俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第310回句会報告【自由句】

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9月19日に行った第310回句会「自由句」報告です。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

 

カナカナや歯科病院のすゝぎ水 風樹

3点/選者=智、十忽、苦楽亭

苦楽亭 評

そうか、歯医者のあの水に目をつけたか、ガーと削られて、はい、濯いでくださいと言われたときのホット感、口の中がカラカラになつていて、なんとも、甘露な水で、カナカナの季語がぴったり。

稚女 評
かなかなは秋の季語。晩夏から秋にかけて主に夕暮れに一種哀調を含んだ泣き声で去りゆく夏を惜しむかのように鳴く。この句は動詞がなく提示されているのは、歯科病院と濯ぎ水。夕方にかなかなの鳴き声の聞こえる日か病院で治療中なのだろうか?治療の途中何回か口をすすぐよう指示されるのだが。濯ぎみずで何を表現したいのか解釈できませんでした。また、病院と言うと大きな建物を想像しますが歯科医院の方がこの句にはふさわしいのではないかと思いました。

すみれ 評
静かな歯科病院。治療中に蜩の鳴き声が聞こえてきた。カナカナとすすぎ水が上手く繋がらいが、うがいの「すすぎ水」の音と蜩の鳴き声が重なって作者に聞こえたのだろう。

十忽 評
カナカナはひぐらしの別名。鳴き声からカナカナとも言われて薄明の頃、つまり日の出前や日暮れ時によく鳴くと言われる。カナカナの音は歯痛を文字化したと思われるほど似ているし、歯の治療に用いられる器機の音にも似ているので、この句にはぴったり。季節的にも猛暑が一段落して秋めいてきた頃、やっと歯の治療をする気になった作者が歯の治療の途中で、じゃあちょっとうがいしましょうかと医師に言われてほっとしている様子が手に取るように伝わってくる佳句だと思いました。

鉄平 評
季語は「かなかな」。秋になり冷たくなった歯医者のすすぎ水が歯に染みるのだろうか。上五がかなかなである必然性が感じられず、中七下五の繋がりに感動を覚えなかった。

智 評
歯の治療が終わって口をゆすいだ時、ふいに蜩の鳴き声が水音の間から聞こえてきたのだろう。水音と蜩の鳴き声との対比がうまく組み合わさっていると感じた。

 

宇宙館出ると地球秋暑し すみれ

地5点/選者=智、大橋、風樹、宮原、鉄平

苦楽亭 評

地球で切るのではなく、「の」を入れて地球と暑さを強調した方がいいのではないかな、5、7、5にした方がいいと思う

風樹 評

やくざ映画を見て映画館を出る時、なぜか右肩が少しあがって、まなざしもまぶしそうになっている。宇宙館でさんざん宇宙を楽しんで、館をでる時、やはり宇宙の外に踏み出すように周りと空を見上げているのでしょう。そこになにを発見したか、秋になってもまだまだ暑い地球だった。情報に影響されず、冷静な精神をもっている作者あるいは読者の視線と、世界観にある種の欠乏をさえもたされる。せめて、宇宙館をでる時くらいは、地球と世の中でなく、別の風景を見てみたかった。

稚女 評
季語は秋の蚊で秋。都内に何箇所か宇宙館は存在している。作者はこの館内で宇宙の諸々について見たり聞いたりして、さて館外に出ると地球はなんと言う暑さだろう……。宇宙と地球を対比させた面白さを感じましたが、中七の「出ると」の表現が適当ではないように感じました。

十忽 評
宇宙と地球という言葉遊びに終わっている気がします。

鉄平 評
季語は「秋暑し」。万博の 思い出だろうか。景がしっかりと見えて発想も面白い。ただ季語が生かされていないのと、「地球や」などにしてきちんと575にしてもらいたかった。

