俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第301回句会報告【自由句】

10月26日に行った第301回句会「自由句」報告です。

 

雲割って中天に月巣を張る蜘蛛 庵々

人3点/選者=智②、稚女

苦楽亭 評

雲割ってが表現としては平凡、月巣を張る雲がいいだけに残念

風樹 評

雲・天・月・巣・蜘蛛。合計五つの名詞が、我も我もと一斉に名乗り出て声高に主張しています。まず、「雲割って」は説明なので見ないこととします。そうすると、真上の空に月が出ていて、蜘蛛が巣を作っているとの景。何度も読んだことのある風景で、ことのほか作者が強調するリアリティは無いのかも知れません。どこに巣を張っているのか明確に見えないので、この句を弱めてしまっている気もします。いっそのこと月に巣を張っていると、たのしいメルヘンの景が浮かびます。

稚女 評

上五、中七まではた行を多用してリズムのある表現になっていると思います。しかし下五との関連性が見えません。どのような景色をよみたかったのでしょう? 蜘蛛の巣というより、蜘蛛の囲をとうして中天に輝く月をみている図であるならばよくわかるのですが、中七までの表現がよくていただきました。

すみれ 評

雲の切れ間から見えた月。月の光を受けながら、蜘蛛が懸命に巣を張る情景でしょうか?上五の「雲割って」は、月と蜘蛛を詠むのなら無くても良いのかなと思う。が、作者は「雲」と「蜘蛛」を対比させた句を考えたのでしょうか?

与太郎

空を見ていたら、誰かが雲を割った。空の中央には月がある。その手前には巣を張りつつある蜘蛛がいる。目が回りそうだ。いそがしい。何を見たらいいのだろう。どこを見たらよいのだろう。視点が定まらない。雲を割ったのは誰なのだろうか。作者? 月? 蜘蛛(スパイダー)? 月が雲を割ったのだとしたら「中天に」の「に」が「の」でないとおかしい。蜘蛛だとしたら下五でも動作なのでまわりくどい。どうしても情景に集中ができない。

鉄平 評

材料の多さと言葉の並びが分かりづらく、推敲の余地ありと感じました。「名月の雲割って登る蜘蛛」などではいかがでしょうか。

智 評

雲の切れ間から輝く月に、蜘蛛の巣がきらきら輝いている情景が浮かぶ。幻想的な世界に誘ってくれる。

 

世界には何があるのと引退日 めんこ

人3点/選者=苦楽亭、鉄平、庵々

苦楽亭 評

俳句の面白さ、何もないよと言いたいけど、こう聞かれると、考えてしまう

風樹 評

「世界には何があるの」と捨て台詞を残して引退していきました。高邁な哲学のような、傲慢な脅しの台詞のような、誰にも答えられない問いは、いつだって無意味に沈んでいかざるを得ない言葉でしかありません。結局は引退日を迎えた主人公の世界観に過ぎません。どなたの引退をイメージしているのかわかりませんが、それもこの句を弱くしている原因ではないでしょうか。もしかしたら息子にバトンタッチされた前天皇陛下のこと?。何だかひどく痛ましい気持ちがしてしまいます。

稚女 評

誰がどのようなものから引退するのか読み取れず、この「世界」というのもとても漠然としていて解釈できん。引退するものによって、世界は大きさも深さも重さも違うはず、そのことを想像させるものが欲しい。

庵々 評

仕事一筋で生きてきた。仕事のことは誰にも負けないほど詳しく知っている。仕事を辞めるときがきた。そしてふっと思った。この世には何があるのだろうと。あるいはこの引退日は、この世からの引退ということか。世界には何があるのとつぶやく人生を考えさせられる。

すみれ 評

スポーツ選手の引退日を詠んだ句。スポーツの世界で活躍し、引退の日を迎えた選手。次はどんな世界で活躍するのだろう?晴れの清々しい引退日と次の世界へ向かう不安が見えてくる。

与太郎

なんと哀しいのだろう。長いキャリアの末に、何も発見できないなんて。本当に何も見つけられなかったの? どうして引退するの? なにをしてきたの? もしこれが自分のことなら哀しすぎる。他人のことなら、きっとそんなはずはない、と思ってしまう。

