俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第300回句会報告【自由句】

9月14日に行った第300回句会「自由句」報告です。

 

 老人鬼蜻蜓にのり月下走る 苦楽亭

3点/選者=稚女、すみれ、与太郎

風樹 評

月下のメルヘン。景が浮かびます。上五・中七・下五すべて俳句の調べとリズムを無視しています。メルヘンだからこそ、それもまた効果的といえるのでしょうか。今、流行のアニメーションの影響もあるのかもしれません。ただ、このメルヘン、楽しいばかりで、哀しみとかわびしみとかが隠されているようには見えません。たとえば大人のメルヘンと思える写楽の大首絵には、どこか人間の存在のもつ侘しさ、後ろめたさを秘めている。そしてなによりも、何よりも、浮世絵世界にまったく新しい冒険をもたらしました。だからこそそこにメルヘンの価値があるのでしょう。そんなこと望むのはコクでしょうか。

稚女 評

老人の一睡の夢かな。年を重ねると走るという行為は難しくなる。少年の頃捕獲することが夢であった、オニヤンマの背に乗って月の輝く下を走りたい。下五は走ると表現しているけれどここは、走りたいなのだろう。月の光の下は静かそうだ。

十忽 評

オニヤンマに乗るという発想が下五と呼応していないように思います。

すみれ 評

老人が鬼ヤンマに乗り、月の光の下をゆっくりと飛んでいる様子を思い浮かべた。秋は月の美しい季節。近くを一周しているのか、老人は何処へ向かって飛んで行くのか?ファンタジーの世界で、ユーモアの句。

与太郎

長く囚われの身になっていたため、鬼と化した老人。秋になり、鉄格子の隙間から蜻蛉が飛び込んできたのを幸いに、それに乗って月かありの夜を飛び回る。これぞ不良老人の悪あがき。思わず微笑んでしまう。もう少し、言葉選びと流れに気を遣ってくれれば、もっと気持ちよくいっしょに走り回れた気がします。

鉄平 評

ファンタジーでしょうか。ファンタジーぽい材料は並んでいますが、そこに物語性を感じませんでした。嘘を真に見せる力が足りない気がしました。

智 評

鬼蜻蜒にのっているのは老人の心であろうか。月明かりの下の幻想的な風景が感じられる。

 

四角い雲北へ流れ相模は秋 庵々

無点

風樹 評

雲の流れを詠んで、相模の秋を表現しています。肩の力が抜けて、さりげなさがこの句のポイントとなっているのでしょう。この業界では“挨拶句”というジャンルがあるそうです。しかし、この句からは不思議と「相模」という土地のイメージが浮かび上がってきません。相模を知らない人にはまったく手がかりがなく、イメージをつくることができないのです。いま一歩相模を掘り起こしていただければと思います。

稚女 評

この句のポイントは四角い雲だろう。秋の雲は夏雲と違い浮かんでは流れ、鰯雲のような広がりを見せる。小さな雲片のようなものもあるが四角い雲というイメージが持てない。「相模は秋」という表現はとても良いのですが。

十忽 評

四角い雲にもっと拘ったほうがよかったのでは。

すみれ 評

四角い雲…珍しい形の雲。空を見上げると雲はゆっくりと流れ、季節の流れを感じる。自分の住む相模にも雲の流れで秋が訪れたことを感じたのでしょうか?

与太郎

空を見上げると、豆腐のような雲。立方体の白い塊が、意外な速さで動いている。あっちは北か? じっと眺めていると、雲が動いているのか、空が動いているのか、はたまた自分が動いているのか、よくわからなくなる。心地よい浮遊感。……ふと我に返ると、自分は神奈川県にいて、まわりは秋だった!……と、この下五への感情の流れがどうしても理解できず、我に返らざるを得ません。はたして、作者が伝えたかったことは、本当に「神奈川県の季節」なのでしょうか。四角い雲は「秋」しか感じさせなかったのでしょうか。動きかけた心が下五でしぼんでしまいました。