智 評
宇宙の壮大さから急に自分が地球にいるという現実に引き戻されて、その瞬間に暑さを感じたのだろうか。時間感覚が変わる瞬間を上手く捉えていると思った。

大橋 評
宇宙的スケールの大きさと空調のギャップ感が面白いと思いました。

野村 評
あああああ

 

サングラスの下の金壺眼かな 稚女

2点/選者=苦楽亭、宮原

苦楽亭 評

笑える句、痴水を思い出してしまった。

風樹 評

昭和時代に青春を過ごした日本の男達は、サングラスにあこがれ、それもなぜかちょっと危ない感じを抱いている。サングラスをはずすと、なんと愛嬌のある金壺眼だった。ホッとしたような、安心したような懐かしいような、ユーモアいっぱいの何とも言えない感覚に包まれる。そんな景がよく見える。だからなんなのか、それは分からない。このユーモアが明日の幸せ。いや、作者ひとり、幸せになっているのか。ちょうどサングラスをとったところです。

すみれ 評
「金壼眼」の表現は句会では初めて。サングラスを外したら、「金壼眼」と分かった時の驚きを(発見)表現したのだろう。

鉄平 評
季語は「サングラス」で夏の句。サングラスを取ると金壺眼だった。金壺眼でもヒラメ顔でもなんでもよいが、作者がなにに感動したのかを詩にしてほしい。

智 評
上五の「の」はなくてもよいのではないかと思った。

 

ゴムプール子供と泳ぐ缶ビール 大橋

3点/選者=稚女、野村、鉄平

苦楽亭 評

あのプールはゴムプールとは言わないんじゃないかな、意外性が効いて面白い句だけに上5がもったいない。

風樹 評

ステイホームの時代、暑さの中ベランダに出したゴムフールで子供と遊ぶ。缶ビールもいっしょに冷やす。一読分かりやすい景が目前に。子供のクロールにあわせて缶ビールもゆらりと泳ぐ。ステイホームも案外楽しく、幸せな日常になるものだ。さあ、なにを感じればいいのか。なにがいいたいのか。エッセイ風の俳句なのだが……。

稚女 評
季語プール、夏の季語。ユーモアのある句。実際の光景でしょうか? この句は上五に缶ビールを配したほうが、もっとビールが強調できるのではないかと思いました。

すみれ 評
自宅の庭のゴムプールで、楽しそうに遊ぶ幼い子の姿が浮かぶ。「缶ビール」は夏の季語。ゴムプールを夏の季語「水遊び」と捉えると季語重ねになる。「缶ビール」を別な物でもよかったのかな? 「泳ぐ缶ビール」はおもしろい表現。

十忽 評
中七の「子供と泳ぐ」のは「缶ビール」というのが興ざめです。

鉄平 評
季語は「プール」と「ビール」季重なりの句。ただしこれは親が飲み終えた缶ビールを、子供がおもちゃ代わりにプールに浮かべている空き缶だろうか。いずれにしろ庭先にゴムプールを出して子を遊ばせている風景で、景はよく見える。ただ出来事としては特別珍しい光景ではなく、心が動かない。子供が空き缶をどのようにして遊んでいるのか。空き缶はどのようにして浮かんでいるのか。もうひとつ踏み込んで風景を観察したら、詩になる何かが見えてくるのではないだろうか。

智 評
情景は浮かぶが、ややありきたりな印象がした。

野村 評
夏のお休みの、のんびりとした楽しい時間の流れが想像できて楽しい気持ちになりました。

 

まぶしさを失いながらひぐらし 与太郎

3点/選者=十忽、すみれ、苦楽亭

苦楽亭 評

季節の移り変わり、季節の虚いそんな様子がひぐらしでという季語でよく表現されている、上5の眩しさの使い方もいい

風樹 評

蜩が鳴く頃、東京の季節は秋の入り口にさしかかっていることを表している。こんなに暑かった夏の日々。やっと東京にも秋の気配がしのびよってきた。カナカナは寂しそうで、悲しそうで、ふっと思い出さえ浮かんでくるような声なんですね。蜩を俳句に詠うときはこんな感情に包まれるものです。明らかに季節の移ろいを冷静に読んでいる句。この夏は、東京も世界もほんとうに大変な季節をくぐり抜けてきた。しかしまだまだくぐりぬけている最中なのです。それにしてもなんと冷静に、冷静にあくまでも冷静に読まれた一句。

