俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第298回句会報告【兼題句/お題「朝」】

7月20日に行った第297回句会「兼題句」報告です。お題は「朝」。「朝食」「南北朝」などは禁止。あくまでも「朝」を詠うこと。

ライブ終わり布団蹴って夏の朝 奈津

2点/選者=庵々、めんこ

苦楽亭 評
上5と中7がどうつながるんだろう、色っぽい句なのかな。

風樹 評
「ライブ」というのは、何かコンサートか、ミュージック・ショーか、落語会か、判然としませんが、そういった舞台のこととして読ませていただきました。せっかく静かな夜なのに、作者はいたってやかましい夢を見ています。ショーが終わってちょうど夢から覚醒して、勢いよく布団を蹴って飛び起きました。或る夏の朝のことでした。ずいぶん騒々しい朝だったようですね。こんな朝を迎えた日の一日は、きっと疲れ切って集中力もなく、うわの空の一日だったのではないでしょうか。何だか散文的なイメージを浮かべてしまいました。

稚女 評
このライブが何なのか不明ながら、ごく普通の解釈なら生演奏のこと。夢の中で踊っていたのだろうか?それなら布団蹴ってライブ終わりになるのでは…ということで映像が確認できませんでした。

十忽 評
状況がよくわからない。

すみれ 評
ライブから夜遅く帰宅して疲れた朝、眠いが気合いを入れて起床。「布団蹴って」に気合いを感じる。ライブの感動を残したまま、まだ、眠っていたかったのでしょうか。

与太郎
時間の流れがよくわかりませんでした。

鉄平 評
ライブは早朝に行われたのでしょうか。それとも何かの比喩でしょうか(「虫の音」「ラジオ体操」など)。「布団蹴って」も作者がどういう心境なのか分からず、何回も読み直しましたがイメージが固まりませんでした。

智 評
布団を蹴り呼ばすほど、ライブが盛り上がったのだろうか。ライブの激しさと、夏の朝の静けさの対比が感じられた。

 

紫陽花の最終章や青白い朝 苦楽亭

2点/選者=奈津、智

風樹 評
紫陽花の芽吹きから開花、そして枯れるまでの時間の流れを一曲の交響楽、あるいは一篇のドラマととらえ、いよいよ最終章になって、紫陽花は青く変化していった----。今朝、まさに青白い朝。というわけです。紫陽花によせる作者の気持ちはきっと花鳥風月の美に限りない愛情を抱いているのでしょう。その切なる気持ちが何故か伝わってこないのです。「最終章」とのたとえが少々イージーだったのかも知れません。花は美しいという悪しき常識。文学に携わるならば、今一歩深く考えて見るべきではないでしょうか。

稚女 評
雨の中で七変化の美しさを見せてくれていた紫陽花もそろそろ盛りが過ぎ、梅雨が明け始める頃には命の終わりを感じさせるような生気のない状態になる。愛らしい形とパステルカラーで梅雨の間の私たちを楽しませてくれた。まだ、梅雨明けにならない今日の空の下に青白い朝が来た。よくわかる句ではあるけれど7音使っての下五が的確な表現と思えない。

十忽 評
紫陽花の咲き終わりを詠んでいるのはわかる。だが、青白いが朝にも掛かっていて興が湧かなかった。

すみれ 評
雨不足の為、綺麗な色の花ではなかったが、今年の花は終わり。「最終章」から、色褪せた紫陽花の寂しさを感じる。晴れの朝でなく、梅雨空の朝を「青白い朝」と表現したのだろう。

与太郎
下五の座りの悪さが気持ち悪く感じました。こういう句は気持ちよく感じたいです。また、色の説明が、あじさいと近すぎて残念でした。その色を作者の中にどれだけ再現させるかが勝負だと思います

鉄平 評
梅雨も終わりに近づき、あじさいの色変化もいよいよ最終章。花だけに、最後にひと花咲かせて咲かせてくれるでしょう。何回読んでも「青白い朝」の明確なイメージが浮かばず、上五中七にもつながらず、全体をイメージすることができませんでした。

智 評
紫陽花の艶やかな色が失われていく悲しさが、うまく表現されていると思った。

奈津 評
紫陽花の色がだんだんと色が抜けて淡い色になってしまった様子。ぼんやりとした青白い朝の様子。そして目覚めたばかりの作者の様子。全てがぼやーーとしたゆったりな時間が読み取れた。