鉄平 評

たまにありますね四角い雲。なんとなく見つけた四角い雲がなんとなく北へ流れて行く。のほほんと相模の空を眺める作者が見えました。上句と中句で秋を感じられましたので、最後の秋はいらないなと思いました。

智 評

雲というと緩やかな形をすぐに思い浮かべるが、四角いという表現が面白いと思った。

 

利根川の長き流れや投げた石 みみず

1点/選者=めんこ

風樹 評

広い利根川の、ゆったりと流れる川面を横切る水切りの石。あるいは対岸へ向かって投げられた石。広大な風景を切り裂くひとつの石。静と動、大と小、硬と軟。対比が生む緊張の空気景を表現しています。ただ、上五・中七のだらだら感、下五のゆるい表現と、全体に言葉への削り出しがゆるくなってしまったようです。言葉の緊張感を追求されれば、さらに鋭い“俳”が現れてくるのではないでしょうか。のんびりとゆったりと、茫洋感ある俳句にはそういう背景を隠しているものです。

稚女 評

利根川、またの名を坂東太郎、で日本で最大の川なれば、長き流れは言わずもがなです。そうなるとこの作者の表現のポイントは投げた石で、誰が何のために、いつ、どこからの疑問に答える言葉が見つからず結局、この句を確実に読み取ることができませんでした。

十忽 評

利根川の流れと投げられた石の関係がよくわからない。もう少し描写に工夫がほしかった。

すみれ 評

利根川は日本で二番目に長い川。川の前に立ち、流れを眺めている作者。自然に石を投げたくなる気持ちを詠んだ句。「水切り」でも良いのか?

与太郎

利根川の流れは、いったいどのくらい長いのだろう。本当に長いのだろうか? 何を見ると、長いと感じられるのだろうか。それは水の速さ? 石の形? 果てまで続く上流? そんなこととは関係なく、投げた石は弧を描いて宙にある。その刹那感。そこは感じられる。が、どうしても上五中七の机上の空論感に、心が凝り固まって動かない。見たもの、聞こえたもの、触ったものなど、五感で感じたもので「長さ」を伝えてくれれば下五がもっと引き立ったのになぁと残念です。余分な知識や情報や経験は、かなぐり捨てたいものです。お互いに。

鉄平 評

大抵の大河ならば「長き流れ」は想像できますが、この句ではわざと説明しています。そうしたからにはそれを生かした下五でないと納得できません。しかし川に石を投げるというなんとも普通の風景でした。残念ながら感動しませんでした。

智 評

流れた石はどこに流れていくのか。それともその川底に留まるのか。大河の大きさと石の小ささの対比が面白いと思った。

 

風を帆にすべらせ秋の沖めざす 十忽

1点/選者=めんこ

風樹 評

海のかなたをめざしてすべるヨット。一幅の絵を思わせる爽やかな、希望にあふれる一句。風景句ともいうのでしょうか。それにしてもこの健康さはどこからくるのでしょうか。影の全くない日向ばかりで勝負というところですかね。もはやこの健康性は、私にはついていけません。うらやましいばかりです。

稚女 評

ヨットを操って秋の海に乗り出している風景だろう。問題は「風を帆に滑らす」のか「帆に風を受けるのか」がヨットに乗ったことのない私には不明だ。ヨットを操っている映像を見ると帆はパンパンに張っていて、滑らすというようには見えないのだが…。

 

すみれ 評

波に乗り、気持ち良く進むヨットの姿を想像。作者も十分楽しんでいると同時に、見ている人をも楽しませてくれる句。

与太郎

風を捉えたとき、ヨットの帆は美しい立体の曲線を描く。その艶やかな面を、風は舐めるように滑っていく。まるで肌を指でなぞるように。その勢いをかって、秋の沖を目指しましょう。と、僕の無想はぶった切られる。官能的だった曲線は目的地を目指す道具に成り果て、風はただ効率的に吹き続ける。本当に目指す場所はただの秋の沖ではないはずだ。そこに何があるのか。それを知りたい。