稚女 評
季語は蜩、秋。眩しさとはなんでしょう? 光輝いて美しいものを失いながら、そのひぐらしの日々を過ごしていると言う解釈でいいのでしょうかあるいは、蜩そのもののことを詠んだ作品でしょうか?

すみれ 評
蜩の鳴き鳴き声を聞くと物悲しいような気分になる。下五の「ひぐらし」は秋の季語の「蜩」ではなく、「日暮らし」と捉えた。「まぶしさを失いながら」は気温が低くなると元気を失っていく蜩と、年老いて一日一日を過ごしている作者自身に重ねた句。切ない感じが伝わってくる。

十忽 評
上五中七の「まぶしさを失いながら」はおもわず我が身に引き付けて解釈してしまいそう。若くて生き生きと過ごしていた輝かしい時もいつしかそのまぶしさを失い、定年を迎えてその日暮らしを余儀なくされているとも詠めて身につまされます。その我が身と同じように蝉のヒグラシもやがては鳴きやんでその一生を終えるのだろう。下五を四文字の「ひぐらし」で終わらせているところに作者の強い意志を感じ、潔いと思いました。

鉄平 評
季語は「ひぐらし」。まぶしさを失っているのはひぐらしか、作者か、または季節の変わり目の太陽光の事だろうか。景が見えなかった。

智 評
夏のまぶしさが失われていく幻想的な心の世界が、ひぐらしの鳴き声によって現実に引き戻される心持ちを詠んだのだろうか。下5が字足らずでなければよかった。

 

雨風の音送り来し友の声 みみず

1点/選者=十忽

苦楽亭 評

中7の意味が解らない

風樹 評

激しい雨風の音。その音に乗って友の諌める声が聞こえた。昨晩作者は酒場で友とどんな会話をかわしてきたのか。そんなことが忍ばれる一句。あくまでも冷静にソフトに話をしたいのに、つい声を荒げて会話をしてしまう。酒場の中が騒々しいのでつい------。きっと友も今頃雨風の音をききながら、昨夜の会話を反省しているのかも知れません。やはりよき友なんですね。親友とはそういうものかも知れません。どんな会話だったのか、中味については作者は言いません。ただ、雨風の音で、すませています。心に波風をたてられるような、そんな一句。どう読めばいいのだろう。

稚女 評
無季。雨風の音とは大きな台風の音でしょうか?音と声の表記があり句の焦点が「へそ」が掴めませんでした。

すみれ 評
雨風の音が作者のもとに送られて来た。その音は懐かしい「友の声」だった。(作者にとっては友の声に聞こえたのだろう)友は亡くなられた方だろうか? どんな声だったのか聞いてみたい。

十忽 評
台風の最中に友人に電話を掛けいる。口では大丈夫だからと言ってはいるが、その声に重なって聞こえてくる強風と豪雨の音の凄まじさはただごとではない。ねえ、凄いでしょ、でも私の家は大丈夫だから心配しないでね、と言っていたとしたら面白いと想像できたので一点。

鉄平 評
無季の句。雨風の音を送っているというのはどんな状況なのか。景が見えず意味もわからない。推敲をしたらすっきりと分かりやすくなる気がする

智 評
「音」と「声」が重なってしまっている印象がした。

 

