俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第299回句会報告【兼題句/お題「首」】

8月17日に行った第299回句会「兼題句」報告です。お題は「首」。漢字限定。仮名使いは禁止。「首都」「艦首」など熟語でもOKです。

 

馴れ初めはアカツメクサの首飾り 十忽

2点/選者=苦楽亭、稚女

苦楽亭 評
そんな昔のこと覚えているんだ、なんかホッとする句。

風樹 評
カラオケ店で、懐かしの唄をうたって涙ぐんでいるオバさまを思い浮かべました。まだ、こうした古い情緒は依然として存在していたんですね。令和の時代もまだ戦後なのか、令和になったからこそ貴重な感覚なのか、ついていけない気持ちです。

稚女 評
アカツメクサの首飾りを作って近くにいた太郎ちゃんの首にかけたのは7歳の時だった。あれから同じ小中学校に通った。でも高校は違う学校になり、それ以後は全く会うこともなかったのに、成人式で再会。急速にお互いを意識するようになって、今じゃ、三人の子供のパパとママ。なんんてこともない句ではあるけど、よかったね。

すみれ 評
野原でツメクサで遊び、首飾りをして喜ぶ幼子の姿が浮かぶ。それが馴れ初めの可愛いらしい句。

与太郎
類型な気がします。

鉄平 評
アカツメクサの首飾りなんて、少年少女時代に知り合った二人なんでしょうね。ちょっと昭和の少女漫画臭さがにおってしまって、新しい驚きや感動はありませんでした。

智 評
老夫婦が、幼いころに作ってもらったアカツメクサの首飾りを懐かしんで話している場面が浮かんできた。穏やかで暖かな句。

 

赤べこの首の揺れてる夏座敷 すみれ

地5点/選者=庵々、みみず、智、十忽、稚女

苦楽亭 評
また、夏座敷かい、他の季語ないのかな。

風樹 評
言いたいことはたくさんあるような気はしますが、なんだか安手のポスターを見ているようで、うれしくないのです。作者はこの景を見て、どこに俳を見たのか、それに絞って詠んでいただければと思います。

稚女 評
福島へ帰郷し赤ベコを目にしてきた。この句も句意は特別になく開け放された夏の座敷に郷土玩具の赤ベコが夏の風に吹かれて首を振っている風景を詠んだ句とおもう。夏座敷という開放された場所、そして風の心地よさ、それ以外のものを何も読み込んではいないけれど静かな夏の午後を感じる。

庵々 評

ふすまや障子からすだれやよしずに変わった座敷。風鈴なども下げられている。座敷を風が吹き抜けると風鈴が鳴り、すだれが少し動く。赤べこが首を揺らす。静かで充実した夏風景。残したい風景です。

十忽 評
赤べこの置いてある夏座敷を涼風が通り抜ける風景が良く見える。素直ないい句だと思います。

与太郎
きれいですが、ちょっと聞き飽きている感じがします。

鉄平 評
見たものそのままの句。素直と言えば聞こえはいいかもしれませんが、当たり前の事しか描かれていないので、お世辞にも写生句とは言えませんでした。

智 評
夏の午後の静けさの中、赤べこの首がゆっくりと動いている情景を想像する。全く音を感じさせないが、その中にも僅かな緊張感を感じさせる。

 

首枷をはずせぬままに令和なり 苦楽亭

1点/選者=すみれ

風樹 評
何の首枷なのでしょうか。それがこの句の分かれ道。国際問題なのか、政治問題なのか、個人的問題なのか、読者は途方に暮れるばかりです。具体的なものが分からないので、何かの比喩と考えてしまいます。それだとありきたりになってしまいますね。

稚女 評
ということはこの方は平成時代から何かによってずっと自由を束縛されて過ごしているのだろうか?首枷という言葉から何を想像したら良いのだろう?個人的なものあるいは社会的なものならなおさらにそれを彷彿とさせてくれるものが必要だ。

十忽 評
首枷がどのような意味で用いられているのかよくわからない。

すみれ 評
「首枷」の言葉をつかい、上手くまとめた句。元号が変わっても、誰もが行動の自由を妨げる係累があるということ…下5の「令和なり」が良い。

与太郎
何かの比喩でしょうが、少しありがちな気がしました。

鉄平 評
首枷を外せないでいるのは、作者個人か、自分以外の人間か、それによって句の読み方が違ってくるように思います。中七の「はずせぬままに」は説明ですし、読者にとっては「知った事か」です。