鉄平 評

ヨットでしょうか、気持ち良さそうですね。作者は秋の帆を詠みたかったのでしょうか。それとも秋の沖を読みたかったのでしょうか。

智 評

風に乗って大海原へ飛び出していきたいという心情が感じられた。

 

胃袋も心臓も喰う夏じまい 稚女

3点/選者=苦楽亭、十忽、鉄平

風樹 評

夜の駅前の赤ちょうちん。ホルモン焼きで酎ハイをあおり、なにを語っているのか、つい熱がはいっています。そんな夏の金曜日の夜の一風景。せめて語り合うのは仕事のストレスやカミさんへの尽きせぬ不満、いつまでもあがらない給料の不満などではなく、日本人の精神について、進むべき社会の理想について、現代文学の軽さへの憤りについて、真摯な議論であったらと思ってしまいます。

 

十忽 評

発想が素晴らしい。夏バテ解消にホルモン焼きでしょうか。上五、中七の意表を突いた表現に驚かされました。

すみれ 評

長かった夏も終わり、ホッとしている。夏の疲れが出る頃でしょうか?「胃袋も心臓も喰う」の表現が、焼き肉やホルモン屋と理解出来なかった。

与太郎

待ち合わせて入った店は、煙が立ちこめ、油が焼けるにおいが充満している。ビールも早々に、網の上に胃袋や心臓を切り刻んだものを並べる。したたる脂が煙を増強し、匂いが胃を突き動かす。待ちきれずに口に放り込む。さらにしたたる汗。とはいえ、長く続いた夏も、そろそろ終わりそうだ。終わるに違いない。あれ、終わるのかな? 終わるはず……、終わってくれるかな……。そういえば冬にもおんなじようなことを言っていたような……。なんとなく、夏がしまいきれない……。まあ、臓物でも喰おうか。

鉄平 評

夏の疲れを吹き飛ばさんと、肉を飲み込む作者。谷口ジロー孤独のグルメ」のひとコマに「うおォン 俺はまるで人間火力発電所だ」というセリフがありますが、まさにそれですね。下五の「夏じまい」は苦労したのでしょうか、取って付けた感じがありありでマイナスです。

智 評

夏バテにはやっぱり精をつけたい。それにはホルモンが一番。夏の暑さが残る一場面がうまく表現されていると思った。

 

夕凪ぎて総立ちとなるヒップホップ 鉄平

人5点/選者=稚女、苦楽亭、すみれ、庵々、風樹

風樹 評

そういえば昔、何とか高原で数万人の若者達が夜通し熱気をあげたナントカ・コンサートなどというのがありましたね。ピタリと風が止まった夕刻のひととき、ヒップ・ホップのわけのわからない今風コンサートに総立ちとなる若者。今も昔も変わらないということですか。香港の若者達の“やむにやまれぬ”怒りを切実に思ってしまいます。背景に何があろうが、若者たちが総立ちになる時、きまっていつも大人のみっともなさが浮き彫りになってくるから不思議です。大人は悪い。

稚女 評

上五の夕凪ぎての「ぎ」は必要だろうか? 海辺で開催されているコンサートだろうか、海も凪ぎる頃、いよいよ盛り上がり観客も総立ちになってヒップホップに夢中になり始めた最近テレビ映像で流される、コンサートの観客動員数の凄さに驚く。あれだけの人のエネルギーもすごいものと想像するが、あの場への往復の交通のことや会場のお手洗いのことなどはどのように用意されているのだろう…なんて下世話なことを思ってしまう。

庵々 評

海風が止んで陸風が吹き出す。昼から夜へと交替する時期の凪をキッカケに音楽が流れ、若者が踊り出す。夕闇に踊り出す現代のおどりと見た。

十忽 評

砂浜でのヒップホップ・パーティーでしょうか。中七だけでは情景がイメージしづらいと思います。ラップかダンスの様子も知りたいと思いました。

すみれ 評

海面が静かになる夏の浜辺の夕方時、一斉に全員が立ち上がりヒップホップダンスを踊り始めた若者達。躍動感が伝わる句。

与太郎

夕方になり、風が止まる。むっとした空気の中に、淀んだ海の匂いがまじる。やりきれない。まくし立てる大音量が、神経を逆なでする。すり減らす。疲弊する。突然、目の前の集団が立ち上がり、奇妙な動作を繰り返す。それはヒップホップと呼ばれている踊りらしい。流行りの。でも、僕にはマスゲームにしか見えない。集団の統制と強要。そして排除。きっとそれは考えすぎだ。目の前の光景は、ただ軽薄で、ただ今っぽい、よくある日常だ。自分には縁遠い世界というだけだ。

