか風が吹きますね。過去の俳人からも、似たような句を目にした記憶があります。毒も薬も効いていません。作者が発見した迎え火を見せてほしいです。

智 評

魂は涼風に乗って浄土へと帰っていったのだろう。寂しさの中にも暖かさを感じさせる、日本の夏の風景がうまく表現されていると思った。

 

玻璃光り短冊の指揮風の唄 めんこ

天5点/選者=智、苦楽亭、与太郎②、すみれ

苦楽亭 評

上5が惜しい、短冊とくると七夕を想像してしまうが賑やかな様子がいい。

風樹 評

七夕祭りの短冊でしょうか。笹の木につるした短冊が風に揺れ、その風が短冊を指揮しているように見えたのでしょうか。風の唄が聞こえてきそうです。ただ、「玻璃光り」がわかりません。七夕祭りでは、何か玻璃(水晶、ガラス)が使われるのでしょうか。知識がなく、分かりませんでした。風に揺れる短冊越しにキラキラ光る日の光をあらわすのでしょうか。

稚女 評

風鈴そのものを詠んだ句といえよう。ガラスの風鈴なのだろう。ハリ光と詠まれているがなぜか光が感じられない。

十忽 評

風鈴が風に吹かれて鳴っている様を詠んだ句でしょうか。上五の「玻璃」、中七の「指揮」、下五の「風の唄」、どれもが気取り過ぎのように思いました。

すみれ 評

短冊は七夕の短冊か?大きく・小さく揺れる短冊を指揮しているのは風。風の微かな音を「風の唄」と捉え、「短冊の指揮」と言う言葉の表現が面白い。

与太郎

若干バラバラな気もしますが、人工物を介して自然の動きを捉えていて、気持ちよかったです。

鉄平 評

作者の夢の中でしょうか。辺りには色ガラスがキラキラと光っていて、ひとりでに短冊が動き出し指揮をする。それに導かれるように、短冊に書かれた願いを風が唄い出す。と、楽しそうな光景です。ただ、言葉も表現もたくさん詰め込んだ感じですので、もう少し整理し、抜くところは抜いてみてはいかがでしょう。さらりとした一句になるのではないでしょうか。

智 評

玻璃の輝き、風が奏でる唄を指揮をしているように揺れる短冊。日本の美しい夏が感じられる。美しく、比喩もうまく、情景が目の前に浮かんでくる。

 

湖上より音走りくる花火かな 智

天5点/選者=みみず、十忽、稚女、風樹②

苦楽亭 評

句が平凡。

風樹 評

私は湖畔で行われる花火大会を見たことはありません。それなのにこの一句で、おそらく実際に見るよりも数倍、数十倍リアルに湖畔の花火を体験させていただきました。ドーン・ドーンと音が湖面を走ってくる様子を、そして夜空に咲く巨大な花火の鮮やかさをも、感動をもって見ることができました。聴くことができました。

稚女 評

湖での花火の風景だろう。花火は打ち上げられて、花が開いて、そして音がやってくる。花火の良さは音にあると思う。打ち上げられ大輪を空に描き、そして音は湖上を走りくるのだ。この走るを疾走の疾の文字にしてはいかがか?    

十忽 評

夜空の花火の華麗さよりも、炸裂音に焦点を当てたところがいい。

すみれ 評

湖面に映る花火は美しい。打ち上げた時の湖を伝わってくる音を「音走りくる」と表現した句。 山に囲まれた盆地では山々に反響して大きく響く自然の音響効果を生む。浅瀬で爆発的して半円形に開く「水中花火」も想像した。

与太郎

前にも似たような句を見たような気がします。ここで。

鉄平 評

俳句で水面に音が走るという表現は月並みに感じました。

 

↓ 兼題句はこちら

yanagibashiclub.hatenablog.com