俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第307回句会報告【自由句】

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6月20日に行った第307回句会「自由句」報告です。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

梅雨入りてアマビエ五洋を泳ぎけり    鉄平

1点/選者=めんこ

苦楽亭 評
コロナがなければ知らなかったな。梅雨入りだと6月。そろそろ収束に向かっている。上5を年号にしても面白かったんじゃないかな

風樹 評
アマビエが不明。もし、なにかで見た話題の縁起物の意であれば、もうそれ以上、読者の一人としては読む気が失せてしまう。国家の、世界の心配事なのですよ、コロナ問題は。危機感も恐怖もなく、いや、ないように見えてしまうのです。2020の年は、今後の世界史に確実に書き残される事件ではなかったでしょうか。世界でどれくらいの人が死んでいったでしょうか。俳句はそんなに軽いものでもなく、手玉に取るテーマだったのでしょうか。「梅雨入り」という季語が悲しむだけではないか。季語の重さをもう一度確認して欲しいと思ってしまいました。

稚女 評
梅雨入りてアマビエ五洋を泳ぎけりアマビエというのコロナ渦中で急に出現してきた感じですが、様々な災を予言する妖怪とのことです。妖怪にしては少々滑稽で、その姿はユーモラスでさえあります。近辺の和菓子屋さんにはこの妖怪を模した新製品が出現しています。願わくばアマビエの力で世界をコロナから救って欲しいものです。俳句としては、「泳ぎけりで」はインパクトが弱い。もっと適切な動詞が欲しい

すみれ 評
今年でないと(コロナの時代)作れない句。アマビエは日本に伝わる妖怪。世界の海を泳いでコロナを鎮めて欲しいと願う作者。上五の「梅雨入りて」の「て」が気になった。「梅雨の入り」ではどうでしょうか?

与太郎
時勢を詠んだ句なのでしょう。疫病を退散させるというアマビエという妖怪が、世界の海を泳いだという。しかし、梅雨との関連性がよくわからないですし、「五洋」を「泳ぐ」という表現が、しっくりきませんでした。「渡る」の方が良いのではないでしょうか? もしくは「股にかけ」とか? 仮に、アマビエが世界を席巻したから何だというのでしょうか。世界中の人々が藁をもすがる思い、ということに心が動いたのでしょうか? 今ひとつ感動のポイントがわかりませんでした。

智 評
時事ネタに走り過ぎている感じがしてしまった。

 

八幡の鐘の音遠く蛇出づる    智

1点/選者=宮原

苦楽亭 評
「はちまん」「やはた」、八幡をどう読むか「はちまん」なら鐘ではなく鈴じゃないかな。上五の「の」はないほうがいい。

風樹 評
生ぬるく、生温かく水蒸気たっぷり含んだ空気。肌にまといつくような景といったらいいのか、遠くで八幡様の鐘がゴーン。どうもさっぱりしない景にまといつかれ、夢のような世界観になってしまいました。夢といっても決してハッピーなものではなく、ちかごろよく見るなんともいえないわびしさの感に埋め尽くされた、得体の知れない夢なのですよ。朝目がさめると、いつまでもその感覚が、しばらくのこってしまうような。この句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」というわけにはいかないようだ。ウーム、空は茜色に染まっているだろうか。

稚女 評
八幡様は日本の各地にある神仏混交の神社であったようだ。この近くだと富岡八幡宮神社が有名だ。蛇穴を出づは春の季語だ。八幡の神様にコロナ退散を願いでたが神通力も及ばず、冬眠の蛇も眠りから覚める季節になってしまった。そんな句意だろうか?中七にもっと強い言葉が入ると的確に伝わるのではないかと思いました。

すみれ 評
八幡神社(宮)は私にとっては村の鎮守様でした(大分県宇佐神宮を総本社)。鐘の音を聞いて蛇は出てきたのか?作者が鐘の音を聞いている時に、蛇は出て来たのであろうか?
季節を夏と捉えるなら、「蛇出づる」を蛇が自由に動き回る様子でも良いだろう。