鉄平 評

ひと口に世界と言っても、地理としての世界があれば、仕事、趣味などの、いま自分が携わっているものの世界もあります。俳句の世界もそうですね。唐突に「世界には何があるの」と問われ、ドキッとしました。宙をつかみながらも、きっと何かがあると信じて人は歩きます。そんなとりとめのないイメージを下五の「引退日」で具象化しようとしたけど出来ていない感があります。下五でこの句のギアが具象と抽象のニュートラルに入ってしまったのが惜しかったです。

智 評

引退日とは、自分が過ごしてきた世界から全く知らない世界へ踏み出す日、ということだろうか。作者の期待と不安が感じられる。

 

修羅がゆく天地返しでほゝえみに 風樹

人3点/選者=十忽、庵々②

苦楽亭 評

修羅がゆく、(ゆく)をどう読むか、迷った句

稚女 評

修羅とは阿修羅のことで戦闘を好む鬼神と辞典にある。上五の修羅は天地を逆さまにひっくり返して微笑みに変えるために、そのためにどこかへ向かっていくという意味であろうか?

庵々 評

何に飢えているのか。何をそんなに緊張しているのか。常日頃には見せない目の緊張を見せ、修羅の場に立つ。目の前に鉄の棒が横たわっている。一気に飛び上がると天と地が反転する。くるりと身が翻って鉄棒の上に乗る。そしてニッコリ。鉄棒の逆上がりかでんぐり返りのことかと思うが、その表情がうかがえた。

すみれ 評

天地返しで「ほほえみに」変われるといいね…実感です。人生、生きて行く中でこんなことが本当に実現したらな…と考える。

与太郎

鬼の形相で畑を耕す農夫。彼が進む一歩ごとに、乾いた地面が掘り返される。そこにはしっとりと滋養に満ちた黒い土が広がる。これから育つ作物を、優しく見守る微笑みのような土だ。というイメージを、二日間かけて絞り出した。なんというか、戯画化した標語のようだ。比喩の為の比喩。修羅も天地返しも、微笑みも、なんなら「ゆく」も。すべて他人が発明した比喩だ。作者が見た具体的なものが何もない。それでは僕の心は何に揺れてよいのか、とっかかりにたどり着くまでに時間がかかりすぎて、その頃にはすっかり疲れてしまっているのです。

鉄平 評

農家の厳しさと喜びを詠んだのでしょうか。なにかリアリティが感じられず、都会ものが頭で想像して詠んだ句だなと思いました。

智 評

修羅とほほえみというギャップが印象的。天地返しということは、修羅は必死に働く農家の人の比喩だろうか。その人が一瞬垣間見せる笑顔を詠んだものなのだろうか。

 

令和元年十月五日の空唯青 苦楽亭

1点/選者=すみれ

風樹 評

新聞の大見出しのような、動かしがたい事実を突きつけられているような、なにか主張が隠れているような、言いしれぬ不安感を催します。ただ青いという空がちっとも見えてこないのは何故でしょうか。この句はあくまでも事実のみを俳句に詠みました。そこに作者の真実が見えてきたら、青空の深い奥行きが見えてきたのではないでしょうか。

稚女 評

作者のこの日の空は心を反映してただただ青く広がっていたのだろう。この秋は台風が次々にやってきてこのように喜びの声を上げたくなる日はとても少なかった。

すみれ 評

字あまりの句。10月5日の日を思い出すと、秋なのに真夏を思わせるような晴れた暑い日。下五の「空唯青」から、作者は秋の青空を詠んだのでしょう。先日、「朝日俳壇」にこんな句が掲載されていた。「すっきりと 秋くっきりと 空の青」「空唯青」とまとめたのがよい。

与太郎

ある国の暦で指定されたとある日に、空を唯青く感じた。だからなんだというのだろう。「唯青」い空なんて存在しない。あるとすれば、それは作者がそれ以外を見たくないからだろう。その心境に同情する余裕は、今の僕にはない。そして、そんな「唯青」の空は、その日以外にもきっとあるはずだ。それ以外を見なければよいのだから。

鉄平 評

令和元年十月六日の空唯赤、令和元年十月六日の空唯黄土、令和元年十月六日の空唯セルリアンブルー。いくらでもできてしまいます。作者にしか分からない青でした。

智 評

日にちを限定したところに、何か作者の意図があるのだろうか。爽やかな印象の中に、何となく無常感も感じられた。

 

