第295回句会報告【自由句】
4月20日に行った第295回句会「自由句」報告です。
- 推定無罪庭のすみれの砂糖漬け 風樹
- モノクロの桜今また咲く小窓 みみず
- 夜桜や気配濃くなる月明かり 苦楽亭
- 顎(おとがい)のするりとのびし夕櫻 稚女
- 花冷えの公園に響くもういいかい めんこ
- 虐待を今日も見かけて新元号 鉄平
- 宿探しもう三度目のおぼろ川 与太郎
- 春眠やスワンレイクはフィナーレに 智
- 転んでも起きて駆け出し春たける 庵々
- サイフォンのコーヒー沸き立つ花の冷 すみれ
- 花散るを挨拶代わりにすれ違ひ 十忽
推定無罪庭のすみれの砂糖漬け 風樹
地5点/選者=稚女、めんこ、すみれ、十忽、鉄平
苦楽亭 評
どうよめばいいのかわからない、こうゆう句わからなくなった。なぜ、推定有罪じゃいけないの。
稚女 評
推定無罪なる硬い表現を使って、すみれのような可憐な耳にも優しい花を砂糖漬けにしたという、そしてその行為は決して罪に値しないことだろう……という句意と判断しました。上五と中七のアンバランスな表現がおもしろく感じて選びました。
すみれ 評
上七の「推定無罪」と「すみれの砂糖漬け」との関係が十分理解出来ないが、皇妃エリザベートの愛したという「すみれの砂糖漬け」を彼女は紅茶に入れて楽しんだのだろう。すみれの甘い香りが春を感じさせてくれる。又、すみれから出る(お湯に漬けた時に出る)ミントブルーの色も「爽やかさ」を感じる。「庭のすみれ」の表現が好きです。
十忽 評
何が無罪なのかはっきりしないのだが、事件は起きていたのだろう。庭のすみれを砂糖漬けにするという行為そのものが罪に値するとすれば、まさにそれこそが事件となる。まあ、平和な句という印象に好感を持ちました。春ですね。
与太郎 評
上五と以下の衝突がよくわかりませんでした。
鉄平 評
以前誰かから聞いた話で、すみれといえば昔は便所の裏側に生えている、見向きもされない花だったそうな。その話しを聞いて以来、すみれ=便所の匂いがイメージとしてついてしまい、「すみれの砂糖漬け」という甘く爽やかな香りの中に、アンモニアの匂いが微かに匂った。するとなぜだか「推定無罪」というワードがはまってしまったのである。不思議な感覚だ。
智 評
取り合わせの必然性がどこにあるのかなかなか理解ができなかった。
取り合わせに必然性はいらないのかもしれないが。
モノクロの桜今また咲く小窓 みみず
2点/選者=苦楽亭、めんこ
苦楽亭 評
今までモノクロだった桜が、ピンク色に咲き始めた。何とも不思議な世界、わざわざまた咲くと言ってるのだからモノクロではないだろう、摩訶不思議な世界
風樹 評
さまざまな場所・角度・天気・状態----から観る桜。桜の美しさの多様性を感じさせる一句。あえてモノクロにしたのは見る人の心理状態の反映か、小窓のガラスの状況か。見方の新しい発見を探って出来た句であるが、もうひとつ桜の美しさそのものの新しい発見には至っていないのではないでしょうか。そのため、桜そのものは相変わらずの一般的な美しさにとどまっているのが残念です。
稚女 評
モノクロの桜とは遠い昔の思い出の中の桜なのか、あるいは心のわだかまりからどうしてもそこに色彩を感じることができないのか。そして中七はそんな桜が今また咲いたという、しかも小窓から見えるところに。句意を推し量るのに何かが不足しているようにも思える。判然とせずいただけませんでした。
すみれ 評
昔撮った桜の白黒写真、今年もまた、小窓からみえる桜が咲いた。時の流れを感じる句。
十忽 評
句またがりの句だが、意味の切れどころがなんとなくすっきりしていないように思う。「今また」がそう感じさせているのかも。
与太郎 評
「今」「また」が不要だと感じました。
鉄平 評