与太郎
季節感があまりにも違いすぎませんか? 八幡様(神社)の鐘の音が遠くに聞こえる。そのせいか蛇も穴から顔を出したようだ。鐘が鳴ったから? 遠いから? よくわかりませんでした。

鉄平 評
八幡神武家が信仰した武運の神様だそうな。中七の「鐘の音遠く」とは鐘の音を遠くで聞いている状態か、または神社から鐘の音が遠くへ響いている状況か、作者の立ち位置がわからない。例えば法隆寺なら行ったことはなくともどんなところかは分かり、イメージする材料となり得るのだが、全国にある八幡神社だとイメージはおぼろげだ。なので「蛇出づる」もどういう場所でどうして出てきたのかイメージが湧かなかった。

宮原 評
八幡様は今となっては全国各地でごく身近に親しまれている神様になっていて遠くから聞こえる鐘の音ものどかなものだが、もともと武運の神として信仰されてたと考えると民話のような世界観が立ち現れるようだ。おずおずと辺りの様子を伺いながら出てきた蛇は遠い昔、戦から逃げ延びてじっと身を潜めていた落人の化身のようにも思えてくる。様変わりした世界を目にした蛇も驚いたことだろう。

 

家守(いえも)りや会わないわけのありかかな    与太郎

1点/選者=めんこ

苦楽亭 評
家守りやをどう読めばいいんだろう。大家、差配人、家主、家賃を取りに来た大家、居留守を使っている、ありかか。

風樹 評
江戸時代には、主人の不在の家屋敷を預かりその管理、維持に従事する「家守り(やもり)」という職業があったという。今、やもりとはとかげの一種、どこかに潜んで家を守っているという言い伝えがのこっている。日常、家の中でヤモリに会うことはほとんどない。どこに潜んでいるのか、会わないのはきっと訳があるんじゃないかと作者は思っている。そっとどこかにひそんでいるヤモリを忍んで、考えてしまうのか。家守りをやもりと読み、「かな」でおわる。そこのところなにか工夫がほしかったな。どうもいまいち、句意がどこにあるか、ヤモリのようにどこかに潜んでしまった。

稚女 評
無季の句。家守りとは「家の番人」と辞書にあった。上五は切れているので、会わないわけが家守りにあるということではないのだろう。ただ、ありかというのはある場所、所在している場所と解釈すると上五と関係しているのか?読めば読むほど分からなくってしまった一句でした。きれ字二つが生かされているのだろうか?

すみれ 評
垂直なガラス面等にも張り付いて活動する家守。人の見えない所に住む家守はなかなか人には会わない。下五は「すみか」と表現しないで、「ありか」と表現した点が良い。切れ字は一つでも良いのかな?

鉄平 評
会わない理由はコロナの事だろうか。理由の在り処とはなんだろうか? なんとなく家庭を守る主vsコロナの句なのかとは思ったが表現が遠回しで意味が分からなかった。上五の「や」切りも分からない。「や」「かな」の切れ字二回は敢えてそうしたのか、それとも単純なミスなのだろうか。

智 評
「や」と「かな」の二つの切れ字が入っていて、表現が強すぎる印象。

 

我慢して我慢しきれなくなって牛蒡のび    風樹

地3点/選者=稚女、苦楽亭、鉄平

苦楽亭 評
面白い句だ、人参でも、大根でもいいのだろうけど牛蒡にしたのがいい、派手さはなく、色黒で影の立役者牛蒡の切実さがうまく詠まれている。

稚女 評
無季。日々我慢を強いられることの多い生活が数ヶ月続いていて、ちょっと突っついたら爆発してしまいかねない程、切羽詰まった状態で過ごしている方も多いようだ。牛蒡の生態は知らないけれど、あの地味な植物にもストレスがあり、それを感じるたびに丈を伸ばしているのかもしれない。中七は九文字を使って我慢の限界になった牛蒡を伸ばしたのかな……。

すみれ 評
牛蒡は春蒔きと秋蒔きがある。この句は秋蒔きの牛蒡が育っている風景でしょう。我慢は牛蒡を掘りたいが、大きく生長するのを我慢して待つ。我慢しているのは作者ではなく、牛蒡かもしれない。中七を短く表現したらどうでしょうか?