鈴虫や埃まみれの松葉杖 智

地5点/選者=めんこ②、稚女、みみず、与太郎

苦楽亭 評

さて、松葉杖の持ち主は、完治したのか、亡くなったのか、どちらとも取れるのだが、完治ならほこりまみれでもおめでたいが、持ち主がいなくなったとなれば、鈴虫の泣き声も寂しくなる

風樹 評

足をケガして、さんざんお世話になってきた松葉杖。今では玄関の三和土にたてかけられたまま、埃まみれ。今年、大手術をした我が身には、しみじみと伝わってきます。あっという間に半年間が過ぎ、鈴虫の鳴く秋に。それにしても、とても俳句らしい俳句といえるようです。でも、何だか、なにか、物足りない気がしてしまうのです。揺るぎない姿勢を見せられたようで、隙が無い。上手な一句です。

稚女 評
鈴虫は秋の季語。名前どうり鈴を振るような美しい泣き声でマツムシとも言う。玄関の隅でしきりに鈴虫の鳴き声が聞こえる。傘立てには松葉杖がかなり埃をかぶって入っている。かってはこの杖を愛用して毎日外出していたこの家の主人も今は外に出ることもなくなった。埃まみれの松葉杖の表現のみでもう杖をも使うことができなくなったと言う状況を伝えている。

すみれ 評
心地よい鳴き声の鈴虫と埃にまみれた松葉杖は同じ場所にある風景だろうか? きれいな鳴き声と埃にまみれた松葉杖を対比して表現したのだろう。

十忽 評
鈴虫と埃まみれの松葉杖の対比の面白さを狙った句だと思いますが、鈴虫にはやはり涼しげな物事が似合うと思いました。

鉄平 評
季語は「鈴虫」。使われずにどこかに閉まってあった松葉杖だろうか。少し唐突な感じがする。持ち主や埃の理由など、あとひとつ松葉杖の背景が分かると、物語に深みが増すのではないだろうか。

 

青緑碧湖上撥ねるモーターボート 野村

2点/選者=すみれ、鉄平

苦楽亭 評

上5湖の名前? それとも湖の水の色、なら大袈裟すぎる

風樹 評

深い青緑碧色の湖、鏡のように静かで波ひとつない。そんな湖上を一台のモーターボートが撥ねるように飛んで行く。一読その景がよく見えます。使われている言葉ひとつひとつが的確で、揺るぎない世界観を感じさせてくれました。もうそれだけで充分なのでしょうが、なんだか観光ポスターのような、味気ない、心ここにあらずというような気がしてなりませんでした。

稚女 評
ボートは夏の季語。青緑碧湖というのは現存のものだろうか?青、緑、碧の連なりでとても深いしかも透明感のある湖が目に浮かびましたが。その湖の上を撥ねるモーターボートを描いたもので、まるで、水面に浮上しているかのようなスピード感を跳ねると言う動詞で表現されたものと思いますが、作者はこの光景の何に感激されたのか、その感激を伝えて欲しい。

すみれ 評
「湖上撥ねる」でモーターボードが勢いよく進んで行く様子とスリルとスピード感が伝わる。「撥ねる」の表現がよい。「青緑碧湖上」は読みにくいが、「青緑」色の湖を表現したいと考えたのであろう。

十忽 評
青緑碧は「せいりょくへき」と読むのでしょうか。調べてみるとこの三文字はいずれも「みどり」を意味するとありました。できれば読みかたをすっきりさせた方がいいのではないかと思います。青緑(あおみどり)だけでも意味は充分伝わると思うのですが。中七下五の「湖上撥ねるモーターボート」には詩情を感じられませんでした。

鉄平 評
無季の句だが夏を想像させる季感がある。また景もよく見える。ただ767なのが気になった。例えば湖は具体的な地名などにするとして、ボート過ぎ青緑碧富士の湖 ではどうだろう。

智 評
色の美しさと躍動感とが伝わってくるが、字余りでリズムが損なわれている感じがした。

 

旱明け妻二の腕で米を研ぎ 鉄平

3点/選者=智、風樹、宮原

苦楽亭 評

この旱は天候の旱だと思うのだが、物不足の旱?上5と中7、下5がつながらない、旱をどう読めばいいのか?

