俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第311回句会報告【自由句】

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10月17日に行った第311回句会「自由句」報告です。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

傘お化けにもなれずビニ傘の骨 稚女

地7点/選者=大橋②、宮原、風樹、すみれ、めんこ、鉄平

苦楽亭 評

ビニール傘の悲しい現実だろうな。和傘なら骨だけになってもお化けになれるのに、便利さの行き着く先、面白いと思ったが、表現としては平凡だと思う。

風樹 評

傘のお化けは漫画の絵にもあるとおり、とても傘本体に近い。まるで傘自体がすでにお化け化していると言えそうだ。時々、風の強かった日などに、ビニールだけが飛ばされて骨が捨てられている風景を見かける。傘は何の忍術もいらず、そのままでもうお化けなんですね。かつて、君に逢いにいかなくちゃ、傘がない、となげく歌が流行った。そんな歌手もすっかり歳を重ねて、みんなお化けになってしまった。昭和の時代そのものがお化けだったのでしょうか。令和の今はお化けの骨だけになってしまった、だからなぜかギスギスと音を立てている。今、お化けにもなれずギスギスと音をたてるだけの時代なってしまって、あっ!今も傘の骨が飛んでゆく。

すみれ 評
からかさ小僧は妖怪の一種で傘お化け。「傘お化けにもなれず」の表現がおもしろい句。大雨や強風で破れてしまい骨だけになってしまった傘は処分しなければならない。その前にひとつ変身して傘お化けにでもなりたかったのであろう。傘の気持ちになった作者である。

十忽 評
台風の時などよく傘がおちょこになります。この句はおちょこにもなれずにビニールが吹き飛ばされてしまい、骨だけになってしまった状態を詠んだ句と理解していいでしょう。無季の句だと思うのですが、強風が吹くときもありますから、これだけで台風シーズンの句と断定はできないように思います。しかし、おちょこになった傘を「傘お化け」と表現したことで詩情が感じられました。因みに、わたしの育った田舎では「てんこ傘」と言っていました。雨の日など、風もないのに無理やりてんこ傘にしてよく遊んだものです。

鉄平 評
無季の句。歩道の植え込みにビニール傘が骨だけの状態で捨てられていた。その安っぽい様と言ったらただのゴミ以外の何者でもない。もう少し品よく、そう、から傘お化けに見間違えられるぐらいにはなってほしいものだ。てな感じでしょうか。まず読みにくさがマイナスでした。「お化けにもなれずビニール傘の骨」ではどうでしょう。ただこの句にはビニール傘である必然性が感じられないので、もっと推敲して、句としては何かもうひとつ足りない気がしました。

智 評
なんでも簡単に捨ててしまう消費社会への批判だろうか。ユーモラスだが、俳句らしくはないと思った。

大橋 評
台風で壊れて駅前に捨てられたビニ傘を見ると傘の無念を感じます。とても共感いたしました。

宮原 評
唐笠、一つ目、一本足の傘お化けの容姿が共有されていた世代は遠くなりにけりけりだろうか。ビニ傘、しかも骨組みだけとなれば傘お化けのイメージはまた違うものになるだろう。

 

仮名文字の墨の匂いや秋の野に すみれ

人5点/選者=智、十忽、苦楽亭、めんこ、鉄平

苦楽亭 評

俳句らしい表現の句。目新しさはないが、何故かホットさせてくれる。句の流れに無理がないからだろうな。

風樹 評

流れるような仮名文字をさらさらと書いてゆく。その墨の匂いが秋の野にも通じているようだ。どうもこの作品、観念が過ぎるような気がしてならない。リアル感が薄く、世界観がみあたらない。俳句はウソを現実にしてしまう強烈な力をもっている。しかし、この句はその力があまり発揮されていないような気がする。頭の中に景が結びづらい。だから俳句が浮き立ってこない。どうも身に沁みてこないのが残念な一句のようだ。

稚女 評

季語は秋の野。墨で書かれたカナもじの美しさは書というより芸術作品と言っても過言ではない。神経を極限まで張り詰めて書き終えた作者は秋野の中で風に吹かれながらやり終えた満足感に浸っているのでしょう。というような解釈を致しましたが、墨は匂いではなく香りと表現してほしい。また下五の「に」が気になりました。