与太郎
ごぼうの気持ちを読んだ句でしょうか? ごぼうは本当に我慢しているのでしょうか? もし我慢しているのだとしたら、もっと我慢しきれなくなった感じがわかるように伝えてくれると良かったです。

鉄平 評
時期的にどうしてもコロナを連想してしまう。外出禁止の我慢。普段は籠るのが好きな人間でもこれだけ長引くとストレスがたまる。世界規模と化した黒人差別デモの多数はストレス発散目的だろう。しかしそんな事は無関係と畑のごぼうはすくすくと育つ。羨ましい限りだ。憎らしささえ感じる。中の句をたらたらと11文字にしたのは意図的にだろうか。「我慢して我慢しきれず牛蒡のび」では印象が変わるが、かたや11文字は作者が登場しすぎな気もする。

智 評
擬人化するのではなく、「我慢する」を何か別の言葉で表現できるといいと思った。

 

枇杷熟す自転車の向き少し変え    めんこ

天9点/選者=風樹、智、宮原②、十忽、与太郎、すみれ、鉄平②

苦楽亭 評
自転車で走っていて枇杷の実が目に入ったので向きを少し変えた。下5は「少し」にしたがるのだが、ここは工夫が必要だと思う。

風樹 評
庭の枇杷の木に実が成り、熟しはじめました。少し重そうに枝がしなり、いつものように自転車を止めようとすると、枇杷の実が邪魔になっていつものように止めることが出来なくなりました。しかたがないので自転車を止めるいつもの向きを変えてみることにしました。ほんのちょっとした日常の変化をクローズアップした一句。季節の変化を日常の中で的確にとらえ、見事に表現されている。ほんのちょっとしたことだけに、より強く季節感のリアリティが現れてきた。作者に敬意である。

稚女 評
季語は枇杷で夏。この時期、たわわに実をつけた枇杷の木をよく見かける。優しいオレンジ色の果樹だ。一本の木にかなりの数の実をつけるようだが、売り場に出された枇杷は結構お高い。だから道端からちょっと手を伸ばせば取れそうなものを見つけると「なんとか取れないかな~」と思ったりする。もしかしたらこの句も自転車の向きを変えて、なんとか取れないか……ということではないかな~。だって、食べ頃に熟しているのだもの。それをもう少し明確に伝えて欲しい。

すみれ 評
枇杷の産地は千葉県。自転車で枇杷狩りに出掛けた時の一場面。「向き少し変え」はちょっと遠回りして行く為、向きを変えたと理解した。初夏の風を感じて気持ち良さそう。

与太郎
枇杷には不思議な力が宿っている。それはあの色のせいかもしれない。緑の中ではっきりと見える色。しかし柑橘のような鮮やかな色でもない。おそらくその色が、自転車の向きを「少し」だだ変えさせるのだ。「少し」をもう少し違う表現にできなかっただろうか。もう少し、納得できる表現に。

鉄平 評
戸建ての玄関前には自転車と枇杷の植木鉢。いつもは自転車に隠れている枇杷だったが、今日玄関を出ると枇杷の実が赤々と熟している。そこで枇杷がよく見えるようにそっと自転車の向きを変えた。この小さな所作に作者の喜びと、枇杷へ向けた優しい眼差しが良く見える。

