第300回句会報告【兼題句/お題「あんパン」】
9月14日に行った第300回句会「兼題句」報告です。お題は「あんパン」。
- あんパンの臍に一滴お礼状 与太郎
- きかん坊ポケットのあんパンの罪と罰 風樹
- 鰯雲見惚れあんパン胸のうえ 智
- あんパンの臍は海なり秋初め 苦楽亭
- あんパンをそっと一人で食べて秋 みみず
- あんパンはつぶが好きなの秋の空 十忽
- 新涼やダージリンとあんパンと すみれ
- コスモスの嬉しそうなあんパン日和 稚女
- 濡れ縁であんパンを食う秋はじめ 庵々
- 遠泳や雲の島にて食うあんパン 鉄平
あんパンの臍に一滴お礼状 与太郎
人5点/選者=風樹、すみれ、めんこ②、鉄平
風樹 評
あんパンのヘソに入れるのは通常ゴマか塩漬けのさくらか、いずれにしてもワンポイントの塩味が甘さを引き立てている。この句はヘソにお礼状が一滴そそがれているという。作った側あるいは贈る側から受け取る側へのメッセージが添えられるのですか。さぞ美味で甘いあんパンでしょうね。背後になにやら楽しい物語が繰り広げられているようで、あんパンの味も、きっと新しい味わいが込められているような気がします。もしかしたら猛烈に辛い調味料だったかもしれないという、わずかな悪意も秘められているようで…。
十忽 評
臍と、一滴お礼状の関係に、わたしの想像力が追いつけません。④の臍とこの臍では、どうやらつくりが異なるようだ。
すみれ 評
4月4日は「あんパンの日」。明治天皇に献上する為、パンの木村屋が奈良の吉野山から取り寄せた八重桜の花びらの塩漬けが埋め込まれて、季節感を出したのが桜あんパンの始まり。「臍に一滴お礼状」と言う表現が良いと思う。一滴とは何をお礼状にしたのだろうと想像させてくれた句。
鉄平 評
「男はつらいよ」で、いつもは無茶苦茶な寅さんが急に素直になり、おじちゃんやさくらに日頃の礼をいう。たまにあるこんなシーンをなぜだか思い出しました。まあ寅屋の場合だと、団子に一滴ですけどね。ただもう少し推敲の余地があるかなと思いました。
智 評
一滴とは美味しそうなあんパンに垂れてしまった涎のことであろうか? その涎が、あんパンの美味しさに期待してのお礼状、という比喩であろうか。情景がうまく掴めなかった。
きかん坊ポケットのあんパンの罪と罰 風樹
地6点/選者=智、苦楽亭、みみず、庵々、与太郎、めんこ
庵々 評
あんパンの罪とは、あんパンを盗んだことであり、罪はポケットの中でぐちゃぐちゃとなり、食べられなくなってしまった。こんな経験は男の子なら似たことはあるのでは…。
十忽 評
あんパンに罪と罰があるという発想には無理がある。
すみれ 評
ポケットの中に入れているあんパンはおやつだろうか?「罪と罰」の意味が十分理解出来なかったが、兄弟で取り合う喧嘩を想像。下五の「罪と罰」が良いと思う。
与太郎 評
無頼派は、誰に教えられるわけでもなく無頼派となる。産まれたときからきかん坊。ナチュラルボーンきかん坊。彼はいつもポケットにあんパンを忍ばせる。母親やに先生に何を言われようと、食料の確保は怠らない。何が起こるかわからない世の中。頼れるものは自分だけ。それはいつか正義の人となり、困っている人を救うための準備なのだ。そして今日も潰れた餡で汚れたポケットを、母親にしかられる。でも決して、彼の崇高な志は汚されることはないだろう。
鉄平 評
「罪と罰」という物々しさから、最初は成人間近の少年Aの悲哀を詠んだ句かとも想像しましたが、「きかん坊」ではさすがに無理がありました。これは3〜8歳ぐらいのきかん坊でしょう。きかん坊のいたずらに「罪と罰」という表現はそのまんまですし、大げさに感じました。
智 評
罪と罰、というところを考えると、盗んだあんパンだろうか。ポケットのあんパンの重さはどれだけあるだろうか。「きかん坊」という無垢な感じと、罪深さとのギャップを感じた。
鰯雲見惚れあんパン胸のうえ 智
人5点/選者=稚女③、鉄平②
風樹 評
