俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第308回句会報告【自由句】

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7月18日に行った第308回句会「自由句」報告です。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

 

曇天にこれ見よがしの砂日傘 十忽

2点/選者=智、宮原

苦楽亭 評
中7が平凡だから景が平凡になってしまった。

風樹 評
曇りの日の海水浴場、広い砂浜には誰も居ない。その一隅にポツンと広げられた砂傘。傘の下にはだれもいない。そんな景が浮かびました。この静かで不安に満ちた景が、「これ見よがしに」の中七で、妙に押し付けがましいものに変わってしまった。その場所だけが変に人間くさく、残念ですね。この景には、どんな人もいらない。もちろん作者も消えて居なくなった方がよほど俳句です。

稚女 評
砂日傘はビーチパラソルで夏の季語。この句の中七の意味がわからない。海の砂浜でビーチパラソルを開いているということだが、これ見よがしという表現は「どうだい、すごいだろう』というような心の動きだと解釈すると曇り空に向かって、海水浴にはこれがなくちゃ~と息巻いているのかな?

すみれ 評
今年はコロナの影響で、海水浴場の中止が相次ぐ。浜辺に砂日傘が見られない夏かもしれない。曇空に「これを見よと言わんばかり」に一本だけ立つ砂日傘が浜辺を華やかに、色鮮やかにしてくれている光景と捉えた。「朝ぐもり 海岸日傘 ひとつ開く」・相生垣瓜人

与太郎
曇り空の下、砂浜には「これ見よがし」にビーチパラソルが立てられている。観光客に来て欲しいのか、自粛ムードに対する抵抗なのか。「これ見よがし」は慣用表現なので、作者自身の言葉を見つけて欲しいです。なにをどう見たら「これ見よがし」に見えたのか、そこを追求し、心の中の言葉ではなく、目に見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、味わえるもの、触れるもので表現して欲しいです。

鉄平 評
季語は「砂日傘」。「これみよがし」とは、得意げに見せびらかしたり、当てつけがましくしたりする様をいう。曇天への皮肉としてビーチパラソルを得意げに見せびらかせているという事だろうが「これみよがし」とういう言葉は的確なのだろうか。どちらにせよ、作者はビーチパラソルのなにかを見て「これ見よがし」と感じたはずだ。その瞬間を切り取り、読者に「これ見よがし」と感じさせてほしかった。

智 評
曇り空の中でも色鮮やかに目に飛び込んでくる砂日傘の存在感。まさに「これ見よがしの」という感じで、うまい表現だと思った。

宮原 評
鉛色のどんよりとした空と海、気温も低いし海水浴に適しているとは言い難い気候の中、人影もまばらなビーチで連れ立って来た者みな今日はちょっと違うかなと思っているのに「空いてていいね」なんて虚勢を張りながら誰も帰ろうかとは言い出せずやけになったようにはしゃいでいる。砂浜に深く刺さったこれ見よがしなビーチパラソルが何とも痛々しい。

 

黄泉の国風鈴の音に誘われ 智

無点

苦楽亭 評
現代版でもないけど風鈴の音に誘われた? 不思議な句。いただきたかった句。

風樹 評
風鈴の音に誘われて、音が導く彼方の、彼岸の国にふらふらと誘い込まれそうになる。そういう瞬間、そういう空間の変質があるものですよね。気がつくと、とても危なかった瞬間です。とくに真夏の夕方なんか、そういう瞬間が訪れ易い。ほとんど三途の川の川辺まで歩が進んでいるような、なぜか甘美で、安らぎに満ちているような……。そんな時を活写できれば、最高の句となるのかもしれません。しかし、残念です。いかにも現実感がない。説得力に欠けている。この作者にはぜひこの世界を追求してほしいなぁと、本当に心から思うのです。うらめしや……。

稚女 評
夏の午後、外は厳しい暑さながら風通しの良い家の中にいて、風に遊ぶ風鈴の音色にまぶたが重くなり知らぬうちに夢路を辿ってしまう。まるで風鈴の音色が黄泉へ誘うかのように。暑い日々、夜寝苦しくて十分な睡眠が取れないことがあり、日中風鈴の音に誘われて眠りに落ちる時に感じる安らかさを黄泉の国としたのだろう。意味はよくわかるのだが下五が当たり前で面白く無い。

すみれ 評
夏の風物詩の風鈴。ノスタルジアな思いに誘う風鈴の音色が、現代では近隣のトラブルになってしまうこともある。風鈴の音に誘われるとは新しい発見。どんな音色が黄泉の国に誘うのだろう。聞いてみたい。

十忽 評
黄泉の国と風鈴の音の取り合わせが似合わない。風鈴の音に誘われて眠くなり黄泉の国へといった文脈がありふれている。蝶に誘われて黄泉の国へ……という有名なお話を連想させられてしまうのは残念。