智 評
自転車に乗っていて、ふと熟した枇杷の香りに気付いたのだろうか。その気付きを人そのものの動きではなく、自転車の動きで表現したところがよかったと思う。

宮原 評
今にも落ちてきそうな、たわわに生った枇杷の実を自転車のカゴで受け止めるために位置を調整している場面だろうか。「少し」だけ変えるところが、「枇杷にあまり執着しているわけではないけれど、まあせっかく落ちてくるのであれば...」という誰にするわけでもない言い訳のようで何ともいじましいというか、滑稽というか、人間味があってユーモラスな句だと思った。うまい具合にカゴの中に枇杷が落ちてくることを願うばかりだ。

 

らっきょうの皮剥きつつ子あやしつつ    宮原

地3点/選者=風樹、稚女②

苦楽亭 評
柳橋句楽部の女性の誰の句だ孫をあやす女性はいても、子をあやす女性はだれだ

風樹 評
幼子を育てる母の句。らっきょうの皮を剝くことで母の肩が少し動き、幼子をあやしている。美しい景だ。景が目前にイメージされよく見える。そして、この景を見ている作者の眼差しのなんと優しげであることか。もう一つ言えば中七の「皮剥きつつ子」下七の「あやしつつ」の繋がりとバランスに俳句のバランスの妙を感じてしみじみと楽しませてくれました。

稚女 評
辣韮をあまずに仕込む季節になった。私は経験したことはないけれど、ひげ根をとって、皮を剥いて甘酢につける夏の食べ物だ。辣韮の丸い形と乳児の丸い笑顔がすぐに頭に浮かんで、それに剥きつつ、あやしつつがうまく呼応して楽しい一句と思いました。

すみれ 評
ラッキョウを漬ける準備。根と茎を切り、洗う。外皮のうす皮を取り除きながら、ぐずる子どもを宥めている光景。頑張るお母さんの姿が見えてくる。

与太郎
なんとなく新鮮味を感じませんでした。らっきょうの皮をむくことが生活に密着していることは、これまでもよく言われているような気がします。皮「を」とし、「子」をとっても良いのではないでしょうか? 「らっきょうの皮をむきつつあやしつつ」

鉄平 評
夕飯の用意をしつつ、泣く子にミルクを与え、なんならデスクワークも兼ねているかもしれない。いつの時代も子育ては慌ただしい。掲句はおんぶをしながら皮剥きをしているなど、一箇所で作業をしているのではなく、台所で皮剥きの途中に泣く子をあやしに子供ベッドへと家の中をかけずり回っていると取れる。数十秒の動画であるが、YouTubeで子育ての趣味映像を見せられている感じで、詩としては弱さを感じてしまう。動かぬ写真を見せてほしい。その一枚で作者が伝えたかった、子育ての慌ただしさを表現してほしい。

智 評
「つつ」が続くのはややくどい感じがした。

 

雨やんで砂粒ほどのかたつむり    十忽

地3点/選者=与太郎、すみれ、めんこ

苦楽亭 評
とても可愛いい句、小さなかたつむり見たことあるが、神の傑作だなもう一点あれば頂きたかった、中7がいい、そんなに小さくはないけど

風樹 評
そんな小さなかたつむりがいるのだろうか。どうもいまひとつ景が見えない。雨後のかたつむりはもっと堂々としていなかったかな。砂粒ほどじゃあなかなか発見もしにくい。カタツムリは夏の季語なのだけれど、この句どうも印象が浅い、パワーが弱い。句が一気に季語に集権してしまっているためであろうか。

稚女 評
かたつむりは夏の季語。雨とかたつむりはよくセットに表現される。この句では雨が止んだ後に作者がみたかたつむりが砂粒ほどであったということだ。砂粒ほどという表現だけでは感動が薄い。砂粒ほど小さいかたつむりを描いて、想像の幅を広げさせて欲しい。

すみれ 評
6月と言えば、紫陽花とかたつむり。2m mほどの小さなかたつむりを葉の上で見つけることがある。かたつむりの小ささを「砂粒ほど」と表現して分かりやすい。

与太郎
おそらくそのかたつむりは、雨の使者で天から使わされたのでしょう。情景はとても良い気がします。しかし「砂粒ほど」ではたとえが微妙。ここを練ってほしかったです。

