第297回句会報告【自由句】
6月15日に行った第297回句会「自由句」報告です。
- 祭り子のちょっぴり照れて尻出して 稚女
- 靴紐を結び直して水芭蕉 みみず
- 靴脱いで外苑歩く梅雨晴間 庵々
- 紫陽花は雨待ちこがる田も畑も 智
- 雨蛙途方に暮れて振りかえる 風樹
- はみ出してる若葉が好きでハイタッチ すみれ
- 水郷の州てっぺんに黴の風 鉄平
- 名刺入れ空っぽになり花は葉に めんこ
- ケの日には白い和猫とアジを食う 十忽
- 秒針をあとかたもなく流れ雲 与太郎
- 緑球の七変化はまだ子紫陽花 苦楽亭
祭り子のちょっぴり照れて尻出して 稚女
1点/選者=庵々
苦楽亭 評
祭りの季節のよくある景、なんとも微笑ましいのだが、あと1点あれば取る句。
風樹 評
子ども達が褌一丁で夏祭りに参加。そんな季節の風物の一場面を活写した一句。「ちょっぴり」の語は、照れる子供を表そうとの工夫か。ちょっぴりあざとさを感じてしまう。よく取り上げられる題材なので、何か新しい視点、新しい発見、あるいは展開などよほど工夫が必要なところでしょうか。
庵々 評
作者の工夫(下5)が効果的。
十忽 評
子供の仕草やお尻が云々という言葉にはもう詩を感じない。
すみれ 評
五月の祭りというと、三社祭や神田祭…。下五の 「尻出して』で、幼子の法被を着てワクワクしている気持ちや祭りを楽しみしている様子が感じられる。
与太郎 評
祭りで尻出す句が多いですよね。
鉄平 評
可愛らしいお尻なのでしょうがそこまでの感想。詩は感じられませんでした。説明だけになってしまっているからでしょうか。どんな照れ方なのかや、どんな尻だったのかなど、もうひとつ突っ込んだ発見を見せて欲しいです。
智 評
ほのぼのとした句だが、ちょっと単調に思えた。
靴紐を結び直して水芭蕉 みみず
地4点/選者=智、十忽、すみれ、風樹
苦楽亭 評
場所は尾瀬かな、素直な句でいいのだが、響いてくるものがない。
風樹 評
靴紐を結び直すためにかがんだ先に水芭蕉が咲いていた。かがんだ姿勢と水芭蕉との因果関係にわざとらしさを感じてしまった。水芭蕉は主に湿原に群生する植物ですから、作者はあらかじめ水芭蕉をすでに見ているはず。立っていようが、かがんでいようが水芭蕉。それが真実ではなかったのでしょうか。何だかその嘘くささは一句全体に影響を及ぼしかねない苦しさがあるように思えてしまいます。
稚女 評
尾瀬の木道を歩いた日のことを思い出しました。初夏に咲く、水芭蕉の美しさ、爽やかな風、尾瀬が原と尾瀬沼を回るには歩きやすいとはいえ、かなり歩いた記憶があります。この句は緩んでしまった靴紐と水芭蕉のみで作られていますが作者が伝えたかったものを描ききっていないのではないでしょうか?