智 評
令和まで外せない首枷とは、どこまで重たいものであろうか。その首枷が何であるのか、読む人によって捉え方は様々であろう。自分は、これまでの歴史の重さと読み取った。

 

首元に〝のようなもの〟飼いならし 与太郎

1点/選者=みみず

苦楽亭 評
前の句と同じ句意だろうな、のようなものがわかるようでわからない。

風樹 評
「のようなもの」とは、何かを比喩する表現。首元にさまざまな比喩全般を飼い慣らしているのでしょうか。それで颯爽と令和の時代をゆく。飼い慣らしているのならば、それを具体的に見たいと思うのが読者の気持ちではないでしょうか。たくさん飼い慣らしているうちのどれかひとつを、名刀村正の切れ味で見せて欲しかった。現在のままでは、読者は欲求不満になるばかりです。

稚女 評
前の句と同じく作者のみしか解釈のできない”のようなもの”をどのように理解したら良いのだろうか?

十忽 評
意味不明。

すみれ 評
「のようなもの飼いならし」の意味が十分理解出来ませんでした。

鉄平 評
この時季でぱっと思いついたのは「ひんやりタオル」。ひんやりタオルはクーラーのようなもの、はちょっと無理があるか。「飼いならし」とあるので生き物なのでしょうか。「のようなもの」が広すぎてイメージできませんでした。

智 評
「のようなもの」「飼いならす」という繋がりがうまくつかめなかった。

 

首もとのアイテム選びにも30分 めんこ

1点/選者=風樹

苦楽亭 評
幸せな時間だろうが、そうですかとしか言いようがない。

風樹 評
首飾りをあれこれ選んで、いつのまにか30分。決めかねていては、相手の人を待たせてしまいますよ。そうか、待たせるのもテクニック。そんな古色蒼然のテクニックはもう流行りませんね。でも何かワクワク・どきどきの気持ちを体験させていただきました。あっけらかんと晴れ渡った休日の午前。こんな明るい俳句も、いいものですね。

稚女 評
首元のアイテムとはネックレス、ネッカチーフ、あるいはネクタイかな?それらを選んで決めるのに30分かかるという句意だろうか?選びにも~の”も”は他のものを選ぶにも30分必要なのだろうか?両方が選択できるのに1時間を要するとなると大変なことだ。しかも、この句はそれがどうしたの部分を詠んでいないので「あ、そうですか』としか言えない。

十忽 評
下五の「にも30分」の「にも」が気になる。また俳句に数字は似合わないと思います。

すみれ 評
時間を明確にした点が分かりやすい。何を選んだのでしょうか?スカーフ、ネックレス、ネクタイ…

与太郎
「も」は不要です。それで表現できないことであれば、大したことではない気がします。

鉄平 評
おしゃれな人は大変ですね。出勤前、デート前、パーティ前、どういった状況でしょう。作者がなにに感動してこの句を作ったのか、読み取れませんでした。

智 評
場面は浮かんでくるが、場面を切り取ったのみで広がりがあまり感じられなかった。

 

首根っこつかみそこねて星月夜 智

地5点/選者=奈津②、十忽、めんこ、鉄平

苦楽亭 評
上5中7と下5の関連性がよくわからない。

風樹 評
今夜こそ相手のウソを証明して、ギャフンと言わせてやると決心してことに当たったのに残念、今夜もうまく身をかわされてしまった。今夜の星はやけに美しい。恋人同士のこんなやりとりも、こう暑くては、ますます暑苦しくなってしまいます。涼風の吹く夜が欲しい。

稚女 評
首根っことくると想像できるのは、小動物、猫の姿が浮かんでくる。つかみそこねてのだから逃げられてしまったのだろう。あ~あ、と忌々しく感じながら夜空を仰げば、沢山の星々がきらめいている。そんな句意でいいのだろうか?「描かれていない分を足して深読みすると』しかし、作者のこの時の思いが描ききられていない。

十忽 評
人間の首なのか、動物の首なのか、または何かの原因を突き止めそこねたのか、それが判然としない。消化不良気味の句だと思ったのだが、これは猫の首だと解釈した瞬間、捕まえそこなった猫が屋根に逃げ、その屋根の上に広がった夜空には満天の星月夜が…。手元の猫から夜空への動画としての数秒間を楽しむことができた。

すみれ 評
何を掴みそこなったのでしょう。小動物を想像しました。やはり、子猫・子犬かな?