十忽 評
この句を詠んですぐに矢立てを思い浮かべました。仕込んである墨壺に水っ気がたりないときなど、筆先をちょっと舐めて使ったりするのですが、その時香ってくる墨の匂いまで鼻先をくすぐりました。吟行の句でしょうか。ただ、下五は「秋野原」と勝手に読み替えていただきました。

鉄平 評
季語は「秋の野」。秋の気配を感じられたので1点。しかしながらまだまだ推敲の余地があるように感じられました。

智 評
書いている文字からほのかに漂ってくる墨の匂い。ふと外を見ると、秋の野が広がっているのだろうか。内と外とを匂いがつなげている感じがうまく表現されていると思った。

 

二日酔いタイルも冷たい秋の朝 大橋

3点/選者=宮原②、鉄平

苦楽亭 評

どこの場所のタイルだ。コロナ騒ぎの昨今、二日酔い? タイル「も」だから冷たいのはタイルだけじゃないんだ。

風樹 評

二日酔いのせいでタイルもいつもと違って冷たく感じてしまう。そんな秋の朝。二日酔いの所為にして、一句詠んでしまいました。何故二日酔いになるまで呑んでしまったのか。誰の所為なのか、もしかしたら、自分に甘すぎないか。俳句は厳しいもので、そんなことまで浮き彫りにしてしまう文芸なんですね。あなたの都合や勝手を読者に理解して下さいと、それはひとまず、自分の中にとどめて、言葉を磨いて欲しいと思いました。

稚女 評

季語は「秋の朝」気になるのは、タイルもの「も」だ。するとタイル以外にも冷たいものがあるように読めてしまうのだが。それに、秋になれば朝方は二日酔いでなくてもタイルは冷たいのではなかろうか?

すみれ 評
二日酔いの朝。起きたときに肌寒さを感じるとともに、タイルの冷たさでより一層秋の寒さを感じたのであろう。「タイルも」で、空気の冷たさとタイルの冷たさを表現している。「冷たい」と言わず秋の朝を表現したらどうでしょうか?

十忽 評
泥酔して蒲団まで辿り着けずに、タイル張りの玄関で寝込んでしまった句なのか、朝起きて二日酔いを治すためにシヤーワーを浴びている風呂場のタイルの冷たさなのかよくわからない。中七に「タイルも……」とあるので、ほかにも冷たいものがあるように思ってしまいます。タイルだけに絞って、どのように冷たいかを詠んだほうが面白いかもしれませんね。

鉄平 評
季語は秋の朝。酔っ払ってトイレだから風呂だかで寝ちゃったのでしょうか。中七「タイルも」の「も」ですが、これは秋の朝にかかる「も」なのでしょうが、冷たい秋の朝にタイルも冷たいのは当たり前のことですので、その冷たさをどう表現するかではないでしょうか。

智 評
「冷たい」という直接的な表現ではなく、間接的な表現ができればよかったように思う。季語も「秋の朝」と直接的ではなく、秋の朝を感じさせる季語で表現できればよかったように思う。

宮原 評
身に覚えがありすぎて身につまされる。玄関先まで何がどうやらたどり着いたものの、倒れ込んで頬に感じるタイルの冷たさを感じながらそのまま力尽きた様子が目に浮かぶ。

 

雑踏の中アッ!裸足の天使だ 風樹

無点

苦楽亭 評

裸足? 裸の間違いじゃないの。何故雑踏、何故裸足、何故天使。景が想像できそうでできない。

稚女 評

無季の句。たくさんの人が行き交う中に作者は思わず「アツ」と声を上げてしまうような天使、それも裸の……に遭遇したわけだ。作者は何故それが裸足の天使だと分かったのだろうか?

すみれ 評

人ごみの中で見つけた裸足の天使。「裸足の天使」とは裸足の子どもと捉えた。裸足のまま人ごみの中を走り抜けていく男の子の様子に驚き、、とっさに「裸足の天使だ」と叫んだのであろうか?しかし、本当の「裸足の天使」とは何だろう。いろいろ感想させてくれる句ではあるが、句意を十分理解できなかった。

十忽 評

雑踏の中に芸能人のともさかりえを見つけたのでしょうか?調べてみると同じタイトルの漫画があって、テレビドラマではともさかりえが母親役を演じていたようです。 裸足の天使の意味するところが曖昧なので、漫画の話なのか、現実の世界の何かの比喩なのかはっきりしない。よちよち歩きの子供が裸足で歩いているのを見た句かなとも想像しました。それにしても俳句の中に、「アッ!」と入っていても斬新さが感じられないのは残念。