与太郎
気がつくと黄泉の国の入り口にいた。風鈴の音に誘われて、ここに来てしまったに違いない。という句でしょうか。誘われた先は、本当に「黄泉の国」だったのでしょうか。その場所をもっと観察して欲しいです。「黄泉の国」はフィクションの言葉ですし、イメージが曖昧すぎるので、作者が見たものが読者に伝わりにくいと思います。中七下五もとくにその情景を特定するには至っていないと思います。

鉄平 評
季語は「風鈴」。あの世と風鈴の音の組み合わせは日本の怪談よろしく、常套表現に感じた。「誘われ」とあるが、作者は死の淵にいるのか、もうあの世にいるのか、はたまた黄泉の国は比喩なのか、いまいち景が見えてこない。状況をイメージできるワードが何かひとつあると変わるのではないか。

 

梅雨のバス点描の街灯りけり 稚女

天10点/選者=みみず、智、十忽、大橋、すみれ、野村、苦楽亭、めんこ②、奈津

苦楽亭 評
中7から下5の様子がいい。

風樹 評
梅雨の時のバスの中は、ウィンドーにも雨粒が降り注ぎ、ツゥーッと斜め後ろに流れて行く。ふとそこに街の灯がにじんで、まるで点描の絵画のように灯っている。極端なまでに描写だけに徹した腕前に感心しました。そうすることによって、それを見ている人、作者の心境まで表してしまう。何となく寂しげで孤独感に満ちた世界観。文学科の卒業例題のようで、なんだかとれませんでした。この世界観の中に、切れば血が出る息づかいがを感じられたらいいなぁと、思ってしまうのです。俳句の入門書の例題のようなといったら、作者に失礼かもしれません。じつは私のひとりよがりの傾向なのでしょう。俳句は文学なり、なまじ近づくと大けがをするよ。一行の五七五は刃物なんだと、どこかでそう思っているに違いないのです。

すみれ 評
「点描の街」とは絵画の世界かと思ったが、梅雨の夕、家々につく灯りを点描と捉えた作者。その街の中を走るバス。梅雨のバスとは梅雨時に走るバスと解釈した。高台から見える夜景の美しい街(夜景スポット)を想像させる句

十忽 評
バスの窓ガラスに無数の雨粒がついている。その一つ一つに街の灯りが映り込んでいるのだが、それを点描と言い切ったところがいい。視点は一見ありふれているようだが、点描とした時点でそれを超えた。

与太郎
梅雨の季節、水滴のついたバスの窓からは、街が点描のように見えている。その瞬間、明かりが灯った。下五が余計です。明かりが灯っていることは、べつの方法で表現すべきです。それが「点描」で表現しきれないのであれば、「点描」そのものの表現を見直すべきだと思います。

鉄平 評
季語は「梅雨」。まず「梅雨のバス」があり、「点描の街灯りけり」がある。「灯りけり」なので灯しているのはバスでは無く、街が街灯や窓の光などで自ら灯っていることになる。また、作者は外側からバスと街を見ている状態なので視点が定まらず、「バス」と「街灯りけり」の因果関係も薄い。下五が「灯しけり」ならば、「梅雨のバス」のライトによって街が灯っており、なおかつ作者はバスに乗っていると想像ができる。そして車窓から見た情景だけが「点描の街」として切り取られ、視点も定まるのではないだろうか。このように推敲してみた。「五月雨を点描にせしバスライト」。ただ、雨=点描という表現はありきたりに感じる。

智 評
梅雨空の薄暗い中、ぽつぽつ灯り始める街灯り。「点描」という表現は言い得て妙だと思う。何となくほっとさせる句だと感じた。

大橋 評
梅雨時の雨の車窓が寂しげな心情を表しているようでいいと思いました。

野村 評
雨つぶににじんだ叙情的な街の風景が、物悲しいような懐かしいような……。じんわり綺麗な絵が浮かびました。

 

梅雨晴や影の張りつく土の壁 すみれ

地7点/選者=稚女、与太郎、風樹、鉄平、苦楽亭、めんこ、奈津

苦楽亭 評
景をよく捉えている、中7の様子いい。

風樹 評
梅雨の合間の晴れを見つけて城下町をそぞろ歩き………。きちっとそろえた土壁の美しさを横目にしんながら、そぞろ歩き………。はっと気付くと自分の影が土壁にさして、ピタッと動かなくなる。その土壁の中に自分の影が染み込んでいく。影が埋め込まれて自分は影を無くしてさらにそぞろ歩き……。土壁の中の自分と、妙に身軽になった自分と。別れ別れの自己撞着。お互いに冷静に、客観視して。不思議な世界観をもつこの一句。何故かいつまでも影をなしくた軽やかな体験がいつまでも心に残る。