桜を自分に重ねて、年老いた自分だけど、自分はまだまだ若い、もうひと花咲かそうではないかという願望の句でしょうか。「モノクロの桜」「今また」「咲く小窓」と、表現が散文的で類型的、かつ独善的でいただけませんでした。
智 評
「桜」と「咲く」がやや付き過ぎな印象を受けた。モノクロの桜という表現は面白いと思う。
夜桜や気配濃くなる月明かり 苦楽亭
1点/選者=みみず
風樹 評
夜桜・気配・月明かりと、実に古典的な〝花鳥風月〟を遠慮無く詠んだ一句。花鳥風月の諷詠は本来は和歌の美意識の伝統であり、それを伝統俳句などとして「ホトトギス」派が出現しました。せいぜい大正時代くらいのこと。なにが伝統でしょうか。伝統とはその時の先端の気風を身を切って創造した作品群のことであり、つねに新たな世界を創造するのが本来の伝統であるべきでしょう。そしてその歴史の先に今があるべきではないでしょうか。昔の和歌の美意識をそのまま現代に現すのは伝統とは言えません。
稚女 評
気配とはなんなのか、それが月明かりによって濃くなるということだが、確かに月の光が強ければ、月下の桜に魔性を感じることもあるけれど、月明かりなる穏やかな月では気配の濃さを感じられないように思う。
すみれ 評
月明かりの下で見る夜桜。ライトアップされた桜とは違い、白っぽく見えているのだろう。絵画の世界のようで、月と桜のコントラストがステキ。
十忽 評
桜と月のどちらが主体なのかはっきりしない。気配の在り様が曖昧に感じました。
与太郎 評
新たな発見がありませんでした。「夜桜」か「月明かり」か、集中できませんでした。
鉄平 評
夜桜に月明かりが差し込み「気配が濃くなった」は分かるのですが、それを「気配濃くなる」と表現するのは、そのまんまで詩として弱く感じました。
智 評
夜桜と月明かりだと付き過ぎの感じがした。
顎(おとがい)のするりとのびし夕櫻 稚女
地5点/選者=苦楽亭、すみれ、十忽、風樹、鉄平
苦楽亭 評
あごと言わず、おとがいと詠んだ。もののけの世界。あごが、するすると伸び始める 夕桜の時刻がいい
風樹 評
夕桜を見上げた和服の美女のあごがするりとのびたところをスケッチした一句。風景がよく見えます。あごからのどへ、白い肌の美しさは夕桜の美しさに匹敵するほどだと。たしかに桜にはそのような美しさに似た色気さえ感じるのでしょう。この美意識、決して新しい発見とはいえないでしょう。相変わらずの引き出しから出てきたような気がします。僕自身は個人的にはこの美意識は好きではありません。桜自身もいやな感じです。
すみれ 評
桜の枝を眺めている時に気づいた、ユーモアの句。ユニークな枝ぶりを表現している。「頤」の言葉がいいね。
十忽 評
土手の桜は、根元に一番近い枝が水面に向かって長く延びている。その枝を頤と見立てて詠んだ句だが、桜の木そのものを人の顔と見たわけではなく、あくまでも桜の木のアゴと見ているように思う。擬人化と解釈しないところでこの句を選びました。ありきたりな風景ですが、景色が良く見えます。
与太郎 評
意図していないかもしれませんが、「口をあんぐりと開ける」という比喩しか浮かびませんでした。
鉄平 評
この夕櫻はしだれ桜でしょうね。桜を見上げる男がひとり。その男のアゴの形がなんと立派なことよ。しだれ桜の枝と男の顎の取り合わせが落語のような面白さがあっていただきました。
智 評
どういう情景を表しているのかがうまくつかめなかった。
花冷えの公園に響くもういいかい めんこ
1点/選者=智
苦楽亭 評
花冷えの公園、もういいかいは想像できる、甘い。
風樹 評
公園に子供たちの遊ぶ声が響くのは自然のことで、ことさら花冷えの時にかぎるものではないでしょう。あえて花冷えの時に聞こえた声はどんな響きがしたのか、そこがこの句の最大のポイントだと思います子。もういいかいという付きすぎの言葉で済ませることではないのではありませんか。ここに思い切り感覚を研ぎ澄ませ、深めていくことこそ「詩」となる最大の条件であると思うのですが。