与太郎
下五との繋がりがよくわかりませんでした。

鉄平 評
作者は会社帰りでしょうか。あいつとあいつの首根っこを掴んで、自分の好きなように動かせたら、どんなに仕事が楽になるだろう。星空を見上げながら、そんなことを考えているのかもしれません。試しに星空のあのあたりを掴んでみようとしますが、やっぱりうまく掴めない。人間関係を上手にやっていくのは大変です。

奈津 評
ペットと追いかけっこ。捕まえようとして捕まえ損ねて転んで見上げた窓から見えた景色なのかな?

 

首肯せずガラス向こうの原爆画 奈津

2点/選者=智、すみれ

苦楽亭 評
よく解るのだが、俳句として読むと、そうだよねとしか言いようがない。

風樹 評
この原爆画に納得していません、と強く主張しています。ガラス越しに見せる美術としての立場に反対しているのか、あるいは絵自体を納得していないのか。わざわざ「ガラス向こうの」と言っているのだから、ガラス越しに見せる見せ方に首肯していないと考えます。それは画家への批判というより、この方法で提示した側への批判なのでしょう。しかし、首肯しない理由が判然としないので、読者には中途半端な感覚、隔靴掻痒の感覚が残ってしまうのです。

稚女 評
東松山にある丸木美術館で”原爆の図”を見た時の衝撃は大きかった。原爆投下まもない現地での凄惨な光景でただただ恐ろしかったことを記憶している。この句は首肯できない原爆画を見たのだろうか?中七の部分にもう少しそのことに触れてあると理解できるのだが。首肯せずとは納得しないということだろうか?

十忽 評
中七の「ガラスの向こう」が弱いように思います。ガラスがある意味で遮蔽物として機能しているので、その分全体の印象が希薄になったように思います。

すみれ 評
原爆画から東松山市にある「丸木美術館」の「原爆の図」を想像する。ガラスの向こうに展示されている「原爆の図」に見入っている姿が浮かぶ。第1部の「幽霊」から14部まで展示されている。

与太郎
詩として、上五と以下の繋がりがよくわかりませんでした。

鉄平 評
首肯をしていないのは同行者か、または周りの声がたまたま聞こえたのかもしれません。「首肯せず」と「原爆画」は事実で、中七がこの句の「詩」を表現する部分だと思います。「ガラス向こう」から、「手の届かない距離」や「密閉され守られた清潔な空間」など想像しましたが、いずれも上五と結びつかず、詩にはなりませんでした。例えばその場の空気感や、どんな人が首肯しているかや、どんな原爆画なのかがちらりと分かると、また見え方が変わって来る気がしました。

智 評
いつの時代になっても、あの惨劇に対してうなづくことなど永遠にできないであろう。「ガラス向こう」という言葉に、現代とあの時代との隔たりも感じさせた。

 

原爆忌シャンプー台に並ぶ首 鉄平

地5点/選者=智、十忽、苦楽亭、稚女、風樹

苦楽亭 評
この句どう読めばいいのか、過ぎてしまったこととはできない。この首が、シャンプーの容器か、キャップであってほしい。忌だから読めるが、絵だったら怖いよ。

風樹 評
理容室の鏡の前のシャンプー台に並んだ首、首、首。原爆忌と響き合ってたいそう切実な景が繰り広げられています。この首の景は、すさまじく様々な意をもつこととなります。原爆忌としたことで厳しくイメージを絞り込んで、強さを増し、恐ろしさを増します。わずか17文字という舌足らずの文芸である俳句の秘蹟のひとつには違いありません。ただ、その時、歴史的、政治的、社会的、非常なる、非情なる、大いなる意味を持たせることの軽さを、どうしても思わずにいられません。すでに、どうしようもない、どうにもなりようのないことが、あらかじめ了解された上で、俳句とすることを私はできません。これは作者のことを述べているのではありません。○○忌という季語の無責任、無批判、薄っぺらさを述べているにすぎません。私の所有する角川書店発行の「俳句歳時記」に「忌日一覧」というページがあります。1月8日の蒼石忌から始まって12月25日の蕪村忌まで、12ページ二段組でぎっしり俳人の忌日が一覧されています。この中のひとつを選んで一句ひねれば、先輩俳人を偲ぶ立派な俳句ができあがるのです。さらに忌の季語を数えたらどれほどの数になるのでしょう。言葉の乱用これに勝ることがあるでしょうか。言葉のもつ大きさ、重さ、広さ、それを利用してやたらに季語にしてしまうのは、その言葉の文化を卑しめることとなるということを振り返って見るべきではないでしょうか。一つの言葉にはそれぞれ深く、重く、大きく、輝く、闇の、無常があり、その人の独自の世界があります。季語だなんて軽々しくまとめてしまうのは軽薄そのもの。俳句だからなんて、ちょっと思い上がりが過ぎましょう。