稚女 評
梅雨の晴れ間というのは、主婦にはとてもありがたい。この句では昨日まで降り続いた雨が上がり、真っ青な空が広がっているが、まだ雨上がりを感じさせるような湿気が土塀に写る何かの影をまるで張り付いているかのように見せている。「土の壁」が効果的。

十忽 評
影の張り付く壁とかアスファルトは、素材として平凡すぎると思います。

与太郎
梅雨の晴間。普段がどんよりと曇っているせいか、日差しはより強烈に感じられる。つくり出す影が、まるで土の壁に強く貼り付けられて、はがれないかのようにさえ見える。上五とそれ以下が因果関係なので「や」で切るのはどうでしょうか? また、影が貼り付く、という表現も、若干よくある表現に感じられます。とはいえ、情景はよく目に浮かぶので、いただきました。

鉄平 評
季語は「梅雨晴」。梅雨時の久しぶりの晴間。その陽光でできた影はまだじっとりと水分を含んだ土の壁にまるで張り付くように見えたのだろう。悪くは無いが、「梅雨晴れ」で「土の壁」のじっとり感は想像できるので「張り付く」は説明かもしれない。それと作者はどこでこれを発見したのだろう、どこの土の壁だろう。具体的な景が見えてこず、句の背景にある物語をもっと感じたい。それを想像できるワードがひとつあると、土壁の場所や張りつく影の正体が分かり、物語を感じられるような気がする。それと「や」で切っているが、強調したいのは「梅雨晴」ではなく「壁にはりつく影」なのでこの「や」は効果的ではない気がする。 

智 評
「影の張りつく」という表現はややありきたりのように感じた。

 

古代より帰りしウィルス熱帯夜 みみず

1点/選者=風樹

苦楽亭 評
そうか、古代から帰ってきたのか、このウイルスは熱帯夜はどうかな。

風樹 評
古代より帰りし、で、思い出されられたあの恐怖………。といっても我々の世代が体験したことでは無く、1347年から1350年大流行したあれ、ペスト。後に黒死病と呼ばれ、この時期だけでヨーロッパの三分の二の人が命を落とした、アジア生まれの黒死病。ものの本によると、細菌性の病気で、感染力は極めて高く、猛烈な勢いで広がり、衛生状態の悪い中世ヨーロッパの諸都市では、患者はたいてい病状………。嘔吐・下痢・皮膚が黒くなる………。が現れてからわずか数日で死亡した。多くの都市では、ペストは多数の人の命を奪ったのみならず、法と秩序を破壊し、文明全体を破壊の瀬戸際に追いやって、ルネッサンスへの道を開いたといわれている。あの事件が蘇り、ウィルス兵士たちの一群が闇を縫って地球へ向けて蹂躙してくる。熱帯夜の社会にひたひたと攻め込み、ひたすらよるの熱に乗って兵士の一団が攻め込む。もうだめなのか。政治は押っ取り刀で右往左往。この恐ろしさ、果たして一句として成立するのか。

稚女 評
コロナウイルスのことだろうか?古代とはいつぐらいのことだろう?熱帯夜と言うのは具体的な夏の暑くて寝苦しい夜のことだが上五、中七の表現は具体性がなく想像したことに過ぎないのではないだろうか?梅雨時めりの上、熱帯夜に加えてウイルスなる句材の羅列に参りました。

すみれ 評
有史以来、人類を悩ませてきたウイルス。ウイルスが拡大している現状を詠んだ句。現在、全世界の人々を苦しめているコロナウイルス。ウイルスの苦しみと寝苦しい熱帯夜を重ねて表現したのか?内容を掴みきれなかった。

十忽 評
ウイルスは古代、人類がまだ単細胞だったときに既に存在しており、現在に至るまでその生命が途絶えたことはないそうです。ですから留守をしていた時代がないので、帰って来たという表現が気になってしまいました。

与太郎
古い時代に存在し、一度は駆逐されたはずのウィルスが帰ってきた。よりによって寝苦しい、熱帯夜の夜に。作者は何をもって「帰りし」と感じたのでしょうか。「熱帯夜」だけでは、その理由がわかりませんでした。

鉄平 評
季語は「熱帯夜」。古代から帰ってきたウイルス。現代 → 古代 → 現代とタイムスリップしたのだろうか。熱帯夜で寝付けぬ作者の夢なのだろうか。下五ともつながらず景が見えてこない。「帰りし」なのだろうか?