丘の斜面に広がる草原に寝そべって空の雲を見ています。おやつのあんパンはテーブル代わりの胸の上。なぜかアニメーションで描かれた画面を見ているようで、どこかリアリティを感じられず、あんパンの味も伝わってこないのはなぜでしょうか。作者はどのようなリアリティを込めたのでしょうか。
十忽 評
あんパンを食べるために仰向けになる状況設定が不自然。
すみれ 評
原っぱに寝転んで青空に浮かぶ「鰯雲」を見つめている。あんパンを食べるのも忘れて、胸の上に置いたまま…
与太郎 評
見上げれば鰯雲、である。それはもう見惚れるほどの鰯雲である。空腹に耐えかねて鞄の底から取り出した秘蔵のあんパンを、ひとまず胸のうえに置いて、食べるのを忘れるほどの、鰯雲である。あんパン越しに見る鰯雲。「見惚れ」などと言わぬが花ではないだろうか。
鉄平 評
土手で寝転びながら、鰯雲を見上げている少女は上の空です。あの子のことを想うたびに、小さな胸の上に乗っけていたあんパンがゆっくりと大きく上下する。思春期の恋が上手に描かれた一句でした。
あんパンの臍は海なり秋初め 苦楽亭
1点/選者=十忽
風樹 評
こちらのあんパンのヘソの中は、海だといいます。ヘソの中が海だなんて、そんな乱暴なイメージをもってこられても、読者はただあっけにとられます。受け入れる心の準備はまったくありませんし、とまどうばかり。作者はそこを狙ったのでしょうか、さぁ、秋が始まりますよ、と言われても景がいつこうに浮かびません。困ったなぁ。
十忽 評
あんパンの臍には、塩漬けの桜の花が鎮座しているとばかり思っていましたが、まさか海とは露ほどにも思いませんでした。発想が素敵です。
すみれ 評
臍のあるあんパンは木村屋のパン。「臍は海なり」と表現したところがユニークな句。海は「湖」と解釈した。
与太郎 評
あんパンの臍をのぞき込むと、そこには無限の深さがある。喩えるなら海だ。人が去り、海月が浮き始めた、淋しげな海。見上げれば秋の空。でもそこに深さや無限性はない。あんパンの海が、最後に残念なことになってしまいました。
鉄平 評
あんパンの臍に海を見た作者。秋初めとあるので、夏の終わりを惜しんでいるのでしょうか。「海なり」と言い切るよりも、「あんパンの臍に海あり」ぐらいが叙情的かなと思いました。
智 評
小さなあんパンの臍に、大きな海を感じたのはなぜだろう。そこがうまく捉えられなかった。
あんパンをそっと一人で食べて秋 みみず
無点
風樹 評
どうぞ、そっと一人で食べてください。秋なのですから。作者は何を表したかったのか、読者に何を伝えようとしているのか。いまひとつ、伝わってきません。そっと一人で食べるあんパンが、どんな味だったのか、そこのところが知りたかった。そこのところは察してよと、思わせぶりの一句と思わざるを得ません。
十忽 評
あんパンを食べて秋を感じる点は同感ですが、そっと一人で食べなくてもいいのになあと思ってしまいます。
すみれ 評
誰にもあげず一人で食べているあんパン、美味しいのかな? 部屋の隅で誰にも取られず、見られないようあんパンを食べる子どもの姿が見えてくる。
与太郎 評
あんパンを食べている人がいる。誰にも見られていないと思っているらしい。いや、見られることを意識しているか。縁側は開け放たれ、生け垣越しに見える位置で食べている。わざと見せびらかしているのだ。一人でそっと食べている、ということを。そして秋を感じている、と言うことを。かの人のTシャツには黒々と「秋」と書かれている。
鉄平 評
「そっと秋」はとても良いのですが、「一人で」と言ってしまうと、単に隠れてつまみ食いしているイメージが強く、あまり面白くありませんでした。「あんパンをそっと食べて秋」のほうが、読者はいろいろな「そっと」を想像できるのではないでしょうか。
智 評
一人で食べるあんパンと、秋という季節の間に、寂しさ、孤独感、寂寥感を感じさせられた。
あんパンはつぶが好きなの秋の空 十忽
無点
風樹 評