 

昼近い朝目覚め悔恨の梅雨 庵々

1点/選者=奈津

苦楽亭 評
反省の句?梅雨とどうゆうつながりがあるんだ。

風樹 評
人ってずいぶん勝手なものですね。寝坊してしまったことの責任を梅雨のせいにしてしまいます。責任を他におしつけてしまう人間の弱さ、ずるさを表現する一句と考えました。梅雨にとってはいい面の皮ですね。冗談しゃありませんよ。とまぁ、こんなやりとり。作者が言いたいことは何か、何に感動したのか、あるいは何に思いあまって句にしたのか。そこのところが分かりません。読者へ伝えたいこととそのための配慮、切なる共感と訴え、それが薄く、弱いのではないでしょうか。

稚女 評
単純な解釈では梅雨のある日、昼近くまで不覚にも寝過ごしてしまって悔やんでいる句。誰でも経験する朝寝坊の句。作者は悔やんでいるのだから、仕方ないよと言ってあげるしかないそれ以上にはどうしても読みきれなかった。

十忽 評
おそらくは、目覚める前から梅雨であったと思われる。よって「悔恨の梅雨」の何がどのように悔恨するに値するか不明である。散文に近く内容も詩的ではない。

すみれ 評
「早起きは三文の徳」。遅く起きると、あっという間に午前中は過ぎる。そのことを悔やみ残念に思う作者の気持ちを「悔恨の梅雨」と表した。

与太郎
よくわかりませんでした

鉄平 評
寝坊してしまったんですね。悔恨とはずいぶんと大仰ですが、初デートの日だったのかな?

智 評
昼過ぎまで寝ておらずにはいられなかったということは、よっぽど悩んで眠れなかったのであろうか。「悔恨」という強い言葉が、梅雨の陰鬱さで更に悲しみを増しっている印象を受けた。

奈津 評
2とは全く逆の勢いと鋭さがある句焦り、後悔の感情を梅雨にぶつけた面白い句。

 

てるてる坊主腸(はらわた)を抜く坊の朝 庵々

2点/選者=十忽、めんこ

苦楽亭 評
坊をどう読むか、子供、坊さん、腸を抜くって?犯罪者か。

風樹 評
てるてる坊主に腸はありません。なぜなら、てるてる坊主は、人のためにのみ存在するもので、いわば神と同じ“絶対的観念”だからです。ではこの腸は誰のものか、腸を抜くとは----。そして、下五の「坊」とは何なのか。僧の住むところか、坊さんそのものか、それとも坊やの坊か、判断に困ってしまい、像を結びません。すみません。この一句を鑑賞する知識も知恵もありません。降参です。  

稚女 評
照る照る坊主に腸はあるのだろうか?晴れを願って軒先にかかげる紙製の人形、晴れたら瞳を書き入れてお神酒を供えて川に流すのが正式らしい、それをなぜ腸を抜くんだろう?下五の坊は坊やの坊か?実景を読まれたのかもしれないが像を結ばない。

十忽 評
日本版グリム童話。梅雨の鬱陶しさに腹を立てているわけじゃないのだが、なぜか赤ん坊がてるてる坊主の腸を抜いている朝という場面がグリム的です。

すみれ 評
てるてる坊主には腸はあるのか?「腸を抜く」の意味が十分理解出来なかったが、てるてる坊主は腸を抜かれた状態なのであろうか…。

与太郎
言葉づかいの方が強すぎて、情景のインパクトが薄れてしまった気がします

智 評
どういう情景を表しているのかがつかめなかった。

 

朝がきた子供は静かに溺れます 風樹

1点/選者=めんこ

苦楽亭 評
当たり前すぎて。

稚女 評
静かに溺れるということは、恐怖に声をあげたりするのではなく、きっと、この子供は何か自分の好きなことに熱中して、脇目も振らずにのめり込んでいるに違いない。子供が何かにのめり込む姿は好きだけど、溺れるという表現はドキッとしてしまう。また、上五と中七、下五の関連性が不明。

十忽 評
状況が想像できなかった。

すみれ 評
「静かに溺れる」をどう捉えるか?子どもが水中に溺れるのではなくて、何かに心を奪われて、その事に夢中になっている様子を表現したのか?例えば、テレビ、おもちゃ、本…。「溺れる」の意味を十分理解出来なかった。

与太郎
大人は?