 

智 評

コンサート会場の一場面だろうか。観衆の熱気と、夕凪という静けさの対比がいいと思う。

 

大榎玉虫ひろいて朝の幸 すみれ

無点

風樹 評

そういえば昔、奈良通いをしていた頃、国宝「玉虫の厨子」のある法隆寺に行ったとき、作務中の寺の坊さんが草むらから虫を捕まえて私に見せて、説明してくれました。玉虫の雌でした。何かの因縁かも知れないと言っていました。そんなことを思い出させてくれた一句です。静かな、あくまでも穏やかな朝の風景。一読、さらりと流れていって、印象を残さない。いわば、潔い一句なのですね。

稚女 評

辞書によると美しいので装飾用にされるとあるがどういうことだろう? 確かに光沢のある金緑色で美しいが幼虫は桜やケヤキなどの食害であるらしい。確かに美しいものを得ることは幸せなことではあるがこの「幸」と感じた思いをもう少し違う言葉で語ってほしい。

十忽 評

榎の大きさや玉虫がどのように落ちていたのかが知りたい。

与太郎

かつて、応援しいてたサッカーチームに、とても頼りになる選手がいた。気の利いた場所に顔を出し、相手のボールを奪い、味方に届けた。ときにはゴール前に顔を出して得点を決めたり、決めさせたりした。大榎という名前だった。おそらくそれは、関係ないだろう。クビを振って妄想を振り払う。朝、散歩に出かける。大きなエノキの木の下で、虹色に輝く丸い玉を見つける。玉虫だ。屈んで拾う。これは良いものを手に入れた。さっそく活け作りでいただこう。朝の散歩はこれだからやめられない。……どのように感じたから「幸」せなのか、それはどのような「幸」なのか、作者はどんな人なのだろう。疑問ばかりが増えていく。人となりを知りたかった。拾ったと説明するかわりに。

鉄平 評

榎、玉虫、朝、作者の感動ポイントはどこでしょうか。全てが説明になってしまっている気がします。もっとポイントを絞ってはどうでしょう。

智 評

大きな榎を取ったら、玉虫も一緒についてきたのだろうか。「朝の幸」という言葉に、植物であれ、動物であれ、いのちの尊さに変わりはないという視線が感じられる。

 

秋の宵尾灯かすませバスがゆく 智

2点/選者=風樹、十忽

風樹 評

どこかの田舎道の夕暮れです。バスの灯がゆっくり遠ざかっていきます。アニメーション映画「トトロ」の一シーンを思わせてくれました。バスはいいですね。決してあおり運転もないし、高齢者運転の危なっかしさもないし、いかにものんびり夜といっしょに動いているようで、ほんのりします。そうか、夜はバスが連れてくるんですね。  

稚女 評

この句は一読して状景がすぐ目に浮かぶ。夏のいつまでも暮れない頃にかわってつるべ落としと言われる秋の宵。夏よりも空気も乾燥し尾灯の赤も際立って見える、惜しむらくは、下五、尾灯とあれば乗り物をイメージできるのに「バスが行く」で終わらせてしまっているここでもう一つ物語ってほしい。

 

十忽 評

山沿いの風景が浮かびました。靄に霞む秋の宵にバスの尾灯だけが次第に遠のいてゆく、静かなもの寂しさを感じさせてくれる佳句。

すみれ 評

「秋の日はつるべ落とし」。日が暮れるのが早く、夕暮れは周りの景色が見えにくいという。テールランプを点灯してバスが通り過ぎていくが、夕暮れはテールランプがぼやけて見ずらい。バスは郷愁を覚え、何か寂しいものを感じさせる句。