鉄平 評

無季の句。当句会で俳句は状況を説明するのではなく、「あっ!」と思った瞬間を表現するのだと教えられ共感したので、その教えを守ってきました。この句の場合ですが「アッ!」は言ってはいけません。これになんの効果もありません。一種の詩ではあるのかもしれませんが自分はこれを俳句だとは思えませんでした。

智 評
「裸足の天使」とは何かの比喩だろうか。うまく情景をつかめなかった。

 

病院の入り口検温そぞろ寒 十忽

2点/選者=みみず、風樹

苦楽亭 評

今時の病院の様子がわかる。季語が生きているけど、何か物足りない。その通りの句だからかな。

風樹 評

入り口で確実に区別しますよ。セーフの人は右側に入って進んで下さい。診察をお受けします。アウトの人は左に進んで下さい。コロナの疑いがありますので当病院で受け付けます。そんな病院の意志が明らかにされている。病院はいつでも、どんな時でも、たとえ真夜中でも、苦しむ人を受け入れてくれると思っていたが、実際区別される。リアルな現実。なんとも心の中にそぞろ寒の風が吹いていくようだ。作者はそんな病院の現実をさらりと俳句に仕立てた。思えば恐ろしい。人が苦しみをかかえて扉を開けようとすれば、否応なく右と左に区別される。

稚女 評

季語は「そぞろ寒」。コロナ社会下で目下はどこへ入る場合でもおでこに烙印を押されるような検温機を向けられる、病院の入り口なら尚更のことである。という当たり前の風景をそぞろ寒で表現されても、そうよね……としか答えられない。

すみれ 評

コロナ禍の中・検温、手の消毒は欠かせない。検温は緊張する一瞬であり、新しい日常生活となっている。検温される時の不安と秋の寒さが重なる句。

鉄平 評
季語は「そぞろ寒」。冷ややかよりもやや強く感じる寒さ。病院に限らず商店などでもよく見かけます。つまり当たり前の状況を説明してしまっている印象。そこには驚きや感動は感じられず、そぞろ寒もただ下五に置いただけに感じました。

智 評
病院に入るのに検温が必要なこのご時世。秋が深まっても先が見えない諦め感が「そぞろ寒」に込められていると感じた。

 

命ぬけ色なき風に葉うら蝉 苦楽亭

4点/選者=智、みみず、すみれ、野村

風樹 評

葉裏に止まって静かに命を亡くした一匹の蝉の定め。命がなくなると、透明になってしまうのか。その視線の残酷さ。季節の移り変わりの何と残酷なものなのか。花をおみやげに運んでくる季節の移ろいには、こうした残酷な一面さえかくれている。蝉は自分の運命を知り、静かに受け入れていく。寂しい一句です。とても淋しい一句です。静かに、浸っておりましょう。

稚女 評

季語はセミ。命終えることを「ぬけ」と表現されているが、これは下五の葉裏セミのことでしょうか?この夏の終わりに命を終えたセミが地面に転がっているのは見たが葉の裏について風に揺れているというセミを見ることはありませんでした。色なき風という表現も具体性がなく想像することができませんでした。セミの命の儚さを詠まれたのでしょうが「命ぬけ」の表現に儚さを感じられませんでした。

すみれ 評
季語の「色なき風」の使い方がよいと思う。色なき風は秋の風のこと。「色なき」とは。はなやかな色や艶のないこと。蝉の抜け殻が葉の裏をつかみ、風に揺れている風景を見かける。寂しい秋の風情を感じさせてくれる。

十忽 評
脱皮した蝉が葉裏にしがみついていて、風に揺れている様を詠んだ句と解釈しました。上五の「命ぬけ」や中七の「色なき風に」の表現が、気取りすぎのように思いました。もっと直截に言ったほうがイメージがより鮮明になると思いました。詩的な言葉のようでいて、断片的なイメージしか伝わってこなかった。

鉄平 評
季語は「蝉」で夏なので10月句会には季節外れ(句会で「色なき風」も季語だと判明」)。命ぬけは死んだ蝉のことなのでしょうか? それとも抜け殻でしょうか。色なき風とはどんな風でしょうか? 回りくどさだけが目立ち、実は簡素な言葉で成り立つような気がします。なんだかイメージできませんでした。