鉄平 評
朝の子どもと言えば、深い深い水の底から上がってきて目覚めるイメージですが、この句は静かに溺れるという。ちょっと怖い句でした。

智 評
作者の心情が殺伐としているのだろうか。「溺れます」と単調に伝えるところに怖さを感じた。

 

朝の日に芝刈りマシンの赤タンク 与太郎

地5点/選者=稚女、苦楽亭、みみず、風樹、鉄平

苦楽亭 評
色彩が鮮やか、緑の中に赤が一つ。

風樹 評
庭の芝刈り機に朝日が当たっています。赤いタンクの色が鮮やかです。その景がまことに明確に見えてきます。ごく日常的な、何の不自然さもない、平穏な風景です。それだけによけい、タンクの赤い色が強調されているようです。それからはイメージがストップします。何も動かず、何も広がらず、深まらず、流れず、ひたすら赤いタンクがあります。もちろん余情も抒情もなく、理屈も論理もありません。何かがあるとしたら、作者の自己規制、むき出しの精神そのものかもしれません。

稚女 評
赤いタンクの存在は知らないけれど緑の芝の上の赤い色は美しいことでしょう。『上五の朝の日』にのみでは季節を感じさせる表現にならないので、芝刈りマシンは芝刈り機にして初夏の朝などにすると、その季節と時間から感覚を膨らませて、匂いや皮膚に感じるものも出てくるように思います。

十忽 評
散文的過ぎて詩情がないように思う。

すみれ 評
ゴルフ場を想像。赤いタンクの赤に朝日があたり輝いているさま。緑の芝生にポツンと赤色、赤にスポットを当てた句。

鉄平 評
予約タイマーによって毎朝決まった時間に起動するAI型自動芝刈りマシン。古い型でエンジン音がうるさく、赤いタンクがむき出しだけど、これはヴィンテージ好きなご主人様の好みで改造もされている。今朝もご主人様のために芝刈りマシンが芝を刈る。真っ赤なタンクを鈍く光らせて。

智 評
「赤」という言葉が、いかにも暑苦しい夏の1日を予感させる。

 

厨房に朝日の位置や夏近し 与太郎

4点/選者=稚女、すみれ、風樹、与太郎

※人4点の句だが「朝日」に(熟語)なので人は無効とした

苦楽亭 評
厨房と言う言葉は使われなくなったな、俳人ぐらいかな。

風樹 評
台所の窓から朝日が射しています。季節の移り変わりによって朝日の当たる位置が少しずつづれていきます。ちょうど蛇口のあたりに日が射せば、夏が近いことをあらわしているのです。静かで、明るく、なにげなく、そんな景が心の豊かさを感じます。しかも夏が近づいてきたことに、作者は何か期待と悦びを感じるわけがあるのかも知れません。心がふと悦びにゆれるのです。読者も、作者の心の動きに合わせるように、心がはずむ一句でした。

稚女 評
今回のお題は朝の日はいいが朝日は不可だったのでこの句は契約違反。しかし、厨房の窓から差し込む初夏の朝の陽はさあ、新しい朝が来たよ、今日も1日元気でいこう!!と私たちを励ましてくれる。この句の力点は『朝日の位置』にあるように思うのだが、これを具体的な何かに朝の陽が差しこんで、それによってより夏を感じさせてくれたら良いとと感じました。「位置」だけの表現ではイメージが広がりません。

十忽 評
兼題は単独で「朝」と限定したはずです。

すみれ 評
起床して、まずは台所に立つ主婦。窓から朝日が差し込んでくる時、太陽の出る位置は南の方へと動いていく。その動きで夏が近づいたと感じた句。

与太郎
説明的な気がしてしまいました。

鉄平 評
「夏近し」だからこその朝日の光線は、厨房のどのあたりを射したのでしょうか。とても気になりました。

智 評
朝に差し込んでくる日の光が、これから厨房で始まる慌ただしさを予感させる。

 