智 評
「古代より帰りし」の意味がうまく捉えきれなかった。わざとかもしれませんが、「ウィルス」ではなく、「ウイルス」が正しいです。

 

五月雨が怒濤の響き清くなし 苦楽亭

無点

風樹 評
線状降雨帯下の五月雨の怒濤のような雨の響きが風景をすっかり取り巻き、それはまるで、風景を清く洗浄してしまうほどの勢いを示している。血も涙も無い風景描写。これこそ自然のもつ威力に違いない。どこか河合玉堂の一幅を思い出させてくれました。自然は美しくもあり、恐ろしくもあり、しかし、ただありのままにあるだけだ。

稚女 評
五月雨は陰暦5月に降る長雨のこと。その雨が荒れ狂う大波の響きを清くしていると解釈しました。清くするとは様々な解釈がありますが、清くする対象が響きであると、気持ちが良い、汚れがない、美しい、潔い、跡形ないと言う意味のどれにも該当しない、清くなしを清くするとするのも無理があるように思います。残念ながら景を結ぶことができませんでした。下五がこの句の意味をわかりにくくしているように感じました。

すみれ 評
「怒涛の響き」で荒れ狂いながら流れる川、激しく降る雨。水の怖さを表現した句。下五の「清くなし」は水の流れる音の激しさを強い表現で表しても良いのかな。

十忽 評
中七の「怒涛の響き」は、最近の熊本豪雨による球磨川の氾濫を想起させるが、下五の「清くなし」は表現が曖昧で句意の焦点がぼやけてしまっている。濁流を伝えたかったと推測できるが中七の「怒涛〜」との対比が不釣り合いだと思われる。

与太郎
五月雨が怒濤のごとく降っている。あまりの激しさに、すさまじい音を立てている。これじゃあまるで「五月雨」ではないではないか。まったく清らかさなど感じられない。「五月雨」=「清い」と規定し、怒濤のように音を立てる雨が五月雨らしくない、と詠んでいるのだとは思いますが……。まず、「五月雨」=「清い」という構図が理解できません。どう「清い」のでしょうか? 

鉄平 評
季語は「五月雨」。五月雨が清いかどうかは作者の主観であり、作者にとって「清くなし」が大事ならば、それなりの説得力が必要だ。しかし作者の思った事をそのまま説明しているだけなので詩を感じられなかった。

智 評
「怒濤の響き」という表現は「五月雨」にはやや強すぎる印象を受けた。作者としてはそれで「清くない」激しさを伝えたかったのかもしれないが。

 

霧雨にしばし復活褪せたシャツ めんこ

4点/選者=みみず、十忽、大橋、すみれ

苦楽亭 評
しばし? 表現としては平凡。

風樹 評
意味が分からなくて、イメージが浮かばない。もうちょっと、作者に近づけられたら、すてきな世界観がイメージできたのかもしれません。俳句は出来ることなら一読してその状況を把握できることをめざして言葉を練ることが大切で、やたらに謎にしてしまうのは次善ということがいわれます。霧雨によって着ていたシャツが復活したという。ちょっと乱暴ではないか。とてもついて行かれませんでした。シャツが痩せている状態とはどんな状態なのでしょうか。作者の説明が必要なのですか。

稚女 評
霧雨が降るのでしばらくはあの褪せたシャツを着てしのごう……と言う意味でしょうか?主婦感覚で解釈するならば、この梅雨の長雨の中、どうにも洗濯物が乾かない、着るものがなくなった夫にあの褪せたシャツを着て間に合わせておいて、と言う感じの句でしょうか?上五の霧雨は秋の季語なので、ここは五月雨とか梅雨じめりなどの季語を使ってはいかがでしょう?上五を「や」できると、句のリズムがよくなると思いますし、しばし、を使うなら「褪せた」は「褪せし」にしたい。

すみれ 評
霧雨は秋の季語。紙や布は濡れた部分が濃くなり、色鮮やかに見える。これは光の乱反射が少なくなっている為である。色褪せたシャツが霧雨により、「しばし復活」なんて楽しい句。視点が良い。

十忽 評
褪せていた色が霧雨によって濡れたことにより、鮮やかさを取り戻した状態を表現した。中七の「しばし復活が」霧雨の繊細さをうまく言い得て、素直な句になっている。

与太郎
霧雨が降っている。長年着てきたシャツも、濡れると言うよりは湿っていく。そのある瞬間、完全に濡れてしまう前に、褪せていた色が昔の色を取り戻す瞬間があった。それは「しばらく」続いた。「しばし」が不要に感じます。瞬間をうまく切り取れば、それが一定の時間であることを言い訳する必要は無いと思います。

