第297回句会報告【兼題句/お題「無」】
6月15日に行った第297回句会「兼題句」報告です。
- 子らの声無人踏切渡る夏 庵々
- 無記名の投票用紙風薫る 智
- 葉桜やをかしいくらい何も無い めんこ
- 夢無くて朝夢に見し虹の影 みみず
- わたくしを無きものとして空青し 与太郎
- 短夜や無口な人の高笑い 十忽
- 無鉄砲なガンマンの的月兎 稚女
- 蛇口より温水に変わるまでの虚無 風樹
- 無花果のサンドイッチと文庫本 すみれ
- 摺り足や傘に音無く五月雨 苦楽亭
- 無彩色。産業道路に枯れた薔薇 鉄平
子らの声無人踏切渡る夏 庵々
地5点/選者=稚女、智、風樹、みみず、鉄平
苦楽亭 評
声が踏切渡っているのだろうが、心に引っかからないのは景の平凡さだろうか。
風樹 評
子ども達の行動半径が広がる夏、無人踏切を渡る姿を活写している一句。危険と緊張感、そしてほほえましい気持ちがないまぜとなっている中、子らの声がそれらをゆったりとほどいてくれる。子ども達の声が聞こえてくるような、小説の一場面のような景を見せてくれました。しかし、とくに新しい発見、研ぎ澄まされたイメージがあるわけもなく、ただただ、可も無く、不可も無く、夏の一場面。昭和の一場面。
稚女 評
夏休み、真っ黒に日焼けした子供達は親がしらない場所で沢山の冒険に明け暮れる。汽車の通り過ぎる踏切は特に違う世界への憧れを感じさせるところでもあるのだろう。情景も子供もよく見える句だ。
十忽 評
子供の声や足音などを使って表現する句には、内容はともかくとして食傷気味です。
すみれ 評
元気にお喋りをしながら下校する子ども達の姿が見えて来る。踏切の前で弾むお喋りは季語の「夏」から、そろそろ夏休みの予定の話かな?事故のないよう、渡って欲しいと願う…。
与太郎 評
上五と中七があわない気がしました。夏もとってつけたように感じました。
鉄平 評
はじめ読んだときはスタンドバイミーや三丁目の夕陽のような、あの日の夏を懐かしんでいるノスタルジックな句なのかなと思いましたが、読んで行くうちにホラーに変わってきました。夏の蒸し暑い夜。無人踏切から、姿なき子供の声が…。
智 評
自分の子供の頃もこんな場面があったことをノスタルジックに思い出させてくれた。
無記名の投票用紙風薫る 智
無点
苦楽亭 評
上5中7とした5があわない、投書用紙(や)で切れ字を使ったほうがいいと思う。
風樹 評
記名せずに投票していたかつての時代を、いつの間にか過ぎてきてしまった。そんなことを思い出させてくれました。今はもう、風は薫らずに、苦さと心配が混ぜ合わさった気持ちで投票所を出るということになってしまった。主張は決して通らず、意味もない投票ではありますが、風が薫っている間は、まだ救いもあるのでしょう。一篇のエッセイを読んでいるような。ふと、俳句がどこにあるのか、迷い道を歩いています。
稚女 評
自分の名前を書かない投票用紙とは、誰かあるいは何かに票を入れるための用紙であるはず。『風薫る』と言う爽やかな季語を使用していることから判断するなら、この行為はとてもさっぱりとした行いであるのだろう。しかしもう一つ句意が読み取れない。
十忽 評
投票権を行使したことと風薫ることの間に詩情が感じられなかった。
すみれ 評
現代ではアイドルグループの選挙など形式は様々。「風薫る」…青葉を渡って来る風は爽やか、投票も爽やかでありたい。
与太郎 評
下五と衝突していない気がしました。
鉄平 評
この無記名には誰のどんな思いがあったのでしょうか。何か感じられそうで、いまいち感じられませんでした。もうひとつ突っ込んだ作者の発見を見せて欲しかったです。
