第296回句会報告【自由句】
5月18日に行った第296回句会「自由句」報告です。
- 薫風や毒を含みて友見舞う 鉄平
- 虹淡しまあるく握る泥だんご 稚女
- 誕生の家で遺影がつと動く 風樹
- 泳ぐ魚水底(うおみなぞこ)大空自在の季 苦楽亭
- 一輪車8の字のの字五月空 すみれ
- 五月雨や秒針の音かき消せり 智
- リラの風ときどきわたりくる離れ 十忽
- 雪解けて物干し竿を設置せり めんこ
- ふくらはぎ満員電車を切り裂いて 与太郎
- 若葉雨前行く人の背に染まる みみず
- 山なかの竹林の雨首夏を帯ぶ 庵々
薫風や毒を含みて友見舞う 鉄平
地3点/選者=苦楽亭、みみず、庵々
苦楽亭 評
この毒はどんな毒、普通なら不自然な句だと思う。友を見舞うのに毒とは、それも薫風の時に、文字にするとそうゆうこともあるかと思わせてくれた。気持ちの悪さに一点。
風樹 評
若葉の香りを漂わせてそよぐ風の気持ちの良い初夏の一日、入院している友人のお見舞いに行くという。それは何の問題もない。問題なのは〝毒を含みて〟行くということである。これはただごとではない。どんな毒なのか、なぜ毒をなどを含んで行かねばならないのか、いったい何に使うつもりなのか、謎が謎を呼ぶ。この謎が解けないかぎり、この句を実感できない。とりあえず、毒というままで、読むほかあるまい。
庵々 評
庵々への見舞いの句だと勝手に思いこんでいただきました。この「毒」は人をキズつけたり殺したりする毒ではなく、人を生かす毒である。自然界の「薫風」と現実の「友」によって句は構成され、句の世界がつくられています。句のやさしさを素直に受け取りました。
稚女 評
風薫る五月・なぜか毒を抱いて友人を見舞うという。毒舌なる言葉があるが極めて辛辣な皮肉や批判の言葉は人の心を傷つけるものであるのに、それを胸に抱いて見舞う行為には、病気の友人の不摂生をたしなめる毒、説教なのか毒の存在が不明で頂けませんでした。
十忽 評
中七の毒を含みてに違和感を覚える。
すみれ 評
「毒を含みて」は友を励ます言葉と考えてみました。実際の病状とは違った〟反対〟の言葉で励ます事がありますが、その状況なのでしょうか?薫風の中、友の快復を祈りたい…。
与太郎 評
「毒」を「毒」と言わずに感じさせて欲しかった。季語との対比も新鮮味がなく感じました。
智 評
爽やかさと陰鬱さの対比はいいと思うが、「毒」という言葉がやや強すぎるか。
虹淡しまあるく握る泥だんご 稚女
天4点/選者=すみれ、風樹、めんこ、与太郎
苦楽亭 評
一読美しい句とも思えるのだが、幼稚園あたりで見た句かな。泥だんごが突飛な感じがしていただけない。
風樹 評
泥だんごと言うだけで、なぜか悲惨なイメージを持ってしまう。だんごの出来映えが良ければ良いほどよけいに哀しく、痛ましい気持ちが伝わってくるのだ。しかも淡い虹の元でひたすら泥だんごを丸めている姿は、いっそうみじめな気持ちがいや増してくる。「まあるく握るわら人形」を思わざるをえない。どうかスプーンいっぱいの慰めをと、言いながら、けっこう楽しませていただきました。
十忽 評
中七の、まあるくにわざとらしさを感じて採れなかった。
すみれ 評
雨上がり、砂場で無心に泥だんごを作る子どもの姿が浮かびます。時には泥だんごに「アリ」が入っていることもあります。泥だんごを上手に作るのは土が割れたリ、なかなか難しい。最後に乾いた土を振りかけて完成。上五の「虹淡し」虹が優しい感じを出している。「まる」でなく、「まあるく」がよい。
与太郎 評
感情移入や共感の度合いはともかく、詩になっていると思います。説明でなく。
鉄平 評
「まあるく握る泥だんご」は事実で、これに何かを感じさせるのが「虹淡し」では作者の意図が伝わってきませんでした。
智 評
一生懸命泥だんごを握っていた子供が、ふと虹に気付いた様子だろうか。「まあるく」が優しさを一層強く感じさせる。
誕生の家で遺影がつと動く 風樹
天4点/選者=苦楽亭、稚女、みみず、鉄平
苦楽亭 評
こんなことあるわけないだろう、でもある。
稚女 評
誕生の家とは実家ということではなく、新しい生命が誕生した家なのか?つと動いた遺影は誰のものなのか、なぜ動いたのかを想像させる材料が見当たりません。生命の誕生と喪失を読んだのでしょうか?