鉄平 評
季語は「霧雨」だが秋の季語なので今の季節に合わない。霧雨にする理由があったのか、それとも単純に作者のミスなのだろうか。いまの時季なら「梅雨」や、季節を問わない「小糠雨」や長雨の意味の「霖雨」を使ってはどうか。霧雨は梅雨のことだと仮定して、洗濯物が乾かず、古いシャツをタンスから引っ張り出してきて「しばし復活」させた。シャツの色の褪せ方やよれた感じ、部屋干しの洗濯物の並び方や臭いなど、作者が発見した状況を言葉にして、読者に「古いシャツを引っ張りだしてきたんだなあ」と思わせてほしかった。

智 評
情景は浮かぶが、見たままをそのまま表現している印象。

大橋 評
梅雨寒に長袖を慌てて出した感じがとても面白いと感じました。

 

 

青田過ぐ求愛のごとサイクリングシャツ 鉄平

人6点/選者=智、稚女、宮原、与太郎、すみれ、野村

苦楽亭 評
青田は過ぎてしまったんだ、ではどこを走っているの。

風樹 評
サイクリング風景なのでしょう。青田過ぐという上五が実によくきいています。なによりも、この上五がサイクリングをしている世界にピッタリで、決して季語を意識させない、という点が見事といえましょう。それが季語本来の言葉の役目なんですね。点を入れようと思ったのですが、それ以外の風景がどうも僕はもてあまし気味で、第一サイクリングシャツというものが存在するのでしょうか。ここから先はついて行けない気がしました。どうもこの作者は、なにかものに仮託して世界観を表すことによって句の本意を表現しようと思ったのかも知れませんが、その方法は本来の意味を伝えることとのバランスを考えて使うべきとおもうのです。かえって謎々を深めるばかりでは、本末転倒で、そこのところが表現できれば、もう天下無敵となりましょう。

稚女 評
稲の育って青々した田圃が夏の季語の青田。その青田を走り過ぎて、サイクリングシャツが求愛をするかのようになびいてきたのかな?八語も使ってシャツまで入れたのだから、この句はシャツが大事な部分なのだろう。あるいはシャツのロゴがI. Love. Youとプリントされているのかもしれない。

すみれ 評
植田が青一色になる頃、青田は一段と美しく、その上をツバメが飛び回る。青田の脇道を気持ち良く走る自転車。野鳥の求愛行動として、雄は雌と一緒にダンスをしたり、大きく羽根を広げて見せたり、踊ったりする。羽根を広げた様子が、サイクリングをしている時の風に吹かれるサイクリングシャツの様子と似ていると感じた作者。着眼点が楽しくユニーク。

十忽 評
いろいろな要素が入り過ぎていてまとまりのない句になったように思う。中七の「求愛のごと」で迷路に入り込んだ気持ちになってしまった。

与太郎
青い穂をたなびかせている田のあいだを、自転車で通り過ぎる。おそろいのシャツを着た二台の自転車の動く様は、まるで昆虫の求愛行動のようにみえた。上五、中七、下五がバラバラに感じられました。もう少しうまくまとめてくれると、情景がよく見えた気がします。が、情景は見えました。

智 評
青田の凛とした美しさと、サイクリングシャツの派手さとが目に浮かぶ。その派手さを「求愛のごと」と表現したのだろうか。爽やかな中にも僅かに照れくささを感じた。

宮原 評
色とりどりのサイクリングシャツを身にまとったサイクリストの集団が青田の風景の中を通り過ぎていく。それぞれこだわりがあるであろうサイクリングシャツに求愛の意思があるかはわからないけれど、その色あざやかな集団が颯爽と通り過ぎる様に、美しい羽の色を誇示する鳥の求愛行動を見た作者の発見が面白いと思った。

野村 評
夏のグリーンの爽やかさと疾走感がとても気持ちよく感じられました。

 

顕微鏡会わない理由のありがたさ 与太郎

2点/選者=十忽、奈津

苦楽亭 評
言わんとしていることはよくわかるのだが、中7の「会わない」がわからない。

風樹 評
この句も前の句と同じ俳句観に基づいた作品という気がします。顕微鏡と上五に出して、句の世界を限定しています。あるいはものの本質をぐーんと近づいて見せるというイメージを設定しているのかも知れない。ただ、この上五と中七とが整合性がわからないので、なぜ下五があるのか僕には理解がとどかないのです。顕微鏡であからさまにしたいのは、なんだったのか。一生懸命理解に勢をださねばならないのが本物なのでしょうか。一読、肺腑に突き通るのが俳句なのでしょうか。なんだか最近わからなくなりました。

稚女 評
無季の句で、顕微鏡、会わない……と言う表現でコロナ関連の作品かなと想像しました。あなたにウイルスを感染してしまうと申し訳ないので……と言う優しさに対して「ありがたい」と言う下五になったのでしょう。しかしこのくの配列は最後に謎解きの答えを出しているようでもう少し謎めいてほしい。