与太郎

秋の宵である。薄暗くなった道を、尾灯をゆらしながら、バスが走り去っていく。あ、終わっちゃった。何を感じたら良いのだろうか。秋の宵といえば寂しさだろうか? 走り去るバスといえば、寂しさだろうか。霞む尾灯に、寂しさ……だろうか。なんだかどこを見ても作者がおらず、誰かがまた同じことを言っている、という感じがしてしまう。

鉄平 評

霞んでいるのは霞みがかっているせいか、はたまた作者の心情がそう見せているのか。きっと後者なのでしょう。秋の物悲しさを感じる一句ですが、表現方法としては類型的な気がします。また突き詰めるとこの句は中七だけでも意味が通じると思います。霞んでいる尾灯をもっと追及してほしいです。

 

 

なみだ跡遮光器土偶の目の端に 風樹

天7点/選者=智②、苦楽亭、庵々、すみれ、与太郎、鉄平

稚女 評

中七の遮光器土偶がどのようなものかイメージできません。普通に誰も見ているものなのか、あるいはこの作者個人の制作物なのか、ただこの句から見えてくるのは交通量の多い道路の道端に光を遮るための土で作られた人形が立てられてありその人形の目の端に涙の跡が見えるという、この涙は交通事故の結果、亡くなった方へのものなのだろうか?

庵々 評

千年以上も前から大きな目をして立っている土偶は、一度だけ涙を流したことがある。その涙の跡は作者の心の有り様を映したものか。そんなミステリーが楽しい。

十忽 評

遮光器土偶を句にしようとした意気込みは良かったと思います。目に特徴がある土偶ですから、そこにもっと拘ってほしかった。

すみれ 評

縄文時代に作られ、目を強調した遮光器土偶。ゴーグルをつけたような目力アップの土偶を見た時、作者は涙跡を感じたのでしょう。遮光器土偶を句に持ってきた意外性のある句。JR五能線の「木造駅」は遮光器土偶の形をした迫力のある駅。

与太郎

縄文土器の企画展。遮光式土偶を、正面から見たり、横か見たり。つくづく不思議な形だ。離れてみたり、近寄ってみたり。彫られたり、粘土でつけられた模様は、託された祈りや願いのようなものなのだろうか。不可思議ながら規則的な文様の中に、ふとその秩序にはない模様を発見する。切りつけられたような線だ。それは深海魚のように突き出した目の端にあった。後年ついてしまった傷なのか。それとも作者がつけた傷なのか。泪、なのかも知れない。と思った。とすれば職人の、量産へのささやかな抵抗なのか。あるいは、所有者がつけた傷なのか。いずれにしても、この泪にはどんな思いが刻まれているのだろう。作者の泪は、どんな泪なのだろうか。

鉄平 評

遮光器土偶になみだ跡を見た作者。人類の長い歴史を見てきて流した涙か。はたまた宇宙での遭難者が地球に不時着し、故郷を想い流した涙かもしれない。いずれにしろ想像はつきない。ただ下五の「目の端に」は残念。なんでわざわざ説明しちゃったの?

智 評

展示されている土偶にあたる、遠慮のない遮光器の光。長き時を経て、思いがけず掘り起こされ、人目にさらされる状況に戸惑う悲しみ。無機質であるはずの土偶の生命を感じさせられた。

 

屹立の木綿豆腐や帰り路 与太郎

地6点/選者=智、稚女、風樹、十忽、めんこ、鉄平

風樹 評

「帰りにスーパーで豆腐を買ってきてね」と職場に遠慮無く電話してくる奥さんを詠んだ一句----ではおもしろくもないので、考えを変えました。一日の仕事を終えた帰り路。降り立った駅を抜けると、左右に屹立する木綿豆腐のようなマンションやビル群。もはや日本の都市部の風景は“屹立”だらけ。それもまたやすらぎの風景とかわっていくものなんですかね。「屹立」の上五に、人を寄せ付けない冷たさがあるのですが、実はやわやわな豆腐と見た作者のシニカルな視線が痛ましい。社会はもはや後戻りはできないけれど、さまざまな知恵を発揮する社会がいずれおとずれるのでしょうか。