葉桜やをかしいくらい何も無い めんこ
2点/選者=十忽、風樹
苦楽亭 評
そんなことってあるの、この句ってどう読めばいいんだろう。
風樹 評
葉桜の季節になって、満開をよろこんできた季節が何だったのか、今さらにむなしい気持ちになってしまう。結局おかしいくらい何も無かった訳だし、今も何も無い。漂うのは、諦念と虚無感。日本人は一度、桜を疑ってみるべきなのです。人は傍若無人に自然を使い、利用し、汚し、人間のあさはかさに気づかず、あらゆる生命の中で天下をとってきたと信じている。未だに信じている。おかしいくらい何も無い。これもまた、俳句となるのでしょうか。
稚女 評
中七及び下五をどのように解釈すべきなのだろう?『をかしいくらい』を笑っちゃうほどと解釈するのか不思議なくらいあるいは納得できないくらいと解釈するのか、下五の何も無いは物が何も無いととるのか、胸の中にわだかまりのようなものが何も無いと読むのか、、桜の開花の際は大勢の花見客で賑やかであったが葉桜になると花見の時のような浮かれた雰囲気もなく静かでスッキリと何も無い私はその頃の方が好きだ。
十忽 評
何も無いことの度合いがおかしいくらいだと言っている。俳句というより散文に近いのだが、句全体が醸し出す雰囲気は詩情に溢れている。
すみれ 評
「何も無い」は一本桜のように、周りに何も無い風景なのか?(小岩井牧場の一本桜を思い出す)「心」の中の無の状態を表現しているのか迷ったが、前者の方をとりたい。
与太郎 評
「を」かしは、「おかしい」とは意味が違うと思います。
鉄平 評
何度も読み返しましたが何がおかしくて何がないのか読み取れませんでした。「葉桜や」でなかったら、違っていたかもしれません。
智 評
あれほど咲き誇っていた桜が葉だけとなってしまった寂しさを、「をかしい」という反対の表現で表したところが面白いと思った。
夢無くて朝夢に見し虹の影 みみず
1点/選者=風樹
苦楽亭 評
上5と中7下5のつながりは、全部夢にしてしまったほうがよかったんじゃないかな。
風樹 評
朝めざめる瞬間に見た虹の影の夢。上五の夢はもう一方の希望としての夢か。二種類の夢のまにまに人はいつも戸惑い、つまづき、あわてふためいて----。思えば虹の影さえ見ることのなくなった老いに気付くのだ。夢と夢の間には深くて暗い川がある。なんて思っていた頃は、まだまだ若かった。老いに直面して見る虹の影。途方に暮れて振り返って、〝さて〟と一言。チャップリンも言ったではないですか。「人生に必要なもの。夢と希望とサム・マネー」
稚女 評
上五の夢は希望、中七の夢は現実の朝方に見た夢のことと解釈、現実に見た夢も虹では無くその影であるという茫洋とした夢のようだ。せめて現実の夢は輝く虹に腰掛けているくらいの希望が欲しい。
十忽 評
意味不明の句。虹を見たならともかく、虹の影ですから悩みます。
すみれ 評
「虹の影」を虹の光と捉えてみた。夢占いでは朝夢は一日の始まりをあらわす。朝はこれから何かか始まる事を意味する。良い印象なら吉夢。吉夢で一日のスタートを切って欲しい。虹の光のように…。
与太郎 評
具体的な像を結びませんでした。 「夢無くて」は「夢も希望もない」という意味でしょうか。上五中七まではよかったのですが、下五の「虹の影」はただでさえ夢の中の虹でフワフワとした捉えどころのないものなので、イメージを読者に委ねすぎではないでしょうか。下五ははっきりと目に見える何かで、スパッと言い切ったほうが、上五中七が生かされるような気がしました。
智 評
幻想的で美しい印象だが、「夢」が重なっているのが少し気になった。
わたくしを無きものとして空青し 与太郎