つぶあんにこだわりがあるようです。なぜつぶあんなんですか。こしあんではいけませんか。なぜ秋の空なのでしょうか。食欲の秋ということでしょうか。深く考えて軽く表現する、なんていう高級技術を使ったのでしょうか。疑問ばかりで、どうもすみません。三平師匠はだれでもすぐ分かるような自己表現に徹して、それに苦労してぎりぎりの線に至ったから、笑いがうまれたのです。以来、あの境地に至った他の落語家もエンターティナーも私は知りません。
すみれ 評
あんはこしあん、つぶあん、あなたはどちらかが好きなの?と、聞かれたら答えます。作者はつぶあん派ですね。ちなみに、私はこしあん派です。
与太郎 評
縁側の向こうで、あんパンを食べている人がいる。「あんパンの餡は粒がいいわよね」と独り言を言っている。聞こえよがしに。きっと聞かれていることを意識しているに違いない。着ているTシャツには「秋の空」と書かれている。
鉄平 評
上中と下の句が共鳴し合っておらず、「秋の空」は取って付けた感じでした。「好きなの」と言った人物像の想像をもっと楽しみたかったです。ちなみに僕はつぶあん派です。
智 評
「好き」という自己の想いが全面に出てしまい、そこからの広がりが感じられなかった。
新涼やダージリンとあんパンと すみれ
2点/選者=智、庵々
風樹 評
あんパンというパンは、いうまでもありませんが、小豆をつぶして各種の甘味料を加えた日本古来のスイーツを、西洋から来たパンと合体した、日本の発明品。安くて甘くて手軽な食べ物ですから、決して上品でも豪華でも高級でもない食べ物ですよね、本来は。それと西洋から伝わった紅茶で、しかもその種類まで限定してこだわったお茶と一緒にいただきましょうという提案です。涼しくなってきたから、熱い紅茶が美味しいのでしょう。NHKテレビの古い料理番組を見ているようです。番組のテーマミュージックが聞こえてくるようです。
庵々 評
紅茶とあんパンを置いただけで朝、もしくは三時の茶話の新涼を感じさせた。紅茶とあんパンは動かないだろうか。
十忽 評
「あんパンには牛乳」派ですので、ピンときませんでした。
与太郎 評
ふと感じる涼しさが、これまでと少し違っていることに気がつく。熱いダージリンティとあんパンと並べる。ほんのり苦みを想起させるダージリンの香りと、甘さばょっぱい餡ぱんの味が口中に広がる。と、突然真っ黒な幕のようなものが降ろされる。ブラックアウト。何も見えない。あそこは、こじゃれたパン屋さんのカフェスペースだっただろうか。それともどこかの台所? 並べたひとどんな人だろう。食べる人は? そもそもどんなあんパンだったっけ? ……何も思い出せない。何も浮かんでこない。僕の記憶力と想像力は、限界を迎えた。
鉄平 評
つき過ぎと言えばつき過ぎですし、「〜と」の連続はあざとさを感じます。そう感じる要因は「新涼」でしょう。この句は本当に「新涼や」がベストだったのでしょうか。ちなみに新涼の時季でしたら僕は牛乳か麦茶です。
智 評
爽やかな新緑の中で、ダージリンとあんパンとを食べれたら幸せな気分になれるな、と想像させてくれた。
コスモスの嬉しそうなあんパン日和 稚女
人5点/選者=苦楽亭、みみず、庵々、風樹、与太郎
風樹 評
コスモス畑に案内されました。コスモスが風に揺れて嬉しそうにほほえんでいるのです。いやー、なんだかこちらも嬉しくなってきます。こんな気持ちのよい笑顔にさせてくれる一句。まさにあんパン日和。この日和という一言が、俳句に昇華させているのです。これ以上、何が必要ですか。
庵々 評
あんパン日和とは何だという発想がいいと思う(自分には出来ない芸当です)。コスモスが嬉しそうという擬人化というか、一句の擬人化が面白い。あんパン日和とは、薄く太陽が出ている日なのか…悶々。
十忽 評
中七の擬人化が気になります。コスモスやと上五を切れ字にすればどうでしょうか。嬉しそうな雰囲気の主は爺さんか子供と、イメージが広がると思うのですが。
すみれ 評