稚女 評
下五は会話であるならば、カッコで括った方がいいと思う。どうしてもこの句を明るい公園内の子供達のかくれんぼの情景と思えないのは花冷えなる季語のゆえでもしかしたら、この下五は違う「もういいかい」なのかもしれない。この句からはどちらとも判断することができず残念ながらいただけませんでした。
すみれ 評
寒さ知らずの子どもたち……公園で遊ぶ姿も見られなくなってきたが、元気な「もういいかい」か響いている様子を想像した。明るい躍動感のある季語がほしいかな。
十忽 評
句またがりでもなさそうだし、とすれば中七と下五の二カ所の字余りが散文めいて、重く感じられる。
与太郎 評
どこかで聞いたことのある情景に感じてしまいました。オンリーノスタルジー。
鉄平 評
景ははっきりと見えるのですが、心に引っかかるものがありませんでした。「もういいかい」を武器に読者の心を動かすには、「花冷え」「公園」は上辺に過ぎないので、作者だけが感じた「もういいかい」を聞かせてほしいです。
智 評
かくれんぼの楽しさの中には、一人残された寂しさが潜んでいるということが感じられた。
虐待を今日も見かけて新元号 鉄平
無点
苦楽亭 評
この句もわからない、上5と中7 下5との関連が読み取れない。
風樹 評
〝今日も〟とあるから、作者は虐待の現場をよく見かけているのでしょう。または、それに関係する職業の人なのでしょうか。普通は虐待の現場など、そう何度も出遭うことはないでしょう。問題は、現場を今日も見かけて、ただ何もせず何もできず、新元号「令和」を思っていることです。作者にとって、目の前の虐待は、単に時代の流れの一コマでしかないのでしょうか。それを俳句に詠むことの句意は何なのでしょうか。少なくともこの句から怒りも、悲しみも、驚きも、伝わってきません。
稚女 評
この虐待は現在新聞等で報道されている親が幼児を傷つけたり、殺してしまったりする事件の事なのか、今日も見かけてという表記はマスメディアでのことか自分の目で見たということなのか不明、そしてそれが新元号とどのように繋がるのか解釈できずいただけませんでした。
すみれ 評
悲惨な事件が報告される今日、なくなることを祈る。下五の「新元号」には、なくなることを願う作者の気持ちが含まれているのか?
十忽 評
新元号を祝う句にしてはないようが昏いようにえもうのだが……。
与太郎 評
繋がりがよくわかりませんでした。それはそれで今っぽいのかもしれませんが。
智 評
いつの時代になっても、人間の業は変わらないという無常観を表していると受け止めた。「虐待」の言葉はやや強すぎる感じがした。
宿探しもう三度目のおぼろ川 与太郎
2点/選者=智、みみず
苦楽亭 評
理解できそうで、わからない句、作者に聞いてみないともう3度目は今日の話、昨日、1昨日からの話
風樹 評
作者は宿を探し回って、もう三度も川を渡ったといいます。状況が分からないので、どう感じとればいいのか戸惑ってしまいます。なかなか宿が見つからないのはどんな訳があるのか、なぜそんなに宿を見つけなければならないのか。全体が何か比喩となっているならば、〝宿探し〟のキーワードが重要なことでしょう。しかしどうも読者はおいてけぼりになったようで、いまひとつ作者の焦燥感がリアルに伝わらないのです。
稚女 評
この宿とは自分の身の置き場所という意味だろうか?すでに二回も身を置く場所が変わって三度目もここにしっかり定住できるのかおぼろな心を抱きながら川の流れを眺めている。全体に暗い、マイナーな句である。マイナーな心の揺れを詠む際に『もう』なる表現をしないほうが辛い状況を表せるのではないかと思います。