地5点/選者=智、苦楽亭、十忽、めんこ、鉄平
苦楽亭 評
私がないと、すべて青空だけ、(3)も何もない句だが景の大きさで(5)。
風樹 評
何も、どうしても、無きものには出来なかった青春時代を、またもや思い出せというのですか。決して青い空ではいられなかった時代を。ある意味そこぬけの楽天主義の一句。ある意味救いようのない悲観主義の一句。いつでも「わたくし」の存在を無きものとして認識できるのですから、いつだってそりゃ空は青いことでしょう。どうも自意識過剰ぎみの一句とも言えそうですか。人生論を俳句に読むのはちょっと分別が強すぎたようです。
稚女 評
無きものと打ったら泣きもの、亡きものなんて文字が出てきたけれど、この句は無きものなので私など存在しないかのように空は青いということだろう。あるいは私などいなくなっても空はかわらず今日のように青いのだろうということか。中七がわかりにくい。
十忽 評
わたくしを無きものにするという行為からは坐禅を想起させる。半眼に閉じた網膜に写し出されているのが青い空というのがいい。
すみれ 評
言葉では評を上手く表現出来ないが、「無き者」・「空青し」で、寂しいと感じさせる句。
鉄平 評
「空青し」と作者は清々しい気分。「無きものとして」は決して私なんてといじけたりしてるのではなく、何かに区切りを付けて再スタートしようという気持ちを表しているのでしょう。もしかしたら男女の別れなのかもしれません。
智 評
青い空という爽やかな場面の半面、そこに自分の身も心も溶け込んで消えていくもの悲しさを感じた。
短夜や無口な人の高笑い 十忽
人4点/選者=稚女、苦楽亭、庵々、鉄平
苦楽亭 評
中7が効いているんだろうな、それと季語の選び方がいい。
風樹 評
普段は無口の人が、突然の高笑い。いったいどうしたことでしょう。笑いにはたくさんの表情がありますが、高笑いとくれば、暗さや嘲笑などマイナスの笑いではなく、前向きな朗らかな、明るい笑いというイメージが強くあります。しかし、ここでは無口な人なんですから、やはりなにか大きな変化を感じさせます。しかも、夏の短い夜ですから、どこか切羽詰まった切迫感さえ感じさせるのです。けっして朗らかではなく、緊迫した空気が、立ち込め。ただならぬ夜なのです。さて、どうしましょう。
稚女 評
お隣さんのご主人は無口な人らしい。奥さんの話し声や笑い声はよく聞こえるのに、ご主人の声はほとんど、聞こえないし、外でお会いしてもすれ違いざまに頭をひょいと下げるだけなのにこんばんはお隣から大きなご主人の高笑いが聞こえてきてこちらまで楽しい気持ちになる。もうボーナスが出たのかな?高笑いがいいね。
庵々 評
時として起こることです。驚くやら微笑ましく思うやら。短夜が効いているように思います。
すみれ 評
何があったのでしょうか?突然の高笑い、それも「無口な人」。下五の「高笑い」はさまざまな理由を想像させてくれる。思い出し笑いかな?とも考えた。
与太郎 評
無口と高笑いという言葉上の抽象的な対比に過ぎず、具体的な事象をなにも示していないため、像を結びませんでした。
鉄平 評
無口な人が高笑いをしているであろう、読者を説得するものが、もうひとつ足りない気がしました。句としてまだ感動までは届かず、一点取ってもいいかなあではなく、文句なく一点を取りたくなるクオリティを作者に期待します。
智 評
ユーモラスだが、その後ろになんとなく不気味さを感じさせる。
無鉄砲なガンマンの的月兎 稚女
2点/選者=すみれ、みみず
苦楽亭 評
確かに無鉄砲な句だ上5中7では何が何だかわからないがした5で謎解き。あと1点あればいただいた句。
風樹 評