十忽 評
水芭蕉を観賞するにあたり、靴紐を締め直して木道へと入っていくまでの一連の動作が良く見える。また、しゃがむことによって水芭蕉までの距離が近くなり、群れ咲く様子が広がりを感じさせる。
すみれ 評
水芭蕉というと、まず、尾瀬ヶ原と「夏の思い出」の歌が頭に浮かぶ。中七の「結び直して」で、「さあ、水芭蕉を見て来るぞ」と言う、作者の意欲が感じられる。「木道」を歩きながら、「どんな植物や生き物に出会うことが出来るのだろう」と言う楽しみがこの句にはある。尾瀬ヶ原の爽やかな風も感じる。
与太郎 評
季語との関係がわかりませんでした。
鉄平 評
靴紐を結びなおしたら突然水芭蕉が現れたのでしょうか。うーむよく分かりませんでした。作者は水芭蕉の何に感動したのでしょうか。「靴紐を結び直す」で何かを感じさせる表現がうまく生かされていない気がしました。
智 評
靴紐を結び直したときにふと目に水芭蕉が写り込んだ場面だろうか。ふとした日常の中の一場面をうまく切り出していると思った。
靴脱いで外苑歩く梅雨晴間 庵々
1点/選者=すみれ
苦楽亭 評
梅雨時の水たまりの中を歩いたら当たり前かな、梅雨晴れ間になぜ靴脱ぐ。
風樹 評
裸足でぬれた芝生の上を歩くと気持ちいいですよ、すがすがしいですよ、との一句。とりたてて言われなくともよく分かっていますよ。単にスケッチ画を見せられた感じです。それならばたとえば「裸足で外苑梅雨晴間」と言えば済みます。ここで一言、作者独自の鋭い感性が生きてくるのでは無いでしょうか。私たちはそれを読みたいと思います。
稚女 評
裸足で雨上がりの土の上を歩くなんて気持ちが良さそうです。靴脱ぐを裸足にした方がもっと気持ち良さそうに感じる、外苑ももっと特定の場所名「外苑内の」にすると映像がイメージできるのではないでしょうか?
十忽 評
靴を脱いだ理由がよくわからない。なぜ外苑なのかもわからない。そのときの感覚の在り方によっては詩的と受け止められる場合もありそうだが、句としては弱い。
すみれ 評
なぜ、「靴脱いで」なの?カラッとした天気の梅雨晴間。突然、気持ち良くて靴を脱いで歩いたのか?靴が濡れていた為、脱いだのか?神宮外苑のいちょう並木を想像。作者が他人の様子を見たことも考えられる意外性の句。
与太郎 評
梅雨の晴れ間に裸足になると、まだ下は湿っているので気持ち悪そうですね。
鉄平 評
梅雨の晴れ間がうれしくて、思わず素足になったのでしょう。「脱いで」「歩く」と動詞が多いので、説明ぽく、せっかくの素足の気持ちよさが、あまり気持ちよく感じられませんでした。
智 評
情景は浮かんでくるが、そこからの広がりが感じにくかった。
紫陽花は雨待ちこがる田も畑も 智
無点
苦楽亭 評
上5からストレートに謎解きをしてしまって、紫陽花が主役なら「田も畑も雨待ち焦がる紫陽花も」にしたらどうだろう。
風樹 評
雨を待ち焦がれている気持ちを、そのまま、待ち焦がれています、では単に説明です。その気持ちを何か具体的なところにして詠んで表していただきたいと思います。そこに俳句としての詩が生まれるのではないでしょうか。おまけに「田も畑も」とひっくるめてまとめてみんな説明にしてしまいました。
稚女 評
上5は~はと表現されているので、この句では田も畑も紫陽花とともに雨を待っている。という句意になります。紫陽花と雨の句は常套句でありなんらかの新しさが欲しい。こがるという表現が気になりました、こがれるではないのでしょうか?
十忽 評
擬人化にも程があると思いました。
すみれ 評
今年の季節にぴったりの句。「雨待ちこがる」に表現されているように、今年は異常に雨が少なく、筍も蕗も生長しなかった。紫陽花だけでなく、人間の気持ちにも通じるものがある。雨にしっとり濡れて美しい紫陽花を見たい。
与太郎 評
結局なにが言いたいのか、よくわかりませんでした。
鉄平 評
雨を待ち焦がれる紫陽花って、どんな様子なのでしょうか。それを見せてほしかったです。下五もついでに付けた感じがしていただけませんでした。
雨蛙途方に暮れて振りかえる 風樹
天6点/選者=稚女、苦楽亭、十忽、みみず、庵々②
苦楽亭 評
蛙が途方にくれる、首がないのに振り返る、動いているのは目玉でしょう。梅雨時のユーモアな句。
稚女 評
なんて酷い夕立なんだろう。池を出てちょっと田んぼで遊んでいたら篠突く雨だ。いくら雨蛙だってこんなに暗くなってしまったら、帰り道がわからないよ。まいったな~。蛙が二匹いる俳句、これが俳句と言えるのか不明ながら好きだな~!!