鉄平 評
砂粒ほどのミクロなかたつむり。虫眼鏡などでないと肉眼では見えないだろう。そのような状況は垣間見えないので、作者の想像上のかたつむりだろうか。それにしても作者はなぜ雨が止むと砂粒ほどのかたつむりが見えるのだろうか。想像を巡らしてみたが作者の真意は伝わらなかった。

智 評
「やんで」で次につなげるよりは、一度切ってしまった方がすっきりとした表現になるように感じた。砂粒ほど小さいかたつむりがいるのかというのも疑問だった。

 

首里城の彩漆絵や半夏生    すみれ

地3点/選者=智、苦楽亭、十忽

苦楽亭 評
沖縄の空の青さ、焼け残った残骸の彩漆絵。形あるものは滅びる。それとも彩漆絵の器、漆器なら東京でも見られる。沖縄は夏が一番似合う。半夏生がいい。

風樹 評
最近書失してしまった首里城の姿。漆絵の印象はなかったが、その絵が消失したあとも影となって首里城のイメージを残しているような。半夏生は夏の季語だが、なぜか「上五・中七」とけんかしない。半夏生にはさまざまな禁忌があり、物忌みをする風習があったからだろうか。何の不自然さもなく、この句を季語が支えている。何の文句もありません。なんの手抜かりも瑕疵もありません。ただ一句が流れて行く。首里城の悲劇も、何もなかったかのように。

稚女 評
半夏生は7月ごろの季語。この季語は農家では田植えが終わる頃でこの日の天候によって稲作を占ったり、地方によっては色々の風習や物忌が守られる……そこから判断するとこの句には動詞はなく、火事にあって焼けてしまった首里城の美しい漆絵を改めて思い返しているということなのでしょうか?もう少し語って欲しい。

与太郎
首里城の彩なす美しさは漆絵である、夏だなぁ。なんだかよくわかりませんでした。

鉄平 評
作者は首里城の色漆絵を読者の眼前につきつけた。そして半夏生半夏生だと言う。まず首里城の色漆絵とはどんな作品なのだろう。ググッてみる。便利な時代だ。うん、なんとなく想像していたものと一致する。で、半夏生だ。これがさっぱり分からない。頭に浮かぶのはインターネットで検索した作品画像と漢字三文字の半夏生だけ。それ以上はなにも浮かばなかった。

智 評
かつては鮮やかだった首里城は今は無残に燃え尽きてしまっている。そのもう戻らない鮮やかさを、ハンゲショウが半分白くなってくる、単色ではあるが自然の持つ美しさが目に見えてくる季節に託していると感じた。

 

一匹滑り落つ銭亀の甲羅干し    稚女

1点/選者=十忽

苦楽亭 評
亀の甲羅干し、俳句として作りやすいのかな。

風樹 評
わからないなー、イメージが浮かばない。こうした風景に今まで会ったことがなく、経験もないので、景がまったく見えない。こんなこともあるんだね。第一銭亀という亀がどこにいて、どんな生活をしている亀なんだろう。うーん、わからない。降参です。

すみれ 評
夏に生まれた石亀が池にかたまり甲羅干し。 親亀の上に子亀が乗り滑って落ちてくる。この動作を繰り返す亀の子。この様子は可愛いい。どの様な落ち方だったのかな?

与太郎
下五で説明する必要はないと思います。一匹滑り落ちた、そのことだけを読めば良いのになぁ。「銭亀の一匹すべり落つゆうべ」だけで十分な気がします。

鉄平 評
亀の子供が親亀の甲羅から滑り落ちた。「一匹」とあるので何匹か重なっていたのだろう。さほど珍しい光景でもなく、重なり落ちる亀も見たことがある。作者はなぜこの光景を句にしたのだろう。裏側になにかあるのかもしれない。しかし、この19文字以上のものを感じることはなかった。

智 評
情景は浮かんでくるが、そこからの広がりがあまり感じられなかった。

 