金魚鉢朝の光は一点に 智

天6点/選者=苦楽亭、十忽、みみず、庵々、風樹、鉄平

苦楽亭 評
平凡な句だが、静かで丸い金魚鉢の金魚が見える、丸いから1点だろうな。

風樹 評
朝の光が金魚鉢に当たり、それが一点に集結して、反射します。その一点の光は金魚鉢を通し、金魚鉢を出て、まっすぐにのびていきます。輝く光の線となってのびていくのです。昔、父が建てた我が家の縁側の光景を思い出します。縁側に置かれた金魚鉢です。父と母は出かけているようです。僕は、庭に父が作った小さな池を見ています。一点の光が限りなく伸びていって、僕の思い出までたどりついた、そういう力をこの一句はもっているようです。

稚女 評
金魚鉢、朝の光と二つの材料をつなげて作者の思いを下五で一点にと表現されました。ガラスの金魚鉢にスポットライトが当たるように集中した光があまり強調できていないと思います。金魚鉢を下五に据えた方がいいように思います。

十忽 評
金魚の赤い色とはいっていないのだが、鮮やかな赤い色がクローズアップされて眼前にある。見事な朝である。

すみれ 評
窓辺に置かれた金魚鉢に差し込む光を捉えた句。金魚に餌を与えている場面も想像した。

与太郎
説明的な気がしてしまいました。

鉄平 評
カーテンの隙間から差し込む朝の光線は、金魚鉢の球面を乱反射し、何本にも別れた光の筋が部屋中を突き刺す。金魚が泳ぐたびに影がゆらめいて、なかなか神秘的な光景ですね。「一点に」という表現をもっと追及してほしいです。

 

まだ四時に朝だと嘘ぶく窓の外 めんこ

1点/選者=鉄平

苦楽亭 評
4時はもう朝でしょう。

風樹 評
四時が朝なのか、まだ夜なのか判然としませんが、我が家では、毎朝四時半に灰色の老猫が妻のベッドで鳴き出し、妻を起こします。ですからそれが我が家の朝というわけです。作者は、四時はまだ朝ではないと思っています。そして窓の外の人が“朝だ”と嘘ぶいているといいます。ちなみにうそぶくは嘯くで、嘘ぶくという文字は岩波国語辞典にはありませんでした。また、嘯くの意味は①とぼけて知らん顔をする。②大きな事を言う。豪語する。のことで、どうもびったりとこない。それに、何時が朝かは人それぞれ。窓の外の人が、朝だと思い、作者はまだ夜だと感じる。さぁ、どうしよう。そんなことを考えて、つい俳句の味わいを忘れていました。作者はどうですか。

稚女 評
中七の嘘ぶくという言葉は造語だろうか? 嘯くであるならば、鳥や獣が鳴き声を上げるという意があり、この句を解釈できるのだが。しかし、4時は間違いなく朝なんだけど。「まだ4時に」の表現が不自然。

十忽 評
擬人化が面白くない。

すみれ 評
朝、4時。新聞が配達される時間。今日の日の出は4時40分。「嘘ぶく」のは人間ではなくて、鳥たちの鳴き声と捉えた。睡眠妨害になりますね。

与太郎
四時は朝だと思います

鉄平 評
きょうも寝るのを忘れて深夜まで海外ドラマを見てしまった。外はまだ真っ暗だからと油断をしていると、突然、カラスの鳴き声を合図に「妖怪窓の外」がやってくる。窓の外は白々としてきて、もう夜明けが始まってしまった。自由な時間は終わって、寝て起きれば分刻みで行動しなければならない。明日の日中の自分を想像すると恐怖でしかない。しかしこれは全て「妖怪窓の外」の見せる幻。実はまだ外は真っ暗なのだ。

智 評
朝を伝えてきた窓の外のものは何なのであろう。小鳥たちの囀りか、はたまた車の往来の音か。色々想像したくなる。

 

白南風やほがらほがらの朝の顔 十忽

2点/選者=すみれ、与太郎

苦楽亭 評
漁師言葉だろう、こんな顔している、甘ったれた漁師はいないと思うな。

風樹 評
梅雨が明ける頃に吹く南風を白南風といいます。しかし、その後の「ほがらほがら」とは何か。「朝の顔」と下五にありますから、何か朝の顔の表情のことでしょうか。もちろん辞典にはありません。オノマトペなのでしょうか。「ほがらか」という字はありますね。「か」を抜いたのでしょうか。そして二字つなげてみたのでしょうか。新作というわけでしょうか。ウーム、どうかな。白南風ははやて、疾風、陣風ともいい、すべて“急に速く吹く風”の意。どうも「ほがらほがら」と言っていられないほど急に吹き出す速い風なのですが----なんだか文字の意味にばかり気を取られてしまいました。