庵々 評
野や山や田や畑など、いろいろな所に現れる雨蛙が、ここはどこだろうと途方に暮れて、思わず振りかえった蛙の心細さや不安が感じられる。ダジャレも邪魔にならない。
十忽 評
途方に暮れているのは雨蛙じゃなくて、あえて雨蛙を見た人の方とする。目の前の枝葉に止まっている雨蛙との関わり方に戸惑った末、意味もなく振り返った一瞬の句と詠んだ。
すみれ 評
雨蛙の「かえる」と、振りかえるの「かえる」を掛けて作句したのでしょう。蛙が「途方にくれる」なんて、擬人化が面白い。
与太郎 評
駄洒落ですかね。
鉄平 評
かえるが二回出てきて可愛らしい句ですが、「途方に暮れて」をそのままそういわずに、ほかの表現で雨蛙を途方に暮れさせてほしいです。
智 評
雨蛙が途方に暮れる顔はどんな顔だろうかと想像すると面白い。「雨蛙」「かえる」は洒落?
はみ出してる若葉が好きでハイタッチ すみれ
天6点/選者=苦楽亭、十忽、みみず、鉄平③
苦楽亭 評
勢いがあり、上5中7で作者の心の様子がよく見える。
風樹 評
垣根から道側にはみ出している若葉に、歩きながらハイタッチしました。だって、そんな若葉が好きだから。ということは、ハイタッチしたのは作者自身で、作者の感情をこんなにプリミティブに表現してしまうと、かえって読者は邪念が吹き飛ばされて、ただあっけにとられてしまいます。だからハイタッチなのか。
稚女 評
上5のはみだして…が気になります。はみ出すというのは辞書によると、中から押されて隙間から外へ膨れでること…とあります。若葉の存在を正確に表していない気がしますし、あまり美しいものに思えない。全体にはリズムのあるポジティブな作品と思うのですが。
十忽 評
散文に近いが、詠まれている内容が軽やかで詩情がある。若葉にハイタッチするという行為に清々しさを感じた。
与太郎 評
語呂もよくないし、はみ出している若葉というのもよくわかりません。
鉄平 評
仲良しの女子中学生二人組がハイタッチしている様子が目に浮かびました。何が嬉しくてキャッキャ喜んでいるのかと耳をすませると、なんと若葉を見てはみ出しているのがヤバイ(=良い)と言う。きっと女子グループに馴染めない二人なんだろうなあ。だけどそんなことはお構いなく、二人でいると楽しくて仕方ない。他の女子たちよりも物事を少しだけ斜め上にみている感じを「はみ出している若葉が好き」でうまく表現したなあと感心しました。句のリズムも軽快でいいですねえ、これぞ俳句。
智 評
なんとなくワクワクさせる句。若葉とハイタッチしたと解釈したが、どうだろうか。
水郷の州てっぺんに黴の風 鉄平
2点/選者=風樹、めんこ
苦楽亭 評
てっぺんってなんだ、黴の風もわからない、微の風じゃないのかな。
風樹 評
水の地水郷、そのてっぺんに梅雨期の風が吹く。キーワードは「てっぺん」か。水郷地帯は平面的な土地柄のイメージが強く、タテの「てっぺん」がイメージしにくい。とすればこの「てっぺん」は何か観念的な意味を担いだ「てっぺん」なのだろうか。ごく自然の風景なのに、なぜかゴツゴツした不自然な感覚が残り、共感しにくく、考えこんでしまう。あえて州としたところもむずかしいなぁ。ただ、なぜか作者がこの地を愛していることが伝わり、応援してしまいたくなるのだ。
稚女 評
水辺にある里を水郷というのだが、この句では潮来を詠んでいるのだろうか? 州とは中洲のことだろうか? するとてっぺんというのはどこのこと、そして黴の風とは? 解釈ができませんでした。
十忽 評
黴の風の意味が不明。湿気の多い風のことだろうか。州は中洲のことだろうか。中洲のてっぺんといっても高さの度合いが測れない。いろいろ気にはなったが全体としての風景が弱い。
すみれ 評
水郷とは潮来市・佐原市…。水の中に出来た中洲のてっぺんに黴の風とはどう言うことか十分理解出来ず、イメージが追いつきませんでした。梅雨時には黴は付きもの…。黴の香が風に漂っている情景なのでしょう?