真っ暗な夜空にひときわ輝く月。そこには兎が餅をついているのが通り相場です。しかし、今日の月はガンマンがその兎に狙いをさだめているのです。でも、このガンマン、なんとも間抜けな殺し屋で、鉄砲を持っていないガンマンというのです。いわばエアーガンマン、エアー殺し屋だったのです。こんなまぬけで優しい夜の舞台を用意してくれています。さて、この物語、句会の席に出てきてよいものやら。降参です。
十忽 評
無邪気な猟師の的、だったらなんとかついていったのですが…。鉄砲、ガンマン,的など、言葉がつきすぎている。
すみれ 評
昔の西部劇を思い出す。無鉄砲なガンマンと月兎の対比が面白い。的を月の兎と捉えた点はスケールが大きい。
与太郎 評
一般的な慣用句に対するあそびにしか見えませんでした。
鉄平 評
二重のダジャレというかユーモアを織り込んだ一句。見かけは面白いのですが、詩としてはどうでしょう。主人公であるガンマンの人となりを無鉄砲に委ねてしまっている気がします。無鉄砲と言えば分かるでしょ? ではなく、作者が発見した無鉄砲を見せてほしいです。
智 評
少し漫画的すぎるかな、と思った。
蛇口より温水に変わるまでの虚無 風樹
天6点/選者=智、苦楽亭、すみれ、みみず、めんこ②
苦楽亭 評
温水に変わるまでの水は出しっぱなしで、冬場は長い、ただ、温水になるのを待っている。確かに虚無だが、虚無、わざとらしさを感じてしまう。
稚女 評
水道の蛇口から出てくる水が温水に変わるまでの虚無。虚無を辞書で引くと、何もないこと、空虚、虚しいことと解釈されるのだが、この句の虚無とはなんだろう?温水に変わるまでの時間は1分にも満たないほどの短い時間と思う。主婦の私はそれに虚しさを感じない。それより、早く出ろ、と心の中で毒づいているかな? ということで共感できない。
十忽 評
言っている意味はわかるのだが、 虚無が時間なのか空間なのか、それとも作者の観念なのかよくわからない。
すみれ 評
水から温水に変わるまでの数秒間を「虚無」と表現した点が素晴らしい。着眼点が良い。
与太郎 評
よくわかりませんでした。水が湯に変わるまでの時間のことでしょうか。
鉄平 評
顔を洗うときか、はたまた風呂を掃除する時か、いずれにしろ冷水から温水に変わるまでの時間なんてたかがしれている。随分とお手軽な虚無です。句全体が説明ぽいので取りませんでした。
智 評
この短い時間を「虚無」というある意味無限とつながる言葉で表したのがうまいと思った。
無花果のサンドイッチと文庫本 すみれ
3点/選者=庵々②、与太郎
苦楽亭 評
文庫本を下5にみってくると、俳句になってしまう、便利な言葉。無花果のサンドチッチて初めて聞いた、食べてみたい。
風樹 評
イチジクのサンドイッチと文庫本をかかえて、いったいどこへ行くのでしょう。ある地方の町の私鉄に乗って、海の見える丘に向かいます。海風に吹かれてページを繰ると、そこに繰り広げられるのは、日本の幽界のお話。いつの間にかそこは丘の上ではなく、目の前には古く暗いお堂が…というわけで、ちょっといじめてみたくなる主人公でした。言ってみれば、俳句が現代のファッションを身にまとい、渋谷のスクランブル交差点を渡っていく景なのでしょうかね。
稚女 評
へ~無花果のサンドイッチなんて初めて聞いた。おしゃれなサンドイッチを持って公園のベンチで読書をするなんて素敵だ。できたらなんの本なのか明記してもらうともっとイメージが膨らむのだけれど。もったい無い一句です。
庵々 評
3つの取り合わせ(?)がよかった。「の」を「と」として3つを提示しただけでも絵になりそうだ。
十忽 評
それがどうしたとしか言いようがない。
