俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第304回句会報告【兼題句/お題「稚」】

1月25日に行った第304回句会「兼題句」報告です。お題は「稚」。

 

走り終え笑顔稚なき箱根越え 稚女

2点/選者=智、めんこ

苦楽亭 評
箱根駅伝の句だろうが、解るのだが稚の文字が引っかかる。稚は幼い、あどけないなどのことだと思う。

すみれ 評
正月の箱根駅伝。自分の与えられた区間を必死で走り、襷を繋ぐ選手。走り終わった後、責任を果たし終えた安堵感が笑顔に変わった瞬間の句。

十忽 評
句の内容は理解できるのだが、あのきつい箱根越えと稚い笑顔の取り合わせが不釣り合いだと思いました。

鉄平 評
箱根駅伝だということを伝えようとしているので全てが説明になってしまっている。「稚なき」で笑顔は連想できるし、若者の駅伝といったら箱根駅伝ということも連想できるのではないか。このように推敲してみた。「駅伝や稚なき顔包(くるま)まるる」

智 評
箱根駅伝であろうか。まだまだ幼い顔のランナーが、走り切った後に見せる笑顔の眩しさが目に浮かんだ。何かをやり遂げた後の笑顔は誰でも邪気のないものになるのだろう。

 

山門や稚児の足どり朱の衣 与太郎

地4点/選者=十忽、すみれ、みみず、めんこ

苦楽亭 評
景は見えるし、可愛いのはわかる、手を引かれて山門をくぐってゆく、足どり、朱の衣 景を説明してしまったかな。

稚女 評
一読した時には花祭に参列するお稚児さんを詠んだ句かなと思ったけれど初詣に赤いベベを着て寺の山門をくぐってきた幼い子供を描いたのかもしれないと思い直した。親に手を引かれておぼつかない足どりの様子が見えてきたが、何を表現したかったのかが伝わってこない。

すみれ 評
門をくぐリ、親と一緒に寺院(神社)へ向かう七五三の女の子。朱色の着物でチョコチョコ歩く。洋服の時とは違う歩き方が目に留まった句。

十忽 評
山門とあるので、お寺のお稚児祭りを詠んだ句だろう。平坦な街中の稚児行列と異なり、山門までの急な石段を登って来たお稚児さんたちのおぼつかない足取りと、歩を進める度に揺れるきらびやかな装束。それらの情景がよく見える句だと思います。

鉄平 評
山門とあるのでこの稚児は単に小さな子供の事ではなく、寺の催しに参加する着飾った稚児だろう。きらびやかな朱の衣を纏った稚児が練り歩く。実際に見たことがないのだが、独特な足取りなのだろうか。また山門で寺を説明しているが、実際の祭りの名前でも良い気がした。足取りか衣どちらかに焦点を絞ってほしい。

智 評
稚児がまとっている朱色の衣の鮮やかさが、その足取りに沿って残像のように目に残っていく情景だろうか。山門をくぐり、その稚児はどこへ向かっていくのだろうか。そのまま帰ってこないのではないだろうか。そのような幻想的かつ妖しげな印象を受けた。

 

兼題の稚の句できず初句会 苦楽亭

2点/選者=奈津、与太郎

稚女 評
出句者として、また稚女の名前の一字なのでなんとか表現して欲しかったな~。このような句はどのように評価して良いのかわかりません。結果は「稚の句」をものにしているんですけどね。

すみれ 評
困惑している様子を詠んだ句。兼題って、考えますよね……。

十忽 評
句として成立していないように思います。

鉄平 評
この手の句を詠むにしても読者に対して、例えばユーモアなど何らかの感動が足りない。作者の日記ではなく詩にして欲しい。

智 評
「稚」は確かに熟語としても少なく、難しかった。色々調べてもなかなか句を生み出せなかったまま、句会に出るやるせなさが伝わってきた。

 

稚な子の反応薄きお年玉 十忽

2点/選者=苦楽亭、すみれ

苦楽亭 評
幼子だろうが、反応薄かろうが、お年玉をあげなければならないおじさんの身にもなれ。

稚女 評
これはきっと薄きお年玉のせいではなくこのお子ちゃまはまだお金を自分で使うことがなく、もしかしたら硬貨にはもっと高反応したかもしれないし、あるいはおもちゃなら声を上げて喜んだかもしれない。

すみれ 評
正月の風景。お年玉を貰っても、お金の価値が分からず 受け取る子もいる。時代の流れかなと思うが、お金に関して関心は持っているが、感動や有難うの気持ちは薄くなってきていると感じる作者。