与太郎 評
カビの風? であってますか? よくわかりません。
智 評
情景がうまくつかめなかった。ただ、「黴の風」という表現は面白いと思った。
名刺入れ空っぽになり花は葉に めんこ
天6点/選者=智②、すみれ、みみず、与太郎②
苦楽亭 評
句の説明をしたと思う、時間の流れからにしたほうがよかったんじゃないかな「花は葉に名刺入れは空っぽに」。
風樹 評
社会から離れて時がたつとしだいに人と遠くなって、いつのまにか社会との関係も薄くなっていく。それにつれて、気がつけば名刺入れもいつか空っぽに。花さえ季節の流れにしたがって葉になってゆく。そんな自然の変化に映し照らしている人生。ごく古典的な日本の人生観か。なぜか認識が淡い。個性が薄い。俳にいたる道が細い。
稚女 評
現役時代には名刺入れをいっぱいにして過ごしていたものだ。社会から退いてあれだけ人脈の多いことを誇っていたけれど、名刺入れは空になり、そして咲き誇っていた花も今は葉を繁らせている、緑鮮やかな葉の繁りもいいもんだ。良くわかる俳句、花は葉にという季語も的確。
十忽 評
空っぽになり、は時間の経過を表現したものだろうか。その間に桜の花が散って葉桜になってしまいましたというだけでは、詩にならない。
すみれ 評
ふと見ると、名刺入れは空っぽ。忙しい日々、気が付いたら季節は春から夏へ変わっていた。空っぽとは人との出会いが多かったのか?営業成績を伸ばしたのかな?
与太郎 評
雰囲気がよいです。ときの移ろいを感じます。「花」が特定の花の名前だと、よいのかも。
鉄平 評
新入社員でしょうか。生まれて初めて手にした自分の名前が入った名刺。挨拶回りで配ったり、親戚や友達に配ったり、葉桜の頃にはもう名刺入れは空になってしまった。もうなくなっちゃったと、それもまた初体験で嬉しいわけです。新入社員の青々しさが可愛らしい一句ですがちょっと月並みに感じました。もう一歩踏み込んだ表現を期待しています。
智 評
季節が変わる中で、どれほど名刺を配ったのだろうか。自然の動きと名刺入れという静物がうまくつながっていると思った。
ケの日には白い和猫とアジを食う 十忽
地3点/選者=稚女、めんこ、与太郎
苦楽亭 評
句がくどい、ケ、白い和猫、アジを食う。
風樹 評
ペットとの癒やしの生活をストレートに表現した、気持ちのよい作品。ただし気持ちの良いのは作者ばかりで、読者にももちろん伝わるのですが、俳句詩が伝わったわけではない。驚きもなく、癒やされもしない。だから感動も切れ味もない。なぜだろう。句全体が説明になってしまったからに違いない。俳句詩を読みたいと思うのです。
稚女 評
人生には結婚や、入学、卒業、出産、栄転、など、晴れやかな特別な日がある。しかしほとんどの日々は日常と呼ばれるいつもの代わり映えしない1日に終わる。そんな昨日と変わらない1日の終わりには飼い猫とじゃれ合ってアジを食うのだ。幸せなんてそんなもんだよ。
すみれ 評
作者の日常生活の句? 普段の日を「ケの日」と詠んだところが面白い。夏の季語「鯵」も大衆的な魚であり、「ケの日」と合っていると思う。「ハレの日」と「ケの日」のメリハリをつけて生活したいものである。
与太郎 評
「和」が過剰な気がしましたが、とても良い雰囲気と人柄が見えました。
鉄平 評
ハレの日は稀で、365日のほとんどがケの日だと思うのですが、作者はよほどアジが好きなのでしょう。説明だけなので詩を感じられませんでした。作者は何を発見したのでしょうか。
智 評
変わりない日常での飼い猫との穏やかな生活が浮かぶ。ハレの日にはどうするのだろうかと想像した。