稚女 評
今年も終戦記念日、原爆投下日に70数年前の戦争に関する式典がもようされた。原爆で亡くなられた方達を悼み、核廃絶を願う日である原爆忌、作者はどのようにこの風景に出会ったのか、平和な今日、美容院のシャンプー台に並んでいる首たちの様子は平和の象徴に見えるが、どこかしら空虚さを秘めているようにも感じさせる。

十忽 評
原爆忌と美容院の何脚かのシャンプー台の対比が面白い。強引な解釈だが、並んだシャンプー台と死体置き場の風景とが重なって見え、原爆忌とどこかで繋がっているように感じた。

すみれ 評
広島・長崎の原爆忌。「並ぶ首」をどのように捉えたらよいか迷いました。句意を明確に捉えられなかった。

与太郎
わからなくもないですが。でもやっぱり実感として伝わってきませんでした。

智 評
シャンプーをしている市井の人々も、もしあの時だったら一瞬で消え去ってしまったであろう。日常の大切さと、それを保っていく難しさとが感じられた。

 

炎天下屋台の操り首動く 庵々

人3点/選者=奈津、苦楽亭、鉄平

苦楽亭 評
ありえないことが起きる、この暑さで、いずれありえないことが起きるのだろうな。

風樹 評
わたあめ、焼きイカなどの雑多な匂いが立ち込める真夏の祭りの中で、操り人形の首がしきりに芝居をしています。炎天下の夏祭りの騒乱が見えてきます。巧みな活写で一句を成しています。しかし、いつか見た景、いつかあった景の域を出ていないのが、残念。

稚女 評
お祭りの屋台だろうか?ろくろく首なんて演し物が昔あったらしいが。操り首なら動かなければおかしい。動くの表現よりどのような操られ方をしているのかを描いて欲しい。せっかく面白い句材を見つけたのだから。

十忽 評
屋台の操り首がよくわからない。

すみれ 評
夏祭り…屋台の上で演じられるからくり人形(又はあやつり人形)。首を動かすだけで顔の表情が違って見える。作者の見た顔の表情はどのようだったのか?

与太郎
作者の感動ポイントがわかりませんでした。

鉄平 評
どこかの夏祭りでしょうか。屋台の店頭には客寄せに首だけのからくり人形。きっと店主の手作りなのでしょう、お世辞にも可愛いとは言えず、むしろ炎天下に同じ動きを繰り返す首はとても不気味です。上五がつき過ぎなのと、最後の「動く」がちょっと大雑把に感じました。

智 評
酷暑の中の縁日の場面であろうか。屋台に飾られた人形の首が動く情景は、真昼間でも何となく不気味さも感じさせる。

奈津 評

首がなぜどのように動いていたんだろう?

 

キリンゆく首はため息の通いみち 風樹

天9点/選者=庵々、みみず、与太郎③、すみれ、めんこ②、鉄平

苦楽亭 評
ため息にしないで、ソプラノ合唱団にしたらキリンも喜んだか。

稚女 評
キリンはどこへ行こうとしているのか? 長い首の持ち主であるキリンは大量のため息を通わしているのだろう。長い首を持って生まれてきたキリンにはきっと人間には見通せない未来が見えているはず。ため息ではないな~

庵々 評

ケイツイは人と同じ七個だというのにキリンの首は長い。その長い首はため息ばっかり通っていることを発見した。

十忽 評
キリンゆくで切れているはずなのだが、中七の首がキリンの首につながってしまい、奇をてらった句と思われても仕方がない。ため息の通り道という表現は安易だと思います。

すみれ 評
坪内稔典さんの「ちょっとした思いつきが俳句にとって大事」の言葉。この言葉がぴったり。長く伸びたキリンの首。食物の通り道ではなく、ため息の通り道との発想。思いつきがユニークな句。