六月に柝音高々幕降りる    苦楽亭

人2点/選者=智、すみれ

風樹 評
「柝」をなんとよむのか。PCを尋ね、「合本俳句歳時記」第三版を当たり、角川「新字源」(改訂版)を覗いても行方をつかむことができませんでした。高々と幕が降りるとあるから、何か大きな舞台のことなのか。とすると、もしかしたら歌舞伎の六月公演か何かか。ここらで降参です。

稚女 評
柝音とは拍子木だろう。火の用心で巡回するのは拍子木を打って警戒を促すことで、6月に高々と柝音がなって私たちは用心怠りなく過ごすことを促され、そして様々な日常生活に幕が降りてしまった。目下のコロナ下の閉じられた日々を詠まれた句であると思いますが、この句では下五を「幕上がる」にしても一句が成立してしまう。ここに何か幕の降りてしまう必然を感じさせるものがあればと思う。 

すみれ 評
柝音は歌舞伎や文楽などでは舞台を進行する合図として柝を用いる。狂言作者の仕事だそうだが、この仕事を6月で終わろうとする人の人生を「幕降りる」と表現したと捉えた。又、ただ単に閉幕と捉えるのか?快い柝の音が響き渡る舞台を思い浮かべた。

与太郎
六月である意味がわかりませんでした。

鉄平 評
歌舞伎の光景。拍子木がチョンチョンと鳴り幕が降りる。歌舞伎を知らない人でもテレビや漫画などで見たことはあるだろう。幕引きなので音が高々も当然だろう。当たり前の光景をそのまま文字にした句。多分作者は「六月の幕引き」としたかったのではないだろうか。もしそうなら「六月に」ではなく、「六月へ」だろう。

智 評
歌舞伎の場面であろう。柝の音を叩く人の動き、高々と響く音の「動」。幕が降りていくという動きのある中に感じる静けさ、終演の寂しさの「静」。その二つの対比がうまく表現されていると感じた。

 

咳をする人居る静かな都営バス    みみず

地3点/選者=風樹、苦楽亭、与太郎

苦楽亭 評
今はそんな時なのかな、遠慮がちに咳をする、はばかって様子がわかりやすい、静かな都営バスがいいな   

風樹 評
今どきバスの乗客もみなマスクをしている。静かである。そんな中に咳する人がいればもう、大注目、注目を集めるまなざしは、しかし、ちょっと避難めいている。咳をした人も、特別の思いがあるわけでもなく、バスの中は一挙に針のむしろである。ついうっかり咳をしたばっかりに、こんな気まずい空気にかわってしまった。あいにく降りる駅もまだ先だ。この静けさは何だ。どーしろというんだ。さぁ、ドースル! ドースル!

稚女 評
席は冬の季語。冬季に咳、くしゃみなど当たり前で例年ならば大して意識することないのに、コロナ渦中の今、咳、くしゃみは険しい顔を向けられるようだ。この句では席をする人はいるけれど、乗客は都営バス車内は静かだよ。という意味でしょうか?

すみれ 評
今は静かな乗り物の中で、うっかり咳は出来ない。周りの人の視線が集中する。「静かな」と表現せずに、静かな状況を出せたらなと思う。

与太郎
現在の状況を、淡々と見守り、淡々と描いていた共感がもてました。ただ「静かな」は説明的すぎると思います。「静けさ」をもっと伝えてほしかったです。「咳をする人ひとりいる都営バス」

鉄平 評
日常的な光景の中の些末なストレス。だが、このコロナ禍では下手をすれば命にかかわる出来事だ。「怖いなあ、自分も気をつけなきゃ」とふんどしを締め直すきっかけにはなった。しかし「する」「居る」「静かな」など表現が散文的で説明っぽく感じる。不要な言葉を削いでいく事が俳句表現の基本では。

智 評
ありきたりな場面を切り取っているだけの印象だった。報告句で終わってしまっていると思った。