すみれ 評
肉眼では見えないミクロの世界を見ることが出来る電子顕微鏡。「合わない理由」とは検査をした時(現在ではPCR検査)、自分は陽性ではないことを表現したのか?陽性でない時の嬉しさ・安心感を「ありがたさ」で表現。ホッとした気持ちが理解できる。

十忽 評
この顕微鏡で観察しているのはおそらくコロナウイルスであろう。会わない理由とは感染することを指しているのだろうか。とすると下五の「ありがたさ」が当たり前すぎて陳腐にすら思えるが、着眼点の秀逸さが勝っていると思われるので一点献上。

鉄平 評
無季の句。先月の句に「家守(いえも)りや会わないわけのありかかな」という句があったが、シリーズなのだろうか。顕微鏡という小さなものを大きく見る道具。いまだとコロナウィルスを連想する。はたまたコロナは全く関係なく、男女の句としても読めなくもない。いずれにしろ五七五ともに唐突で景をイメージできなかった。

智 評
顕微鏡をのぞいている間は誰とも目を合わせることなく、一人の世界に閉じこもっていられるという意味だろうか。「理由」という部分が何を表現しているのか理解できなかった。

 

 

ミステリと肘掛け付の昼寝椅子 風樹

無点

苦楽亭 評
最高の幸せ、3つ並べてしまった。

稚女 評
当節の自宅自粛の作者のありようを詠んだ作品だろうか?ミステリーは五音になるのでは?作者は昼寝の椅子が肘掛までついていると強調しているがなぜだろう?ミステリーと詠んで下五が昼寝というのが面白いけれど、中七でもう少しこの状態が納得できるような表現をしてほしい。

すみれ 評
夏の午後。肘掛け付きの椅子でミステリ小説を読むうちに眠くなってしまった。気持ち良さそうに眠る姿が浮かぶ。

十忽 評
ミステリと昼寝椅子の取り合わせが面白いのだが、よく考えてみると平凡。その先が知りたい。

与太郎
胸の上にはミステリー小説。両手は肘掛けの上に置かれ、心地よい角度のを保つ椅子の上で、すやすやと寝息を絶てている。至福の時。とてもわかりやすいが、少々類型的な気がします。

鉄平 評
無季の句。ミステリはミステリー小説のことだろうか。単にミステリー(怪奇、神秘)の意味ならば、肘掛け付きの昼寝椅子にそれを感じられない。ミステリー小説ならば読書中に寝落ちしてしまったのだろうか。作者が伝えたいことが分からなかった。テーマが絞られていない気がする。

智 評
ミステリーを読んでいるうちにまどろんでしまった情景だろうか。「肘掛け付の」とわざわざ表現した意味がどこにあるのかよく分からなかった。

 

パーキンソン病行く手を阻む額紫陽花 大橋

5点/選者=宮原、与太郎、風樹、鉄平、苦楽亭

苦楽亭 評
良くわからないのだが、パーキンソン病と紫陽花は初めて

風樹 評
バーキンソン病とは、脳の異常のため、体の動きに障害があらわれる病気で、歩くことが困難になり、また眠くなって車椅子を使うことになるわけです。車椅子で進んでいると、突然目の前に額紫陽花が現れ、美しいブルーの紫陽花とはいえ行く手を拒む突然実の状況に、どんな思いをもつのだろうか。もちろん経験はないけれどこの瞬間、この一点に俳句を集中した。特異な視線を体験させていただきました。

稚女 評
梅雨空のした、紫陽花が美しい。パーキンソン病を病むと筋肉が緊張し体が震え、随意運動を開始することが困難になるということで、自分の意思どうりに肉体が動かなくなる病。行くてを阻むのが紫陽花だという。上五は八語だが、八語を使用してもパーキンソン病とする必要はあるのだろうか?

すみれ 評
憂鬱な梅雨空のもとで、私達を楽しませてくれる額紫陽花。パーキンソン病と額紫陽花の関係を十分捉えられなかったが、「行く手を阻む」のは額紫陽花。足が自由に動かないパーキンソン病。自分の進もうとする場所に行きたいが、額紫陽花が前にあり進むことが出来ない光景か? パーキンソン病を詠んだ句は初めて。