鉄平 評
中七が説明だ。読者は答えを知りたいのではない。お年玉袋を覗いた稚な子はどんな表情をしたのか、どんな行動をとったのだろうか。

智 評
稚な子というからには、まだお金の価値が分からない年齢だろうか。渡した大人のがっかりした感じが伝わり、ユーモラスな印象。

 

行列の稚児の泣きだす半僧坊 すみれ

2点/選者=与太郎、鉄平

苦楽亭 評
景はわかる、この行列はお寺さんに向かっているのだろうな、下5は半僧坊半分俗人のこと。それとも、この行列が向かう坊のこと。

稚女 評
この句の下五の半僧坊は建長寺の鎮守であるとも、建長寺半僧坊という寺の名前であるとも、修行の一つで寺内で下働きをする僧という説もあったが、この句では建長寺半僧坊と解釈しました。上五、中七はよく見かける景で稚児がママの姿を見えず泣き出したのだろう。もう一つこの句を頂こうとするための魅力を感じませんでした。

十忽 評
お稚児さんの行列で、幼児がなく場面はよくあると思われますが、俳句としてはあまり捉えたくない一面のような気がしました。

鉄平 評
鎌倉遠足の園児たちだろうか。天狗姿の半僧坊像を見てその面妖に泣き出してしまった。恐ろしいものを見て泣き出す子どもは珍しくない。作者だけが発見した物や事を切り取って表現することが、詩になるのではないか。こんな様に推敲してみた。「稚児泣くや半僧坊の鼻の反り」

智 評
半僧坊に至る参道の行列の中、疲れて泣き出したのであろうか。それとも、天狗の像を怖がったのであろうか。その稚児をあやす大人の慌てぶりも目に浮かぶ。

 

風花や墓前で稚児は夢をみる 智

人3点/選者=みみず、与太郎、鉄平

苦楽亭 評
風花、墓前、稚児、夢、わからない。

稚女 評
みなさん『稚』の兼題にとても苦しんだようです。稚児を使った句が5句でした。稚児ゆえにやはり泣いたり、涙をこぼしたり足どりが覚束なかったりという句になっていました。この句では墓前で夢を見させています。風花のちらつく墓前で見る夢とは?と想像力を駆使しても思い浮かぶことがなく、しかもこの稚児は絶対の存在だろうかと考えると、稚児でなくても成り立ってしまうのではないかとも思えました。墓前で稚児の夢を見る……ならわかる気がします。

すみれ 評
正月にお墓まいりをする地方もある。お墓まいりをしている場面は想像できるが、「墓前で夢をみる」が理解出来なかった。

十忽 評
墓前で稚児が夢を見るという内容は俳句としていかがでしょうか。内容の奇抜さが俳句にそぐわないと思います。

鉄平 評
風花散る寒い日に家族で墓参りだろうか、法事かもしれない。母親に抱かれた稚児が眠っている風景と取れるが、それでは何か物足りないし、墓前である意味もあまり感じられない。この場合の稚児はある程度物心のついた子どもであろう。普段見ることのない父、母、親類の神妙な顔つき、そして寺という厳格な場所。風花の散る墓前で、稚児は夢ともうつつとも分からないものを感じた。それは少年へ成長する第一歩なのかもしれない。

 

風稚きゲイラカイトの目が必死 鉄平

天5点/選者=苦楽亭、奈津②、稚女、十忽

苦楽亭 評
上5が気になったが、風稚きという言い方はあるの、中7、下5の必死さが強く伝わってきた。

稚女 評
日本凧は知っていましたが、西洋凧がこのような名称であることは知りませんでした。飛び出した目が印象的なものもあるようです。最近は凧揚げや羽根付き風景を正月の風景として見ることは少なくなりました。この句の「風が稚い」という上五の表現がいい。子供や人間の表情の稚さを詠んだものはありましたが、風という自然の状態が稚いという捉え方がいい。そして飛び出した目が空中から必死に何かを見つめているような情景を想像するととても面白い。

すみれ 評
最近、凧揚げをする風景も見られなくなった。特徴のある大きな目のゲイラカイト。風が弱い為、青空にあがろうとする凧を擬人化した句。ゲイラカイトの目に焦点を当てたところが面白い。

十忽 評
西洋凧を揚げようとしても風が弱いためになかなか上しないところを詠んだ句。「ゲイラカイトの目が必死」が秀逸である。

智 評
確かに、あの目は何とか風に乗ろうと必死に目を見開いている感じ。なかなか風に乗れずに右往左往している様子が浮かんでくる。操っている人ではなく、ゲイラカイトに視点を当てたところも面白い。

 

眠る稚児涙ひとつぶ夢の中 みみず

人3点/選者=智、苦楽亭、めんこ

苦楽亭 評
いいなこうゆう句、物語がある。

稚女 評
眠りこけている幼子がぽろっと涙をこぼしたという句。子育て中に夢を見て寝ていた子供が急に泣き出すことはありました。そんな時は涙一粒どころか急にわ~っと声を出して泣き始めることだったように記憶しています。大人のように一粒の涙をポロリと落とすような、そしてまた眠り込むような様子に少し違和感を感じました。また「眠る」と「夢の中」という表現はツキすぎではないでしょうか?