稚女 評

帰り道とはどこからのだろう?なぜ、絹どうふではなく木綿豆腐なのか?そして、その豆腐が高くそびえ立っているとは? 豆腐大好きの作者は帰宅途中もう、頭の中で、今夜の食卓に並ぶでっかい木綿豆腐冷奴に心ときめかせているのだ。

十忽 評

豆腐が屹立しているという一点だけでも秀逸である。今夜の料理は麻婆豆腐でしょうか。

すみれ 評

木綿豆腐は絹ごし豆腐と比べると固い。それを「屹立」と表現したのか?「屹立」に意味があるのだと思うが、その意図をはっきり掴めなかった。木綿豆腐を買って帰る、今夜は冷奴かな?

 

鉄平 評

夜遅くまでパソコン画面とにらめっこをしていれば、木綿豆腐の世界に迷い込むこともあるのです。現実を生きるための様々な不安が、もろさの象徴として木綿豆腐を、作者の深層心理として見せているのです。「帰り路」という表現や、「や」が効果的に使われていないなど、推敲の余地はありそうです。

智 評

作りたての豆腐の新鮮さ、それを持って帰る帰り道でのワクワクした感じが伝わってきた。

 

空蝉の揺れる葉の陰ギプス足 めんこ

人5点/選者=みみず③、庵々、与太郎

風樹 評

作者の日常に、こうしたやすらぎがあれば、それもまた人生後半生の生き方となるのですね。悲痛な病を得て、しかしそれをしっかりと受け入れて過ごす日々の、精神の健気さが一句にただよっています。

稚女 評

揺れる葉の上に空蝉が乗って一緒に揺れている。その葉の下かげに石膏で固められたギプス足がある…という意味だろうか? やんちゃ坊主がセミを捉えようとして木から転げ落ち、ギプスをはめられてしまった。それでもセミが大好きで揺れる葉の上の空蝉に手を伸ばしている。ギプス足が突然で作り話に困ったが。

庵々 評

上五中七のリアリズムは下五の登場によってバランスを崩す。崩れたことによって句は成功している。アンバランスによる効果の楽しさがあると思います。

十忽 評

空蝉かギプス足かどちらかに焦点を絞った方がよかったのではないでしょうか。木陰で涼んでいる足には白いギプスが施されている景色は面白い。

すみれ 評

蝉の脱け殻がしっかりと葉を掴んで風に揺れている。その葉の下で自由に歩けないギブスをした足を木陰で休ませている。夏のギブスは暑くて大変…涼しく休んでいる人の様子が見えてくる。早い快復を…。

与太郎

セミの抜け殻が、葉の裏に付いている。葉は風に、かすかに揺れている。抜け殻は、振り落とされずにしがみついている。力強く。思えばこの強さは、セミが誕生の踏ん張りの強さだ。背を割り、のけぞり、羽を広げ、飛び立つための踏ん張り。ときが来ればセミは飛び去り、抜け殻はそこに残る。抜け殻は、過去に活きている。誕生の記憶にすがり、飛び立たんとする思いだけを受け継ぎ、今も踏ん張っては二氏が三井ている。自分のギプスも、自分という主を失ったあと、このように踏ん張り続けるのだろうか。どんな思い抱いて、踏ん張り続けるのだろうか。自分は、セミのように自由に飛び立つことができるのだろうか。なんの気遣いもなく、ただ自由に歩いていたときのように。いや、これは、新たな誕生なのだ。ハッピーバースデー、私の脚。できることなら長く生きながらえられますように。

鉄平 評

空蝉、揺れ、葉、陰、ギプス。作者からたくさんの材料が届きましたが、この中のなにに作者が感動したのか分かりませんでした。

智 評

蝉の抜け殻、自分の思うようにならない身体。二つの悲しみや空虚感が重なって感じられた。