稚女 評
梅雨明けの頃に吹く南風を白南風ということだ。この句では朝会う人たちが朗ら朗らと梅雨明けを喜んでいるのだ。毎朝ウオーキングをしている人たちにとっては、このオノマトペは彼らの心情を素直に表しているのだろう。心情として理解できるし、人々の表情も見える作品ではありますが、ほがらほがらという音感が好きではない。

すみれ 評
梅雨が明けて嬉しい様子が伝わってくる句。「ほがらほがら」から晴れ晴れとした気持ちと、ほがらかな顔で朝を迎える…嬉しいな!

与太郎
中七の表現がおもしろい。季語は無理に使わない方が良いのでは、と思っていただきました

鉄平 評
梅雨が明けてよく晴れた朝、白南風の中から、入れ歯の合わないおじいさんがほがらほがらと歩いている。平和な光景ですね。なかなか楽しい句でした。

智 評
「黒南風」の句と作者は同一であろうか。「ほがら」とあるように、黒南風とは逆の穏やかさを感じさせた。

 

生まれたての朝の空気に茄子の紺 すみれ

天6点/選者=稚女、苦楽亭、十忽、智②、与太郎

苦楽亭 評
色彩が鮮やか。

風樹 評
生まれたてでない朝はありますか。紺でない茄子はありますか。この一句は「朝の空気に茄子」ということ。いまさらの感がありますが、俳句は粘土細工ではなく、彫刻ですよね。削れる言葉が無くなるまで削ったあとにのこったのが、つまり俳句でしたよね。この一句、まだデッサン中と言わざるを得ません。

稚女 評
この句では茄子を清澄な朝の空気の中で栽培しているのか、あるいは食材として刈り取っているのか不明。言わんとすることは十分に伝わるのだけど、どうも中七の「空気」が宙ぶらりんに思える。『生まれたての朝採りたての茄子の紺』なんてどうだろう。

十忽 評
朝採れのみずみずしいなすの紺色が目に浮かぶ。最近では生食用のなすがあるというが、この句を詠んで食べてみたくなった。

与太郎
「生まれたての」という表現など、使い古された他人の表現は再考いただきたいですが、茄子の色との組み合わせが爽やかで気持ちが良かったです

鉄平 評
こんな気持ちで一日を迎えれば、毎日を平和に過ごせるでしょう。冴え冴えとした朝の空気に、鈍いはずのナスの色彩が鮮やかに感じられました。

智 評
朝の爽やかな空気に、茄子の鮮やかな紺色が映えている情景がうまく伝わってくる。「生まれたて」という言葉がきいていると思った。

 

からす等のあ行の疎通朝暑し 稚女

3点/選者=奈津、すみれ、みみず

苦楽亭 評
カラスはア行です、暑っ苦しいのをそのまま句にしてしまった。

風樹 評
「等」はいらなかったですね。つい、初歩的なミスが無意識に出てしまうんですよね。カラスの鳴き声に、暑苦しい夏の朝なんだなぁと実感するのは、読者の側にしたいと思いますね。「夏暑し」で共感はしても、読者は暑くないわけで。「あ行の疎通」をテーマとしたわけですから、せっかく狙ったテーマ、そこのところはぐぐっと、ぐぐっと深めていってこそですよね。

十忽 評
句意にむりがあるように思います。

すみれ 評
朝、外から聞こえる音は鳥の鳴き声。カラスは電線の上で互いに鳴き合っている様子を見かける。あれは、発声練習だったのかな?まずはあ行をクリア。カラスの鳴き声は人間にとって暑苦しく感じる。これを「夏暑し」とした。

与太郎
本当にあ行なのでしょうか。なんというか、もっとすごいもののような気がします。

鉄平 評
「あ行」だからこそ疎通し、朝暑しと感じた作者。他の50音の鳴き声と「あ行」の鳴き声の違いはなんなのでしょう。想像を膨らませてみようと試みましたが、ピンとくるものがありませんでした。

智 評
からす達の鳴き声を「あ行」と表現したところが面白いと思った。からす達もそれで疎通しているのだろうか。

奈津 評
カラスの鳴き声を「あ行」と表現し、朝暑しが単に気温が高いだけではない、煩さからの暑苦しさを表現した面白い句 。

 

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