十忽 評
行く手を阻む紫陽花とパーキンソン病の関係がよくわからない。どのような状況にあるのか少しでも分かった方がいいように思う。

与太郎
パーキンソン病という病がある。現在のところ、全治は見込めず、できることは進行を遅らせることだけ。そのことを考えながら歩いていると、いつもの散歩道にはみ出すように茎を伸ばし、花を見せつける額紫陽花がある。まるで八方塞がりな病を象徴しているかのように、僕の行く手を阻むのだ。中七の「行く手を阻む」が、説明的というか、そこにあるあじさいに意味を付与しすぎている気がします。あじさいを見た瞬間の情景だけを切り取って、たとえば「道にはみ出す額紫陽花」とするだけでも、じゅうぶんに「行く手を阻まれている」と読者は感じると思います。つまり、あじさいがどのようにそこに存在していたのか、注意深く観察し、それを表現することが、その時の体験を再現し、読者に伝えることになるのです。最初に感じた「痛っ」とか「ウザっ」という感覚を、を自分の中で整理をつけて(解釈して)しまわずに、どれだけ自分の言葉で表現できるかが、オリジナリティになると思います。でも、心の動きを情景で表現されていて、それが伝わってきたのでいただきました。

鉄平 評
季語は額紫陽花。患者は作者の近親者なのだろうか、一緒に歩いていた時の写生句。茂り過ぎた額紫陽花が植え込みから歩道へはみ出している。それを必死に避ける、または跨ごうとする患者。作者からしたら近しい人を困らせる鬱陶しい額紫陽花だが、だけど額紫陽花に罪はなく華麗に咲いている。そんな作者のやるせなさが見てとれる。句の背景にある物語がきちんとあって、それが想像できる良い句だと思う。ただ「阻む」は言葉として強すぎる。阻まれている様は「パーキンソン病」で想像がつくので「阻む」は説明に感じる。それと作者とパーキンソン病患者の関係が分かるとなお良いと思った。例えば、「パーキンソン病母の行く手に額紫陽花」。「阻む」を使わない事で、作者のやるせなさだけでなく、だけど額紫陽花を許している、愛でている様も見えてくるのではないだろうか。

智 評
パーキンソン病で歩行が困難なのであろうことは分かる。額紫陽花に往く手を阻まれるというのは、実際に阻まれたわけではなく、その美しさに立ち止まっているという比喩だろうか。そうであれば「阻む」という言葉はやや強いように思った。そこを何か別の言葉で表現できるとよいが、「後ろ髪引く」とかではありきたりだし、なかなか難しい。

 

独り飲む瓶ビールの嵩持て余す 宮原

2点/選者=大橋、野村

苦楽亭 評
そう瓶ビールはよくあるのです。

風樹 評
ステイホームの夜の風景。五・七・五すべてが説明文になってしまって、ちょっと俳句が見あたりません。ひとりを独りと表現したところも気分を出そうとしたためか、逆に気取りがみえてしまうようです。いわんとするところはわかるのですが、あたりまえといったところでしょうか。ひとりで飲む状態をどう考えるか、そこを追求してみるのも効果的かも知れません。

稚女 評
独り酒のこの方はいつもならすぐに空にしてしまう瓶ビールを今日は飲みきれずに、持て余してしまっている。その理由が何なのかがこの句から見えない。どうしたの?体調悪いの?と言うしかない。ビールといえば飲むは不要だし、缶ビールなら嵩というのは適当ではないので「瓶」も不要ではないでしょうか? 独り居の嵩持て余すビールかな……なんて独居の悲哀が感じられないかな?

すみれ 評
自粛生活の中、一人で飲むビール。なかなか、飲みきれない状態の句。やっぱり、一人で飲むのは寂しいな?

十忽 評
飲みきれないビールの量がどのように持て余してしまったのか、それが大事だとおもうのだが。

与太郎
独りで瓶ビールを飲むと、その量を持て余してしまうものだなあ。というのが、句から読みとれた、僕の印象です。残念ながら、それ以上でも以下でもありません。課題は、いくつかある気がします。まず、二人以上でしていたことを、一人ですると、持て余す、というのはあまりにもよくある表現です。ましてそれが「量」である場合には、「あたりまえ」でしかありません。次に、「独り」を強調し、「寂しさ」を「わかってもらおう」というのは、「自己憐憫」となります。これを売りにしている私小説などもありますが、その中でも秀逸なものは、「独り」感を伝えるために、あらゆる表現を試みていることです。残念ながらビールが残る、だけでは共感しづらいです。そして、表現方法の部分では、まず、上五が不要です。また「嵩」も不要です。「瓶ビール持て余す」だけで、孤独感や量も表現できます。また「持て余す」は作者の心が解釈した言葉で、実際には「ビールが残っている」情景が目の前にあるだけです。それを表現するのを写生と言います。それがすべてではありませんが、作者の解釈した言葉は、瞬間を切り取っていないので(あとから解釈しているので)、感動が人に伝わりにくくなります。結論を言うと、目の前に中身の残ったビールがある。その瞬間、自分がなにを見て、それになにを感じたのか、そこを深く掘り下げることが、とても重要になると思います。とてもクサいですが、「ビール液残る小瓶に映る顔」とするだけでも、孤独感が伝わってきませんか?