うさぎ栖みゐるニッポンの月円 稚女

人3点/選者=すみれ、十忽、みみず

苦楽亭 評

句意としては平凡、あと1点あったらいただいた句

風樹 評

月には餅をつくうさぎが住むという、日本の古くからの言い伝えを何のてらいもなく、しごくまっとうに俳句に詠みました。確かに月がマドカの時でないとウサギは見えないのでしょう。そんな言い伝えを、なぜそのまま俳句にされたのか、その意図がつかみにくい。考えて、考えて、考えて、こうなった。作者には本当に月がそう見えたのですね。

すみれ 評

日本では昔から「月にうさぎがすんでいる」と言われてきた。カタカナ文字のニッポンから、異国の地で見た「月」を詠んだ句。見上げた月から日本を思い、作者は懐かしさを感じたのであろう。「ニッポンの月円」の表現がよい。中国から見上げた月を詠んだ、阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」を思い出す。

与太郎

「ニッポン」という空想の国には、うさぎというものが「栖みい」っている月というものがあって、それが「円」らしい。正直、何を言っているのか、僕にはよくわからない。空想だとしたら、どこかの国に似たようなことをいっている人がたくさんいるし、月というものが僕が見ている月だとしたら、それは本当に「円」なのだろうか? そもそも「栖みいる」などという日本語があるのだろうか。それは「ニッポン」語なのだろうか。残念ながらわからないことが多すぎる。

鉄平 評

月が円くてうさぎが住んでいることは、日本人であれば老若男女、大抵の人は知っているでしょう。そのことをそのまま詠んだ作者が何を伝えたかったのか、わかりませんでした。

智 評

日本では月に住むのはうさぎだが、海外ではバケツを運ぶ少女だったり、本を読む老婆だったり、ライオンだったりするらしい。あえて「ニッポン」としたところに、そういった差異を表そうとしたのだろうか。でも、やはり月に住むのはうさぎが似合うな、とあらためて思わせてもらった。

 

ひまわりの種の数列中心円 すみれ

天7点/選者=苦楽亭、智、風樹、稚女、めんこ②、鉄平

苦楽亭 評

小さな種がびっしり、まあるく膨らんで、あれは数列か

風樹 評

ひまわりの真ん中の丸いボールのような部分をじっと思い出しています。数学の先生が「ひまわりの種の数式」という講義をしているような。黒板にずらりと数式を書きながら、ひまわりの中心円に迫っていきます。いつの間にかひまわりの種が数字になって、分裂し、飛翔し、分解されていきます。ひまわりの種が、実は数式であったことを、強引に、暴力的に認識させられてしまいました。新宿の近くの高校に通っていた、あの男子校の黒い制服ばかりの教室の、まったく味気ない、砂を嚙むような3年間を思い出させてくれました。

稚女 評

ひまわりの花の中心には種ができて、これは食用にもなる。同心円を描いて列を作っている人間の技ではなく自然が作り出したこの数列の巧さに驚いてしまう。

与太郎

ひまわりの種が数列というもにになっているらしい。数列とはなんだろう。僕が覚えているものだとどうしてもイメージが合わないので、辞書を引いてみる。「ある一定の規則に従って並べられた数の列」とある。そうか、種が数字に見えるということか。そしてその世界には「中心円」というものが存在するらしい。それがなんなのかもよくわからない。辞書にも出ていない。正直僕の想像力はまったく追いつかない世界がそこにある。

鉄平 評

ひまわりの種が散らばっている様を数列と例えたのは面白かったです。ただ中心円はくどく感じました。

智 評

自然の中にある幾何学的なものの発見の驚きが感じられる。数列は苦手だったな、と思い出した。

 

泥団子眉間の奥に埋め込まれ 与太郎

地4点/選者=十忽、めんこ、鉄平、すみれ

苦楽亭 評

泥だんごがこれほど俳句の題材になるとは、中7、下5とどうしても繋がらない

風樹 評

柳橋句楽部の句会に何度か現れる「泥団子」。おんぶお化けか座敷童のように、たまに現れる。今度の泥団子は眉間の奥に埋め込まれているのです。脳髄の中心で息づく泥団子という事でしょうか。旺盛な批判精神、シニカルな視線、思い出したくない思い出の種、あるいは重篤な病い----なぜか重く、つらいイメージがつぎつぎに浮かんできます。

稚女 評

汚そうだし、痛そうだし、思わずごめんなさい。そんなもの眉間の奥にうめないで……と叫びそうになった。眉間の奥ならば、脳に近いはず、泥の団子とは何か得体の知らない悪の塊のようなものなのだろう。