風樹 評

毎日毎日妻はひたすら米を研ぐ。その手慣れた姿。そして二の腕のたくましさ。旱の時だろうがそのたくましさは変わらない。どのような旱なのだろうか、いずれにしても、何の変わりも無く二の腕で米を研ぐ。その時、これまで気付かなかった二の腕の力強さ。気付いて初めて作者は目を見張った。何事も無かったように、その二の腕は米を研いでいる。それに気付いたその瞬間から、景色はまったく違って見える。毎日毎日が一目で見える、ひたすらの力を見た。

稚女 評
旱は夏の季語。日照りとは旱魃のことで、最悪の状態では作物は枯死してしまう。しかし「旱明け」と言う言葉はあるのでしょうか?雨が降ることが日照りが解消したことになるはずで、明けると言う表現は的確でないように思いました。二の腕でコメを研ぐと言う表現は面白いですが……。

すみれ 評
「旱明け」と「米を研ぐ」の関係は?「旱田」は見るのも痛ましい風景である。「旱明け」でホットする作者。力を入れて安心して米を研ぐ妻。二人の笑顔が浮かぶ。「田んぼ」から「米」を連想したのだろう。

十忽 評
中七の「妻二の腕で」の代わりに何かもっとほかの言葉はなかったのでしょうか。自分でもつい使ってしまいそうですが、こうして他の人が使っている句を詠むと、自分の句にいつも指摘されている「何かもっとほかの……」という言い方に納得がいきます。

智 評
暑さの中、腕まくりしているから手より二の腕の動きが目に入ってくるのだろう。見ている夫の視線にも気づかず、一心不乱に米研ぎをしている情景が浮かぶ。

 

夏の果雲と虹との主権争い めんこ

1点/選者=与太郎

苦楽亭 評

そのままの句

風樹 評

夏の果とは何か。この句は雲と虹との主権争いの句なのだから、夏の果の立場はない。よけいなものがちょっと顔を出してきたのか。説明過多になってしまったのか。夏の日、雲と虹との主権争いをしている大空のドラマ、とても迫力があっておもしろい。どこまでもドラマチックに演出する夏の空も、こう見ると、なんだかうれしくなる。延々と続く暑い夏の日。一服の清涼剤となる。夏の空もいいもんだね。

稚女 評
季語は夏の果て。夏は雲の峰と呼ばれる積乱雲が巨大な塔や山の形を空に描く。この雲は夕方、雨を降らせることも多い。そして次に空には大きな虹がかかる。それを主権争いという言葉で表現されたのだと思いますが、争いなどという言葉を使わずにこの夏の自然の描くダイナミックな現象を詠んで欲しい。上五は「夏の果て」とカナの「て」を入れた方がいいと思いました。

すみれ 評
「夏の果」は夏の海山シーズンが去ることを惜しむ心を詠む季語。秋の空は高く大らか。主権を争っているのは雲と虹。擬人化した表現になっているが、虹は雲から降りてくる雨粒に太陽の光が当たる事で起きる現象。二つの関係は密接関係にあり、争わなくてもよいのでは?

十忽 評
下五の「主権争い」という語句に抵抗感がありました。意味としてはよく分かるのですが、俳句には主導権という語句は似合わないと思います。

鉄平 評
季語は「夏の果」と「虹」で季重なりの句。中七下五の発想は面白いが、主権争いと説明せずに主権争いしてるんだろうなと想像させてほしかった。「夏の果」はわざわざ季重なりするまで使う意味があったのだろうか。

智 評
擬人化せずに自然そのままで詠めたらよかったように思う。

 