秒針をあとかたもなく流れ雲 与太郎
地4点/選者=稚女、苦楽亭、風樹、めんこ
苦楽亭 評
砂針をあとかたもく、は単に時刻の流れではないだろうな、あとかたもなく、何事が起きたんだ、不安感でいっぱいになる、流れているので少しは安心なのかな、それとも不安が増すんだろうか。
風樹 評
秒針の鋭角、雲の鈍角。あわせて180度の地平線。秒単位の職業と生活。退職してあとかたもなくなり、あゝ空に流れ雲。人生論はしみじみするけれど、俳味の味わいいま一歩の感がします。中七の「あとかたもなく」が効果を生まなかったのかも知れません。地平線が見えてこなかったような気がします。残念。
稚女 評
秒針とは時計の針のこと、それがあとかたもなく流れるとは時の流れの思いもよらぬ速さのことだろうか?あとかたを漢字表記すると、跡形であるならば形になるものは何もなく時は流れゆく雲のように何処かへ消えていったよ。という句意でしょうか?年齢を重ねてきた私にはある種の哀しみを伴って、実感の句と言えます。
十忽 評
秒針を想わせる形の雲が流れて行って、あとかたもなくなりました。流れ雲というだけでは安易すぎると思う。
すみれ 評
厚い雲の下を早い速度で流れていく雲。秒針と流れ雲の関係が十分理解出来ませんでしたが、時はあとかたもなく流れていく、流れ雲の様に…時の流れを感じさせてくれる句。
鉄平 評
待ってはくれない時間を表現しているのでしょうか。全体が付きすぎに感じました。頭で考えて作った句かなと思いました。
智 評
流れていく雲の雄大さは、秒針のような小さい動きなど意味無きものにしてしまうという表現だろうか。そうであれば「秒針は」となるか。それとも、他に「秒針」を「あとかたもなく」させたものが裏にあるのだろうか。その辺がうまくつかみきれなかった。
緑球の七変化はまだ子紫陽花 苦楽亭
無点
風樹 評
ほのぼのと公園の散歩を楽しんでいる時の一句。読者に何かを伝えることよりも、おそらく、そういう感興の中に佇む作者自身の意識の先行か。七変化の発見は付きすぎで、鋭さも、読者を包み込む深淵なおぼろもない。それが発見を薄くしてしまっているのではないでしょうか。
稚女 評
紫陽花の季節だ。本当に沢山の種類の紫陽花が咲き誇っている。そう、緑の球を花芯にいっぱいつけて出番をまっている様子はとても愛らしい。この句の言わんとしていることはわかるのだが、紫陽花を知らない人はいないとは思うがもしかして全く知らない人がこの句を読んだ時に紫陽花をイメージできるのだろうか?中七の一考を願いたい。
十忽 評
緑球も七変化も紫陽花を指す言葉なので、十七文字をつかって紫陽花と言っただけの句。
すみれ 評
「緑球」とは作者が考えた言葉でしょうか?紫陽花の毬が小さい様子を「子紫陽花」と子どもにたとえた句。「子」と言う表現を「毬のおさなき」、又は「おさなき毬」とも表現出来るかな?と思いました。
与太郎 評
よくあるあじさいの説明な気がしてしまいました。
鉄平 評
七色に変化するコアジサイの開花を待ち焦がれる作者。緑球とはアジサイの花が咲く前の状態のことでしょうか。緑球がなくとも意味は通じる気がします。それ以外にも「七変化はまだ」と表現が説明的でしたので、いただきませんでした。
智 評
きれいな印象だが、「七変化」「紫陽花」と同じ意味が入っていることが気になった。「子」とつけたことで、その点がどれぐらい解決するかまではなかなか判断できなかった。
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