智 評
葉の裏に人知れず残された蝉の抜け殻に、命の残像を感じたのだろうか。「色なき風」という表現に寂寥感が増してくるが、その中に命への眼差しを感じた。

野村 評
抜け殻は成長の証でもあるはずだが、ここでは魂を死に向かわせる容れ物のようにも感じられた。

 

秋の蚊やシングルマザーの重き愛 与太郎

3点/選者=みみず、十忽、苦楽亭

苦楽亭 評

季語が生きている。秋の蚊の弱々しさと、シングルマザー、心もよう。重き愛を与えられている方は堪らないだろうな。でもよくわかる。

風樹 評

シングルマザーなんて英語で表現されると、なんだか片親の家庭も時代の最先端をゆく気持ちがするのでしょう。すっかり定着してきましたね、この言葉。秋の蚊になぞらえたところは新しい感覚なのでしょうか。ちゃんとお父さんのいる家庭は愛が重くないのでしょうか。秋の蚊に生物的な同情を持ったとして、それは偏見ではないでしょうか。母親の苦労は覚悟の上だったのでは?

稚女 評

季語「秋の蚊」秋の蚊という季語の持つ内容は夕方などまだ猛烈に刺すが流石に秋の蚊は数も減り弱々しい。ということだ。この猛烈だが弱々しいのがシングルマザーであるということだろうか?重き愛という下五はどのように解釈すべきなのだろうか?夫婦で育てるべき子供を一人の力で育てていくことを重いと表現しているのか守りが固く盲愛してしまうという愛なのか、秋の蚊の解釈によってこの句の解釈も違ってしまう。

すみれ 評
弱しい秋の蚊とひとりで頑張るシングルマザー。重き愛とは自分の子どもに対しての愛情なのか?「深き愛」ではなく「重き愛」。秋の蚊とシングルマザーとの関係がつかめなかった。

十忽 評
コロナ禍を想うとき、この秋の蚊とシングルマザーのイメージが通奏低音のように響きあって、何とも言えない空気を醸しだしている。この感覚はむなしさとか悲しさとか苦しさとかといった言葉では表現できない。下五の「重き愛」とも少し異なっている感情をなんと言ったらいいのだろう、と悩ませられました。

鉄平 評
季語は「秋の蚊」。秋の蚊なので句全体はうっすらしていて、音の静かな雰囲気なのでしょう。シングルマザーの重き愛は対比でしょうか。作者が片親で詠んだ句というよりは、シングルマザーを傍目で見て詠んだ句な気がする。そして作者は重き愛をうっとおしがっている感じがした。ただそれ以上の深みは感じられなかった。

智 評
秋の蚊の弱々しさと、シングルマザーの強すぎる想いとの対比は面白いと思った。「シングルマザー」という片仮名以外での表現ができればもっとよかったように思う。

 

社命どおりプチプチを巻く秋麗 鉄平

3点/選者=稚女、十忽、野村

苦楽亭 評

上6と中7がまず判りにくく、季語が合わない。

風樹 評

どうも景もなにも浮かばず、悩みました。言葉足らずなのか、こちらの頭が固いのか、手に負えませんでした。降参です。

稚女 評

季語は「秋麗」秋麗は秋高しに近い季語。秋晴れの麗かな好日、会社からの命令でプチプチを巻いている……というだけの句。さてさてプチプチとはなんだ!言葉の持つ印象はとても明るくて嫌々行っている行為ではなさそうだ。何に巻いているのか不明なところが帰って面白し、それが会社の命令であるということがより面白い。

すみれ 評
秋晴れのうららかな日。会社の命令どおり、もくもくと「気泡緩衝材」で梱包している姿が浮かぶ。社命どおりとは何か?

十忽 評
面白い句だと思いました。むしろ社命などどうでもよく、プチプチを巻いているだけで楽しくなり、秋のうららを満喫している句だと思いました。

智 評
麗らかな秋をしり目に、単純作業に携わる虚しさを表しているのだろうか。「プチプチ」という子供っぽい表現がやや気になった。

 

野村 評
穏やかで気持ちの良い秋晴れの中、室内で淡々と作業をこなす時間はとても平和だけれど、退屈な時間でもあると思った。

 