与太郎
いい句です。若干説明臭いですが、思わずながーいため息をついてしまいます。

鉄平 評
なるほど首が長い分、感嘆も大きく長いのでしょう。ゆっくりと歩きながらゆっくりと溜め息をつくキリンはとても悠然と見えます。ただ「通いみち」は余計でした。なぜ「みち」などと補足してしまったのでしょう、もったいない。

智 評
キリンはやはり首が長い分、ため息をつくのも大変だろうか。キリンはどんなことでため息をつくのだろうか。色々想像できるユーモラスな句。

 

雷雲や諸行無常の首都に住む みみず

1点/選者=庵々

苦楽亭 評
下5が気に入らない、平凡。

風樹 評
この世のいっさいの存在は、姿も本質も、常に流動変化するものであり、不変のものはない。「平家物語」の冒頭の一節が一句を成しています。映画の一シーンを連想させる一句。したがって付きすぎ、常套的。新しい経験をもたらしてはくれませんでした。諸行無常の首都に住むか、住まないかは個人の自由であり、そう考えるのも自由。ただ、首都を諸行無情としてまとめてしまうのは少々乱暴のような気がします。

稚女 評
雷雲と諸行無常と首都、雷雲が発生してみるみる空は暗くなり、雷、イナズマ、降雨夕立が過ぎると瞬く間に夕焼けが広がり虹が現れる、刻々に移り変わる事象の中に生きている私たち、確かに首都と呼ばれる東京人の我々は諸行無常の都市に住んでいると言えるが、有限の時を生きる我々はどこで暮らそうと諸行無常の旅人なのだと思う。

庵々 評

世の中は(現実の世)どこにいても諸行無常なのだろうが、それを首都としたおもしろさ。首都には欲望が渦巻くのだろう。果てしのない…。

十忽 評
中七の用い方が意味不明。

すみれ 評
仏教用語を用いた句。雷雲に覆われた首都東京、その下に住む私たちの日常は常に変化して暫くもとどまらない。諸行無常の言葉をつかわない表現はないのか?

与太郎
上五が中七以下の印象を薄めている気がします。

鉄平 評
俳句で諸行無常を使ってはいけないとは思いませんが、使い方はかなり難しいですよね。なぜなら俳句は諸行無常を発見し、作者の言葉に置き換えて詩にするからです。すべての俳句には「諸行無常」が含まれています。作者には、首都ならではの「諸行無常」を作者の言葉で詩にしてほしいです。

智 評
「首都」は今の時代を象徴する比喩であろうか。雷雲という不安を感じさせる言葉が、今の時代の不安定な変化の早さを一層強く感じさせる。

 

もっぱらに上下する首ビアガーデン 稚女

1点/選者=風樹

苦楽亭 評
面白い句だと思う、上5がいいのだが、ちょっと平凡かな。

風樹 評
ジョッキをあおったり、つまみへ口で迎えたり、話したり、立ったり、座ったり----。ビアガーデンの騒々しい風景を描写しています。効果的、日常的、川柳的軽さ。まるで騒音がそのまま聞こえてきそうです。実は上下するのは首ではなく、頭なのかも知れませんが、首だからこそ一句が立ち上がった。これが頭だったら、あたりまえの風景でした。首であることで、ある種幻想的な景にまでつながっていったのでしょう。ここに俳句の妙があるのですね。ビアガーデン、ビヤガーデン、どちらなんでしょうか。

十忽 評
客の首なのか、ビアジョッキを持っているスタッフの手首なのかよくわからない。今ひとつでした。

すみれ 評
仲間と一緒に、陽気にビールを飲んでいる姿。「上下する首」に注目している点が面白い。

与太郎
ちょっと無理がある気がします。

鉄平 評
水飲み鳥のごとく、首を上下しながらビールを飲む客たち。チャップリンのモダンタイムスのような動きが想像できて面白いのですが、中七下五は想像の範囲内。これだけでは月並みだし物足りない。そこで上五が引き立て役となります。ここに何を持ってくるかがこの句の勝負どころです。が、しかし「もっぱら」とわざわざ言う必要があったのでしょうか。無くても「もっぱら」と容易に想像ができ、逆効果に感じました。

智 評
情景は浮かんでくるが、見たままのものという感じがした。

 

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