十忽 評
中七の、遺影がつと、のなぜ「つと」を用いたのかその意図が良くわからない。
すみれ 評
作者の「生家」での体験でしょうか?生家でくつろいでいる時、いきなり、遺影が動いたように見えたのであろう。誰の遺影なのか、どのような動きをしたのか知りたい。微笑んだのかもしれないです。
与太郎 評
「つと」動いたものを、僕はいまだかつてみたことがありません。ので、意外なものが「つと」動いても、その対比がよくわかりませんでした。
鉄平 評
何か感じるものはありました。が、つと動くがなにを表現しているのかを読み取れませんでした。
智 評
誕生と遺影という生と死の対比。「動く」という言葉に、死者と生者とのつながり、動的関係性が感じられる。
泳ぐ魚水底(うおみなぞこ)大空自在の季 苦楽亭
1点/選者=すみれ
風樹 評
五月晴れの空を鯉のぼりがひらひらゆったり泳いでいる。じっとながめていると、まるで水底を泳いでいるかと錯覚さえしてしまう。その自在感は読者を楽しませてくれる。ところが、下五で「そういう季節ですね、みなさん」と共感を求めているようだ。せっかくの自在なイメージが、単に、そういう季節ですとしてしまった。もったいないな。そういう季節を感じるのは読者の方で、作者が念をおしてしまっては、俳句ではなく、解説になってしまう。
稚女 評
五月の節句の鯉のぼりが川の両岸に私た綱に結ばれて薫風に揺れてまるで泳いでいるように水底に写っているという風景。材料が多すぎる割にはまとまりがなく自在に泳いでいる姿を彷彿させない。焦点を絞り込んだらと思いました。
十忽 評
詠んでいる世界は理解できるが、ありふれていて面白くない。
すみれ 評
魚にとって水底は大空と捉えました。季節「春・夏・秋・冬」に関係なく自分の思うままに泳ぎまわる魚。この事を「自在の季」と表現したのは新しい言葉ですね。
与太郎 評
落ちが「季」で、がっかりでした。
鉄平 評
魚が水を空を自在に泳ぐような、作者はそんな心持ちになったのでしょうか。具体的な季節は言っていませんが、今ぐらいの季節(初夏)なんだなというイメージはできました。ただ説明が多く、語感もゴツゴツとしていて、初夏の爽やかさを消してしまっている気がしました。
智 評
水底にあっても大空をも我がものとしている生命力を感じられる。
一輪車8の字のの字五月空 すみれ
地3点/選者=稚女、風樹、与太郎
苦楽亭 評
どうして一輪車を読むと8の字ののじにしてしまうのだろう。5月空なのだから、空でも飛ばしてみれば。
風樹 評
小学生ほどの、妙に大人びた目つきですまし顔の女の子。ためらうことなく一輪車に跳び乗ると、8の字ラインにのの字ライン。みごとに乗りこなすその姿。あくまでも冷ややかな視線の流し目で颯爽と一輪車舞踊が繰り広げられるのでした。空は青空、五月晴れ。あゝしかし、何かがたりない。何が足りないのかわからないけれど、やっぱりたりない。作者はその不足感こそ俳句なんですよと、突きつけてくるようだ。
稚女 評
五月の空の下で一輪車を上手に乗りこなしている子供が見えている。8の字に成ったりのの字を描いたりしてバランス良く乗りこなすのは多分、子供と思って読んでみたがあるいは青年かもしれない、大人かもしれない。下五を五月の児…にするとはっきりするけれど、あるいは8の字、2の字、一輪車、五月など数字尽くしにしても面白いのでは。
十忽 評
中七が面白くない。詩情が感じられなかった。
与太郎 評
下五が残念でした。が、一輪車が動いて見えました。
鉄平 評
元気いっぱいの子供の姿が見えました。それ以上の感動はありませんでした。
智 評
ふらふらと動く一輪車の動きと晴れやかな空の描写に穏やかさを感じられる。
五月雨や秒針の音かき消せり 智
1点/選者=十忽
苦楽亭 評
下5が嘘だ、五月はかき消すほど強くない最近はそうでない?