風に揺れて咲くコスモス。作者は揺れるコスモスが嬉しそうに見えたのでしょう。コスモス畑で食べるあんパンは美味しく、穏やかな秋の一日。「あんパン日和」は初めて知りました。昭和記念公園を思い出す。
与太郎 評
コスモスの花が咲いている。コスモスは笑顔が素敵な花だ。一年のうちでそう長いあいだでもないけれど、良い季節にはこちらが嬉しくなるぐらいニコニコしている。そんなときは、あんパンだ。コスモスに笑いかけながら食べるあんパンは、心の底からおいしいといえる。これで一年生きていける、とまでは言わないが、今週いっぱい頑張れるぐらいのエネルギーは、補給できるのだ。
鉄平 評
なぜコスモスが嬉しそうと感じたのか、なぜあんパン日和と感じたのか、気持ちいい、気持ちいいだけでは、気持ち良さは伝わってきませんでした。
智 評
あんパン日和、という言葉がほのぼのした印象。コスモスが嬉しそう、というのは擬人化しすぎた感じもした。
濡れ縁であんパンを食う秋はじめ 庵々
2点/選者=すみれ、十忽
風樹 評
こちらは場所を限定した一句。どこで食べたっていいわけでしょうが、秋のはじめは、やはり濡れ縁でなくては。古典的な感覚に彩られた、まさに固定観念というのでしょうか。ここで食べるあんパンの味は、もう食べなくてもわかっていますよ。
十忽 評
濡れ縁で、秋のひんやりとした空気を感じながら食べるあんパン。素直でいい句だと思います。パンの匂いはもちろん、餡子がつぶなのかこしあんなのか、動物それさえも気になるおいしそうな句でした。
すみれ 評
秋の初め。暑さは残っているが、いつとなく涼しくなり秋を感じる。濡れ縁であんパンを食べる親子。小さい子どもが足をブラブラさせながら食べている。暑さからやっと解放されてホッとする秋の一場面。
与太郎 評
縁側であんパンを食べている人がいる。これ見よがしに。Tシャツには「秋はじめました」と書かれている。
鉄平 評
涼しげであんパンもおいしそうではありますが、作者がなにに感動したのか伝わってきませんでした。
智 評
濡れ縁であんパンを食べるのは誰だろう、何を考えて食べるのだろう。日常の一場面から、様々なことを想像させられた。
遠泳や雲の島にて食うあんパン 鉄平
天7点/選者=智、苦楽亭、みみず、風樹、すみれ、十忽、与太郎
風樹 評
猛暑が続いた今年の夏を、辛い思いで過ごしてきた身に、この一句との出会いは、救われた思いでした。最近まで夏は嫌いではありませんでした。なにもかもあきらめて、ひたすら本がよく読めるので、積んで置いた本を消化する季節だったので。ところが、今年はだめでした。肉体的に弱りました。これが老いということなのかと、思い知らされました。しかしこの一句。夏もいいものだという思いを新たにしました。ありがとうございました。
十忽 評
海と空、そして息継ぎでたまさか見えた白い雲。その雲の島であんパンを食べているのを想像しながら泳いでいるのだろう。遠泳とあんパンの取り合わせをどの時点で思いついたのか、その着想を一句に仕上げた熱意を買いました。
すみれ 評
遠泳は夏の季語。集団で泳ぐ遠泳を空にぽっかり浮かぶ雲に乗って、あんパンを食べながら応援している句。気持ちいいだろう…ね。海と空のスケールが大きく、アニメの世界を思い浮かべた。
与太郎 評
遠泳をした。それは子供の頃だったか。もう大人になっていたか。記憶は幾ばくか、曖昧だ。私が泳いでいたのは、おそらく海ではなかった。きっと空だったのだと思う。なぜなら、たどり着いた先は、雲の島だったからだ。雲の島はとても良いところだった。ふわふわとして、温かくて、いつでも私を優しく迎え入れてくれた。何より、そこでいただいたあんパンの味は、今でも口中によみがえる。雲の島に似つかわしい柔らかいパン、優しく漂うバターの香りと、混じり合う餡の甘さ。からだの外と中から、温かく優しく包まれて漂い続ける、永遠の楽園だったのだ。
智 評
遠泳後の疲れた身体に、あんパンの甘さが染み入っている情景が感じられた。