すみれ 評
川がおぼろに霞んでいる様子を表現したいのか?宿探しを表現したいのか?「三度目のおぼろ川」の意味が十分理解出来なかった。
十忽 評
中七の「もう」と「三度目」がくどいように思います。
鉄平 評
説明が多いと思いました。上五中七を言わずに「おぼろ川」だけを表現できたら良い気がします。
智 評
あちこちふらふらとさまよっている感じが、「おぼろ」という言葉にうまく表されていると感じた。
春眠やスワンレイクはフィナーレに 智
人3点/選者=すみれ、みみず、稚女
風樹 評
チャイコフスキーの「白鳥の湖」を聴いていて眠くなったのか、バレェを見ていて春眠をおぼえたのか、フィナーレになってほっとしているのか。いずれにしても「白鳥の湖」という芸術作品と対面して詠まれた句(詩)にしてはちょっと緊張感もなく淡すぎませんか。この句に、音楽への感動も敬意も、悦びも悲しみも、苦しみも感じられません。無関心であるならばその心境を掘り下げてみるべきではないでしょうか。もしそこに詩があるならば。
稚女 評
スワンレイクを白鳥の湖と解釈しました。となれば作者はバレー白鳥の湖を鑑賞しているところ、そしてそれがいよいよ終幕に近くなってきたというところ、あ~あ、どうしてこうも眠いのだろうか?決して春だからではないだろうな。という句意と解釈しました。まあ、よくあることで意外性はないけれど、中七、下五の表現の面白さでいただきました。
すみれ 評
バレエ 白鳥の湖。春眠とは言え、目が覚めた時にはフィナーレとは残念な句。眠ってしまう気持ちは理解出来る。自分の経験から・・・。
十忽 評
上五の切れ字が死んでます。あと、カタカナが多すぎるのが気になりました。
与太郎 評
カタカナがかっこよかった時代の、自己陶酔に感じました。
鉄平 評
いびきをかきながら安らかな寝顔の作者。それとは裏腹に、夢のなかではプリマドンナとなり、名演技を披露しているのでしょう。その温度差は面白かったのですが、フィナーレと大雑把にまとめてしまったのが残念でした。ここは作者独自の発見が欲しかったです。
転んでも起きて駆け出し春たける 庵々
天7点/選者=稚女、苦楽亭、与太郎②、めんこ、十忽、風樹
苦楽亭 評
なんてことない句だが、春の気分がよく出ている。本当になんてことない句、でもなぜかホッとさせてくれる。
風樹 評
まだよちよち歩きの幼児の笑い声が聞こえてきて、読者を無条件にわくわくさせてくれました。まるで私もいっしょに転んで、起きて、駆け出しながら幸せな心になりました。それがどうでしょう。「春たける」ですか。なぁーんだ。「春ですねー」なんて言ってほしくない。そんな下五なら、ない方がずっと幸せです。もう、単に季語で結べばいいかなんて思わないで、そこをうんと苦しんでください。
稚女 評
前向きでいいですね。そう、こうでなければ春は出発の季節なのだから。様々なことが想像できます、歩き始めたミイちゃんの様子だったり、新入社員の必死に仕事をしている姿だったり、仔馬の様子だったり、元気にしてくれたので一点。
すみれ 評
春に新しく芽生えた青草を踏みながら駆け回る子ども達。下五の「春たける」が「踏青」でないところが良い。
十忽 評
遊びに夢中になっている子供が転んだ。でも泣かないですぐさま起き上がって、はしゃぎながら遊びの続きに没頭していく様子がよく見える。その熱気が春をどんどん追い上げていくという捉え方がいい。スピード感がある句です。
与太郎 評
脳天気な前向きさが下五に合っている気がします。
鉄平 評
3〜4歳ぐらいの小さな子供でしょうか。これぐらいの子はまだ身体の安定感がないのですぐに転びます。転んで泣き出す子がいれば、何事もなかったようにすっくと立ち上がり駆け出す子もいます。下五の春たけると合わせ、未来を感じられる一句となっています。しかし、全体的に言葉がつき過ぎで、詩よりは人生訓の印象でしたので、いただきませんでした。