肌寒や古社の石碑を読み返し 智

3点/選者=大橋、めんこ、与太郎

苦楽亭 評

何が詠みたいのかわかりにくい、季語が合わない。

風樹 評

あんなに暑さに幻滅していた日々が、あっという間にすっかり秋めいて、すてに肌寒の季節。いつもの散歩道の古社にもちょっと立ち止まって石碑なんぞを読み返してみる朝があります。さあて、この作者はどんな俳句を見たのだろう。古社の由来に改めて感心してしまったのか。読者はここまで付いてきて、期待はすれど、俳句やーい。という観がしてしまいました。表現された言葉がどれもみんな俳句らしいのにね。

稚女 評

季語は「肌寒」。秋の季語にはやや寒む、そぞろ寒、肌寒、朝寒、夜寒、冷まじなど秋になって感じる寒さの表現が沢山あります。その中でこの肌寒には昼間の寒さを見に感じるようになり、雨降りの日などことに身にこたえるというような意味を含んだ季語という。それを踏まえてこの句を鑑賞すると古い神社の石碑を読み返している肌寒い日という内容だ。固有名詞で社を表現する夏あるいは石碑の内容の一部を材料にするならば、もう少し何を表現したかったのかが鮮明になると思いました。

すみれ 評
寒さを身に感じる季節。古い神社に建つ石碑を読み返している作者。記念して建てた碑は何を記念して建てられたのであろうか。作者の興味・関心を引く文だろう。歴史を学ぶ姿が浮かぶ。

十忽 評
肌寒、古社、石碑、と並んでいるだけで一層の寒さを覚えますが、ただ読み返しているだけで詩情が伝わってこなかった。

鉄平 評
季語は「肌寒」。定年後に俳句を始めた人の句というような印象でした。古社とまとめず、どんな石碑なのか、もっと石碑が見えてきたら「肌寒」と「読み返し」も生きてきて面白かったと思います。

大橋 評
秋の散策でしょうか、自分も最近旧街道を散策したので共感いたしました。

 

風鈴の砕け散る音曼珠沙華 めんこ

天9点/選者=智、稚女②、風樹、すみれ、野村、苦楽亭、与太郎

苦楽亭 評

何故風鈴が砕け散ったのだろう。暑い夏も終わり風鈴の仕事も終わって、自死? 奇妙に曼珠沙華がよく合う。

風樹 評

極限まで薄く薄く焼かれている江戸風鈴。だからこそあんなに澄んだ音で鳴るのでしょう。丸の中に景が描かれた、なんとも優しげな風鈴でしょうか。これが砕け散る音はどんなはかない音だったでしょうか。そのあと下五に曼珠沙華。砕け散った音を花で表した。よりリアルに読者の耳に響きわたったのです。今もまだその響きは耳に残っていますよ。俳句というのはすごいものですね。音を花で表す秘技。みごとだと思いました。

稚女 評

季語は「曼珠沙華」。風鈴も季語だがこちらは夏。この句は曼珠沙華の持っているイメージや形を風鈴が砕け散る……という表現で詠んだ句でしょう。しかし、作者は風鈴が砕け散るのを「音」で表した、それもいいと思うけど、音意外の表現方法はないだろうか?

すみれ 評
風鈴が砕け散るとは季節が変わったこと(夏から秋へ)を句に詠んでいる。砕け散る音で、音が秋になったことを知らせている秋のサイン。秋になると物音も敏感に感じられ、音の響きはしみじみと心を打つ。そして、秋を代表するまっ赤な「曼殊沙華」が咲き始める。「曼殊沙華」は赤色を現す梵語だと言う。秋の風情を感じさせてくれる句。

十忽 評
「風鈴の砕け散る音」が強く印象に残って、曼殊沙華とのバランスがしっくりしないように感じました。風鈴と曼殊沙華はいずれも季語だと思うのですが、季節的には曼殊沙華を季語として成立しなければならない句だと思いますが、風鈴の砕け散る音が強烈で、夏なのか秋なのか、どっちつかずの句になってしまったように思いました。

鉄平 評
季語は「風鈴」(夏)と「曼珠沙華」(秋)。最初読んだ印象は、季重ねと平坦な表現な句だなと思いましたが、砕け散る音を曼珠沙華で表現、また、風鈴が砕け、夏が終わり秋の移ろいを感じたという皆さんの句評を聞いて、なかなか良い句だなと思いました。ただ中七の「砕け散る音」の表現が説明過多な気がしました。

智 評
季重ねだが曼珠沙華に焦点が合っており、風鈴は脇役だろう。激しくも凛とした印象を受けた。

野村 評
ガラスが花開くように砕け散る様子が曼珠沙華の赤い花びらと重なって目に浮かんだ。