鉄平 評
季語はビール。ひとりビールを飲む男or女の図。なぜか今夜は酒が進まないという。なにか嫌な事でもあったのだろうか。まず、複数でいる事を想像できるワードが無い限り、一人でいる事になるので上五は不要だろう。「持て余す」と説明するのではなく、例えば「瓶ビールミレドの吹けぬひとりかな」みたいな、持て余している状況を描いたほうが、読み手の心に響くのではないか。

智 評
独酌している寂しさが「持て余す」という表現でうまく表されていると思う。ビールは「飲む」ものなので、「独り飲む」という部分を「飲む」を使わずに表せるとよかったと思う。

大橋 評
自分も全く同じ状況だったので共感いたしました。

野村 評
大切だからこそ逢わない。そういう独り時間のさみしさと尊さをなかなか進まぬビールの苦味に重ね合わせているように思い、共感しました。

 

影のびて二重虹照らす子の額 野村

3点/選者=みみず、稚女、鉄平

苦楽亭 評
わかりにくい句。

風樹 評
ダブルレインボーは幸運のサインとか。子の額に影が伸びてきたんでしょうか。感動は伝わるのですが、何をいいたいのか、ポイントが絞られていないため、よく伝わりません。ひとつのことにしぼって、それについてよーく見ると見えてくるなにかがあります。それを表現出来れば、世界はもっと自然に広がってくるでしょう。そう、たとえば、カメラのファインダーをのぞいて、そのなかの何にピントを会わせるのか。そこが俳句のポイントになるのではないでしょうか。

稚女 評
この影は虹だろうか?二重に見える虹の影が伸びて子供の額を明るく照らしている……の解釈でいいのだろうか?虹は夏の季語で、夕虹と夏虹もある。二重に見える虹を作者は読みたかったのでしょうが、句材が多すぎて景がよく見えてこない。影のばし夕虹吾子のほほ点す……なんてどうでしょうか?

すみれ 評
二重虹を見たことはないが美しく、この虹を見られるのは珍しいことで幸運のサインとも……。雨あがりの空にかかった二重虹を見つけて、眺めている子どもの額を照らす二重虹。美しい場面を想像する。「影のびて」は省略しても良いと思う。

十忽 評
目まいしそうな句。焦点が定まっていない。

与太郎
結論から言うと、要素というか、情報が多すぎる気がします。一句には一つの意味(というか、それを表す一つの情景)だけを切り取る必要があると思います(もちろん例外はありますが)。喩えると、一枚の写真を撮ることを考えるとよい気がします。ある瞬間のある部分をどれだけ切り取れるか。そのことによって、伝えたい事が強く読者に伝わります。この句で言うと、いちばん心を奪われたのはどの角度のどこ光景なのか、それを伝えるために必要な情報はなにで、不要な情報がなんなのかを精査するのがよい気がします。「影が伸びた」ことが言いたいのか、「二重虹」がよかったのか、子供の額のことを言いたかったのか。この時点で、視点が三ヵ所に別れています。また、影が伸びて、虹が見えて、それが額に反射して、と、時間もかなり経ってしまっています(ついでにいうと、虹「が」照らしたのか、虹「を」照らしたのか、も判然としません)。個人的には、子供の額「が」二重虹を照射していた、という句だったら、とても面白かったと思います。それこそが作者の発見なのだと思います。 

鉄平 評
季語は虹。この句は作者より句意を聞いていたので、それを踏まえて句評した。以下作者の句意。『姪のバレエ発表会の帰りに、ダブルレインボーを家族で見たときの思い出です。デコッパチが夕日に染まっていました』。句意を聞くと「バレエ発表会の帰り」がミソな気がする。「影のびて」は夕方を説明しているのだろうが、焦点が散漫になってしまうので、額だけに焦点を当てたほうが印象が強くなる気がする。こんな感じに推敲してみた。「バレエ終えおでこに夕の二重虹」 額を「おでこ」にして対象が子供だと連想させ、バレエ発表会帰りの、まだ興奮冷めやらぬ上気したおでこを、さらに赤く照らす夕日と二重虹。二重虹から二重丸を連想し、今日のバレエは満点だったのかもしれない。作者は今回初参加。ようこその意を込めて1点。

智 評
穏やかなで、温かみのある情景が浮かんでくる。「子の額」を「二重虹」が照らしていると受け取ったが、そうであれば「子の額照らす二重虹」とした方がうまく伝わるのではないかと思った。このままだと、「子の額」が「二重虹」を「照らす」とも読めてしまう。できるだけすっきりと伝わるように言葉の並びを考えてみるといいのではないかと思う。