智 評
若者の躍動感を表しているのだろうか。やや説明的な感じを受けた。
サイフォンのコーヒー沸き立つ花の冷 すみれ
1点/選者=みみず
苦楽亭 評
サイホンのコーヒーを詠むと どうして沸き立つと詠むんだろう。一つの景ではあるが、表現としては甘い。
風樹 評
残念。この句も9と同じ、蛇足の下五でした。私などは普段インスタントコーヒーにたっぷり甘味を入れた熱いコーヒーがことのほか大好きで楽しみにしている生活ですが、サイフォンで入れたコーヒーがどれほど美味しいのか伝わってきません。春なのに気温が下がってきた時の熱いコーヒーなんて喩えはインスタントコーヒーだって同じですよ。作者はきっとサイフォンで入れるこだわりがあるのでしょう。それならばその味わいをしっかりと追求して言葉に表現してほしかったです。
稚女 評
コーヒー好きの私、当初、コーヒーの香りまで感じましたが上五、中七は当たり前のことであることに気がつきました。句材としてはいいのですが、沸き立たせただけではない表現が欲しいという結論でいただきませんでした。
十忽 評
中七の沸き立つと下五の冷えの対比をねらったのでしょうか。取り合せがあまり成功していないようです。
鉄平 評
サイフォンにコーヒーが沸き立つのは当たり前の事です。コーヒーはどんな匂いがしたか、どんな沸き立ち方だったのか、どんな色でどんな音がしたのかなど、そこに作者独自の視点が入ることにより、詩として成立するのではないでしょうか。
智 評
よくある日常の一場面で、ややありふれているような印象を受けた。
花散るを挨拶代わりにすれ違ひ 十忽
人4点/選者=智、与太郎、風樹、鉄平
苦楽亭 評
日常の景をそのまま句で読んだ、平凡で幸せな句。
風樹 評
通りすがりの挨拶は、何気なく、さしさわりなく、淡く、薄い方がよい。まして桜の花の散る頃ならば、淡い花の色のごとくがよい。名前も、住まいも、もちろん人となりも知ず、聞かず、そのまますれ違って過ぎればよい。そんな日常の何気ないひとこまを、さりげなく切り取って一句とした。後期高齢者のおいぼれにはほんのりと、ちょうどいい案配で肩の力が抜ける。ただ、下五の「すれ違ひ」という旧仮名遣いが気になる。とても気になる。作者の気取りばかり感じてしまう。
稚女 評
作者はどうして、花開くではなく「散る」方に焦点を合わせたのだろうか?「散ってしまいますね』よりも『咲き始めましたね』の方が春の挨拶にふさわしいのではないかしら。そして下五の『擦れ違ひ」も寂しい。挨拶を交わした人の服装や表情、年配などでもう少し臨場感が出せるように思います。
すみれ 評
挨拶には天気や気候、季節の移り変わりの言葉が多い。桜の花散る並木道を花を惜しみながらすれ違う人、挨拶は「花散る」。「花散るを挨拶代わりに」の表現 が良い。
与太郎 評
違「ひ」が「ひ」である必然性がわかりません。また上五の「散る」、中七の「代わり」、下五の「違ひ」などのくりかえしがしつこく、あまりうまい句だとは思いません。がしかし、「代わりに」がとても気になります。「すれ違い」ですから、おそらくあまり親しい仲の二人ではないのでしょう。その二人が「挨拶」をすることになった理由はなんでしょうか? そしてさらにそれを回避し、「花散る」を「代わり」にしたのはなぜか。気になります。
鉄平 評
顔見知り同士が桜が散る木の下を、ちょっと目を合わすだけですれ違う光景が見えました。その様子を「挨拶代わり」と発見したのは素晴らしいですね。ただ下五の「すれ違い」が余計な説明になっていると思いました。上五中七で充分伝わると思いました。
智 評
花散るというととかく別れだけを考えるが、「挨拶」としたことでまた出会えるというほっとした印象を受けた。