与太郎 評
嫌いではないのですが、ちょっとありがちな気がしました。
鉄平 評
ひとり近所の公園で読書でしょうか。美味しそう、気持ち良さそうですが、それ以上の感動はありませんでした。
智 評
切り取られた一場面からの広がりがあまり感じられなかった。
摺り足や傘に音無く五月雨 苦楽亭
3点/選者=すみれ、与太郎②
風樹 評
おぼつかない足元で、摺り足で歩く老婆がいます。傘をさしていても、降る五月雨の音さえ無く、ひたすらつめたい雨に肩を濡らして佇んでいます。信仰もなく、家族も身寄りも無く、すでに記憶もおぼつかず、もとより夢も希望もない。周囲の音も今は無音と化してしまいました。人は、いつ救われるのでしょうか。俳句は決してなにも語りません。
稚女 評
雨が降っているのに傘に雨音がせず、しかも摺り足という。雨の中で摺り足で歩いたらしっかりと衣服を汚してしまうだろう。摺り足で亡者を演じるという能の舞台風景だろうか? 理解できませんでした。
十忽 評
摺り足は音をたてない で歩く方法だが、五月雨が音もなく傘に降りかかるという中七・下五との関係を匂わせていて、やで切った意味がないように思う。
すみれ 評
摺り足と五月雨の関係が十分理解出来ないが、「傘に音無く五月雨」の表現が良い。作者は静かに傘に降る雨とまわりの静かさを表したかったのだろう。摺り足も音は無いから…。
与太郎 評
下五が不要。兼題が季語の説明として使われてしまっているので。とはいえ、静かな空気感が伝わってきたので好きでした。
鉄平 評
視点が足に行ったり、傘に行ったり、雨に行ったりと落ち着かず、一読では状況がわかりませんでした。作者は「静寂」を伝えたかったのでしょうか。だとしたら「音無く」を使わずに表現してほしいです。
智 評
「摺り足」「音無く」「五月雨」と、静寂を感じさせる言葉が続いているのが少しくどいような感じがした。
無彩色。産業道路に枯れた薔薇 鉄平
2点/選者=稚女、十忽
苦楽亭 評
景をそのまま言葉にして並べた句。
風樹 評
無彩色とはじめにことわっているのに、なにやらずいぶん賑やかな景となっています。ひっきりなしに通過する車、車、車。そしてその脇に、捨てられた枯れ薔薇。あるいは立ち枯れの薔薇。その対比を浮き彫りにしています。動と静。しかも無彩色。句読点を含めてとても考えられた一句。しかし、頭で考えた一句のような気がしてしかたがありません。だから、愛も、哀惜も、ない。息吹も、ぬくもりも、ない。都会というのは、そんなものなのでしょうか。都会に生まれ、育って、そこが唯一の故郷である人間には、この句はとても悲しいのです。
稚女 評
悲惨な交通事故が頻発している。高齢の加害者も幼い生命の犠牲もやりきれない。沢山の花やお菓子を備えて犠牲者の死を悼む人たちが絶えない道路脇無彩色。これからの人生をたくさんの色で塗りあげていくことのできなくなった生命たちよ安らかに。
十忽 評
この句点は切れ字の意味なのか、それともたんなる強調のなのか。産業道路と枯れた薔薇の対比が意表をついていて見事。
すみれ 評
俳句における句点「⚪︎」に関心を持った。「無彩色」…灰色(白・黒)の世界を表現したかったのかだろう。産業道路と枯れた薔薇の取り合わせが不思議。道路に手向けられ薔薇の花を想像させてくれた。
与太郎 評
上五が中七以下の説明になってしまっている気がしました。
智 評
「産業道路」というのは固い表現のように感じるが、しれが「枯れた」薔薇をより一層枯れた感じにしているのかもしれない。
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