すみれ 評
眠っている子どもの目から涙が落ちた。夢をみている中で……「涙ひとつぶ」から、どんな夢をみていたのか想像させてくれた。

十忽 評
ぐずり泣きしてそのまま寝入ってしまった幼児が夢の世界へ……俳味が足りないように思います。

鉄平 評
さっきまで泣いていた稚児が泣き疲れて眠ってしまったのだろうか。「眠る」と「夢の中」が重複しているのがとても気になる。全体的に説明的でもある。こんな様に推敲してみた。「眠る稚児涙の頬を緩ませむ」

智 評
眠っている幼子の目に浮かぶ涙を見て、いい夢をみていますようにと祈る父母の顔が浮かんできた。穏やかで優しい印象の句。

 

母の目に稚い日々今もまだ めんこ

地4点/選者=智、稚女、十忽、すみれ

苦楽亭 評
母親とは、子供が幾つになってもそうです、そうゆう意味では平凡。

稚女 評
一読して了解できる句でした。でも、子育て渦中では早く大きくな~れ、そして一度でもいいからゆっくりのんびり夕飯を食べさせてくれ~と願っていたものでした。それがあっという間にデカくなり反抗するようになり、いつしか同じ大人の仲間になり、そして乗り越えられたなと感じられるようになって初めてあいつらの幼い時は可愛かったと回想するのです。そうなると母もかなり古びてしまっています。しかし、母の引き出しにはいつも幼かったあいつらがいるのです。下五に違和感。

すみれ 評
正月に久し振りに帰省した子と母の会話を想像した。幼い頃のことを懐かしく話している風景。子どもは大人に成長しても、母親にとっては子ども。作者は母親に感謝しているのだろう。

十忽 評
母親には子供が幾つになっても一番かわいい頃の面影が忘れられないようである。幼いころのあどけなさはいつまでも脳裏に焼き付いているのだということを端的に表現した素直な句だと思います。

鉄平 評
作者には母の目に映った「稚い日々」が見えたのであろう。しかしその母を知らない読者には、作者がいくら映ったと言っても見えてこない。「今もまだ」も何が今もまだなのだろう。想像だが、作者が母の想いを発見したのは目からではないと思う。いま現在何かをしている母の姿から感じたのではないだろうか。その何かを表現して欲しかった。

智 評
母親から見れば、子供はいつまでたっても稚いままであり、それはいつまでも変わらないという句意だろうか。「今もまだ」というからには、母親が見ている子供もすでに大人になっているのだろう。子供の気恥ずかしさと、母の眼差しの暖かさが伝わってきた。

 

雑煮の椀にスイカの種を発見す 庵々

人3点/選者=稚女、みみず、鉄平

(席亭の字が下手だったので「稚」を「種と読み間違えた作者。カウントします)

苦楽亭 評
稚と雑を間違えた。雑です。

稚女 評
「稚」とでた兼題を「雑」と勘違いして出句したこの作者、本当に雑ですね。「稚」はよく「雅」と間違えとられるが、その場合は稚女は訂正しないで「まあ、いいか」と雅子を受け入れているが、雑子では血を見ることになるよ。まあ、正月らしく雑煮の句なのでいいか。しかしそのお椀の中にスイカの種があり、それを発見したという、これをよしとするか、なんと大袈裟なとするかで、この句の評価が決まるのではないかと思います。私?面白いとも感じるけれど。雑なかみさんが夏に食べたスイカの種を洗い落とさずにしまっておいたのかな?あるいはこの地方では雑煮にスイカの種も入れるのだろうか?発見する。。の表現からすれば常態ではないはず。

すみれ 評
椀の中にスイカの種を発見!? 不思議な雑煮。雑煮から、スイカの種の発想が面白い。

十忽 評
兼題句ではありませんが、俳句としても散文的すぎると思いました。

鉄平 評
なんの脈絡も無く面白い。雑煮からスイカの種が出てきた。作者は口に含んで噛んで気づいたのだろうか。その後の作者の訝しい表情や、隣人とのちぐはぐな会話も想像できる。下五の「発見す」は一見説明だが、実はこれが効いている。

智 評
雑煮の椀の中に季節外れのスイカの種。どこから入り込んだのか、というより、この季節どこにスイカの種があったのか。「発見」という言葉に、見つけたことの驚きとおかしさが含まれているように感じた。