風樹 評
さみだれはすなわち梅雨。しとしとといつまでも静かに降り続く雨のこと。このしとしとという静かな音がチクタク、チクタクの音をかき消しているという。微妙な静けさを表現しているということか。音をあつかえば、静けさの状況を伝え易い。しかし、音で、あるイメージを想起させるのはなかなか難しい。挑戦やよし!! ただし、この景はわりにたくさん詠まれていることを思い起こしてみた方がいいのではないか。雨の音と時計の音のセットはイージーだったかも知れません。
稚女 評
切れ字二つを使用した句である。明治は~の作品のような例もあるが、果たしてこの句は五月雨を強調しているだろうか?明治~の句は上五の切れ字を使って一つの現象の中に人を誘い込み、中七、下五は全く関わりのない世界を詠っている。五月雨句は一句仕立てで作られていて、切れ字二つが生かされていず、でいただきませんでした。
十忽 評
突然の雨に周囲の音が掻き消されてしまう。もちろん秒針の些細な音などは言うまでもない。しかし雨が降る前までの、秒針の音が聞こえていた静寂な空間があったことに気づかされる。ふたつの種類の音が属した空間の落差を詠んだ佳句である。
すみれ 評
音の静かな秒針。秒針の動きには2種類ある。ステップ秒針と連続秒針。激しい雨音で消される秒針の音…秒針の音が聞こえる静かな部屋を想像する。
与太郎 評
「や」の意味がわかりませんでした。「かき」消すという状態もよくわかりません。なにがかき消したのでしょうか?
鉄平 評
「五月雨や」の使い方が効果的でないのと、中七下五の表現が月並みに感じました。作者の心情は不安なのか安心なのか、そもそも心情をうたっているのか。それを感じさせるワードが「五月雨や」では、作者の意図が伝わってきませんでした。
リラの風ときどきわたりくる離れ 十忽
2点/選者=稚女、風樹
苦楽亭 評
リラの木の極えてある庭? 離れがあって句楽部の誰の家だ。
風樹 評
ライラックの花をゆらせながら、そよそよと。きっと花の香りをのせてそよそよと。そんな風がときどき、母屋をすぎて離れにまでとどいてくる。この微妙で、さわやかで、あるかなしかの花の香りと風のそよぎを感じさせてくれます。ほのかな風の表情を通してふと、生きていることの滋味と、哀しみを思わせてくれました。素晴らしい一句です。
稚女 評
リラとはライラックともいう花のようだ。花の香りを乗せた初夏の風が、時々、離れの座敷まで、吹き込んでくるという、とても幸せな穏やかな句だ。一読市、よくわかる句で、どこにも、てらいや屈折がない、その分物足りなさをどうしても感じてしまう。時々という表現をやめて離れにいる人間の様子など表現すると想像が広がるのでは。
すみれ 評
リラ・ライラックの甘美な匂いが風に乗って気持ち良い季節。下五の「離れ」は読み取れませんでした。
与太郎 評
「ときどき」「わたりくる」が説明語なので、興がそがれました。
鉄平 評
気持ち良さそうな離れではありますが、「ときどきわたりくる」では、詩を感じませんでした。
智 評
一人でいても、優しい風は届きいて孤独感を癒してくれることを感じさせる。
雪解けて物干し竿を設置せり めんこ
地3点/選者=すみれ、苦楽亭、十忽
苦楽亭 評
そのまんまなのだが、泥具さと、おかしみがある。
風樹 評
雪が溶けて暖かい季節になったので、物干し竿を立てました。そうですか、よかったですね。変わりゆく季節を伝えたいのか。その中で、日常生活をとらえたかったのか。いずれにしても、散文ではないでしょうか。
稚女 評
雪が解けたよ、さあ、物干し台を設置しようという句意で、季語は雪解け、春の季語まず、春の季語とはいえ、作者は初夏の5月になぜ雪解けの句を出したのかという疑問を持ちました。そしてもしかしたらこの季節にこそ詠みたかった深い句なのかもしれないとなんども読み返しみましたが、暗喩されたものも読み取れずでした。
十忽 評
北国の晩夏から初夏にかけての雪解けがもたらす、生活の何気ない変化を詠んでいるのだが、洗濯物を外に干すという些細なことに秘められている喜びが伝わってくるいい句である。
すみれ 評
小林一茶の「雪とけて村一ぱいの子どもかな」を連想。埼玉に住んでいる私にとってはこの情景は想像できないが、雪国に住む人達はやっと洗濯物を外で干すことが出来る季節が来たと、喜んでいる気持ちが伝わってくる。物干し竿を設置せりの着眼点が面白い。
与太郎 評
説明だけで、感動の力点がよくわかりませんでした。
鉄平 評
北国の生活での一コマでしょうか。「設置せり」では詩を感じられませんでした。
智 評
雪国での一場面であろうか。やや説明的な印象。
ふくらはぎ満員電車を切り裂いて 与太郎
天4点/選者=智、庵々、めんこ、鉄平
苦楽亭 評
どうゆう句なのかわからない、脹脛が痛んで大声出した。
風樹 評
びっくりしました。電車を切り裂いたのでしょうか。いや、これは混み合う乗客たちの間を、ふくらはぎで切り裂くようにぬって乗り込みましたということか。そう思わせるのは「ふくらはぎ」のひとこと。でも、妙にリアリティがあります。これはあきらかに、普段満員電車で苦労している実体験を持っている方の「恨み節」に違いありません。頑張って下さいと思わず応援したくなる一句です。
稚女 評
脹脛とはスネの後ろ側にある膨らんだ筋肉のあるところ。この部分でまさか電車を切りさくなんてどうしても映像化できない。この脹脛と満員電車の関係性は? 満員電車に腹を立てた作者の心象風景なのか?