茜色の真四角な風網戸から 苦楽亭

人4点/選者=稚女、風樹、みみず、野村

風樹 評

網戸を通して入る風を、その時真四角な風と感じた。しかもその時は茜色に染まっていた。作者の鋭敏な感性がよくあらわれている。夕刻の物寂しい茜色の風、そのまま人生の茜色ともいえる。長く生きてきたという実感か。思えば自分の人生もこの風のごとく、真四角に生きてきた。幾多の融通も夢も見てきた。こまごまの思い出もみんな真四角の風のように網戸越しに心に残ってきた、澱のようにしずかに沈んでいる。寂しいね、身震いするような寂しいこの一句。一句としては古い。この古さからなにか生まれないとかいが無いではないか。俳句やーいと句意を探して歩く、そんな姿が見えてしかたがない句。

稚女 評
無季。確かに秋近くなると冷気を伴った、四角と感じる風の訪れに心地よさを覚えます。この句の焦点は真四角な風でしょう。少々大げさながら灼熱の日々を過ごしてきた身には真四角と感じられる風を有り難いと感じます。しかし、上五の茜色のはこの真四角の風をもう一つ形容していることになるのですが、茜色は暗赤色とのこと、ここは夕陽を受けて茜色に映える雲にしたらどうでしょう。空に茜雲が広がり……。涼風が届く。

すみれ 評
秋の夕暮れの茜空。さわやかな風が網戸から入ってきて気持ちよさそう。「真四角な風」の表現は面白いが、「真四角の風」と表現したら、ルズム感がよいと思う。

十忽 評
網戸を通して風が入ってきた。その風は茜色で、網戸をくぐった時に四角になったと言っているだけで、詩情に欠けた句だと思います。

鉄平 評
季語は「網戸」。なんとなく言いたいことはイメージできるのだが、なにかごてごてしている。もっとすっきりと推敲できそうな気がする。

智 評
風の状態を表現するのに、やや説明的になり過ぎてしまった感じがした。

野村 評
茜色の夕景が、風と共に部屋に入り込んでくるような美しい情景を思い浮かべました。

 

台風や猫の寝息に励まされ 十忽

天7点/選者=大橋②、めんこ、みみず、すみれ、野村、与太郎

苦楽亭 評

そうですか、としか言いようがない、様子そのまま

風樹 評

猫が寝息をたてている状態は、よほど深い眠りに入っている時だ。この寝息をたてている猫の邪魔をしてはいけないと、台風も思わず遠慮して過ぎる。「お邪魔しますよ。ソーッと吹くからね」と言っているようなほほえましい景が浮かんできました。台風の配慮に、思わず笑顔がでてしまうような、うれしくなるような一句でした。

稚女 評
台風は秋の季語。今夏もいくつかの台風の襲来で沢山の方達が避難する様子が伝えられた。去年の台風の大きな被害から学んで今年はあまり大きな被害にならずに終わった。かって経験したことのないような風速と伝えられると不安感で一杯になる。そんな人間の思惑など知らずに我が家の猫は静かな寝息を立ててすでに夢の中だ。でもそんな猫の様子がとても安らぎになるのだ。励まされを言わずに猫の様子のみ伝えれば伝わってくるのだとおもいます。

すみれ 評
猫の寝息を真近に聞いたことがなく、実感が乏しいが、台風の中でひとりだと不安を感じる。しかし、そばに寝ている猫の寝息を感じるだけで心が安らぐ。「励まされ」で、猫に癒されている作者。猫(ペット)の存在は大きいと感じる。

鉄平 評
季語は「台風」。励まされと言ってしまっては詩にならない。励まされているんだろうなと想像させてほしい。

智 評
「や」で切るのであれば、中7下5は直接「台風」とつながらない表現がよいのではないかと感じた。

大橋 評
こんなにも呑気で自由な生き物を私も飼いたくなる句でした。

野村 評
人間の心配など何処吹く風と言わんばかりの猫のマイペースさが心強く、うらやましく思います。