庵々 評
五体はバラバラに。近くに女性がいれば痴漢になるまいと、さらに身を縮め、足は流されまいとフンバル。満員電車の中で電車を引き裂き、その裂け目から電車を降りる。脱け出てどうする…。そういう創造を幾度となくやりました。
十忽 評
詠んでいる世界がよくわからなかった。
すみれ 評
第ニの心臓と言われるふくらはぎ。満員電車の中を進んでいる句でしょうか?「切り裂いて」は強い表現ですが、力強く進んでいる様子かな?
鉄平 評
ギュウギュウに詰め込まれた満員車両を、プロレス技の「ローリングソバット」(ふくらはぎ)でズババババンと切り裂いた! ストレス発散!キモチイ〜一句でした。
智 評
「切り裂く」という強い言葉が、満員電車での人々の辛さの中の心の冷たさを上手く描写しているように思う。
若葉雨前行く人の背に染まる みみず
天4点/選者=庵々、めんこ、与太郎、鉄平
苦楽亭 評
景の説明だな。私も濡れているはすなのに。
風樹 評
この季節、雨の中を歩く気持ちよさを感じることがあります。前を歩く人の背中にも雨がそそぎ、服が雨水に染みています。それだけのことに、俳味を感じてみましょうと。ううむ残念、何も感じられない。私は下五の「染まる」がいけないのではないかと。染まる、では、ストレートすぎるのです。ここを工夫することが句作のポイントではないでしょうか。ううむ、ううむ。
稚女 評
若葉の季節に降る雨は緑を滴らせて心に染むような趣がる。そんな若葉の季節にふる雨の中、前を歩く人の背に染まったのはなんだろう? 若葉の緑が背を染めたのなら、雨はおかしいのでは?
庵々 評
新しさは感じないが、確実な日常の中で発見する句には、ホッとする。
すみれ 評
若葉雨というと緑を想像する。前行く人も緑に染まってしまいそうな句。句意を十分、読み取れませんでした。
与太郎 評
雨が背「に」染まるというのが、おもしろかったです。
鉄平 評
「背に染まる」は表現としては月並みですが、これが誰の背なのかによって、見え方が変わりそうです。が、「前行く人の背」は妻から見た夫の背中など、個人の背中と取れますが、不特定多数の人の背中ともとれてしまうので、どうも句がぼやけてしまいます。「前行く人」をもっとハッキリと言ったほうが良いように感じました。
智 評
「雨」が「染まる」という描写はいいと思う。
山なかの竹林の雨首夏を帯ぶ 庵々
天4点/智②、十忽、みみず
苦楽亭 評
上5が甘い、それだけに惜しい。
風樹 評
山の中に、緑が目に染みる竹林があり、そこに雨が降ってきた。雨を受けてさらに目にあざやかとなる。そんな景は、夏の到来を告げているようだ、ということなのでしょう。「首夏を帯ぶ」とはまた大仰な表現ですね。こんなに微妙で鮮やかな景なのですから、そんなにたいそうなことにせず、もっとさりげなく、もっと静かに伝えることができれば、おのずと生きて伝えることとなるのではないでしょうか。
稚女 評
竹は春に葉が黄ばんで「竹の秋、紅葉状態」になり他の木々が紅葉する頃、ツヤツヤとした緑色になる。作者は首夏という季語を採用したのだから、夏の兆しを感じたのはどの部分であったのか?
十忽 評
山の竹林に降る雨に初夏の匂いを覚えたという、それだけを詠んだ句だが、その直截な表現がいい。
すみれ 評
五月雨、若葉雨もよいですが、竹林の雨も風情があります。初夏を「首夏を帯ぶ」と表現したのもよい。竹林の雨の中を歩いてみたいです。
与太郎 評
上五が説明的で不要に感じました。
鉄平 評
分かるようで分からない句。作者はどこで竹林をみているのでしょうか。竹林の雨とはどんな雨なのでしょうか。
智 評
情景がすーっと目に浮かんでくる。あれこれ考えずに心に入ってくる句だと思う。
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