すみれ 評

外遊びの定番と言えば泥遊び。そして、子どもたちの大好きな泥遊び。今、一番人気はピカピカの泥団子。下五の「埋め込まれ」の意味が十分理解できないが、子どもの頃に作った泥団子が「記憶」に残っていることを表現したのであろう。

鉄平 評

仏様の眉間の球は髪の毛でしたっけ。句は泥団子が眉間に埋め込まれたという。それも意図的に。「埋め込まれた」もの。それは当然マイクロチップです。SFによくある頭に埋め込まれるあれです。物語の序章。主人公は何者かに拉致され、体内にマイクロチップを埋め込まれてしまう。そのマイクロチップにはアルファベットで「doroーdango」と刻印されているのであった。なんとか逃げ出した主人公。果たして主人公の運命や如何に!

智 評

眉間に泥がついているのに気付かないほど夢中で泥団子を作っている子供の姿が浮かぶ。「埋め込まれ」という言葉に、夢中な感じがうまく表されていると感じた。

 

影延ばし夕日眺める案山子かな 智

人3点/選者=与太郎、稚女、みみず

苦楽亭 評

なんとものんびりした田園風景だ

風樹 評

まさに日本の秋そのもの。唄に歌われ、散文に記され、絵画の素材となり、何度も何度も再現されてきました。そして今、また-----確かに私たちの心の中でしみじみと生きており、折々に懐かしく思い出されるのです。またお会いしましたね。

稚女 評

夕日に向かっている案山子の影は後部に長く伸びているはずで当たり前のこと、わかりやすい句でいただいたのだが、畑で大活躍している案山子をもう少し違った角度から描いたら……と思いました。

すみれ 評

案山子は「嗅がし」が由来。昔はケモノの匂いを利用して動物を追い払っていたと言う。秋の日の夕暮れの風景。個性的な案山子が並ぶ案山子街道で、夕日を眺めている案山子。そろそろ、自分達の役割は終わりの季節。案山子さんご苦労様と言う意味が込められた句。

与太郎

案山子は背が低いことがコンプレックスだった。脚がないからだ。だから、一生懸命背伸びをした。でも背が伸びたかどうか、わからなかった。自分の姿を見ることができないからだ。だから、足元に見えている影を伸ばしてみようとおもった。これなら見えるからだ。頭をひっぱってみた。少し伸びたような気がしたが、埋まっている軸が少し浮いただけかも知れない。今度は地面を押さえてみた。なかなか頭をひっぱれない。残暑の日差しが厳しい中、汗だくになりながら挑戦し続けた。足元を押さえる。頭だけをひっぱる。その努力は、あるとき突然報われる。影がぐんぐん伸び始めたのだ。同時に、案山子の目は中空に伸び上がり、これまで稲穂しかなかった視界に、山の稜線が入ってきた。と思えば、山頂が見えた。あっという間に山の向こうの地平線まで見渡せるようになった。そして初めて、夕日というものを見た。これまで山の上の空が赤く染まるのは知っていた。あるいは昼間の白い太陽は知っていた。が、初めて地平線に沈む夕日というものを観ることができたのだ。真っ赤になって、今にも地面にその日を燃え移らせようとしている夕日。あらゆるものを飲み込むように巨大化しながら地球を飲み込もうとする夕日。案山子はもう思い残すことはない、このまま自分が刺さっている地面ごと、すべてを焼き尽くしてくれ、案山子はそう願った。

鉄平 評

この案山子は1719年生まれの案山子でしょうか。それとも2019年生まれの案山子でしょうか。この300年で、人は風景をどう変えたのでしょうか。

 

身に入むや記念樹の主死すを聞く 十忽

1点/選者=みみず

苦楽亭 評

句としての感想を述べる句ではないな、そっとしておこう

風樹 評

「記念樹の主死す」という心に沁みる想いの一句を、「身に入むや」と言ってしまいました。残念ですね。上五の一言でわざわざ俳句でなくしてしまいました。きっと作者は、そんな基本は先刻ご承知のはず、思わず気持ちが入り込んでしまったのかも知れません。身に入む感慨は、どうぞ読者におまかせください。

稚女 評

ざらしを心に風のしむ身かな……なる芭蕉の句がある。人の死は確かに身に沁むことではあるがあまりにもそのものズバリの表現になり却って悲しさややり切れなさが響いてこない。上五を変えることによってもっと心に響いてくる句になるはずです。

すみれ 評

現代は多死社会。上五の「身に入むや」は秋の冷たさが身にしむ。下五の「死すを聞く」で悲しみが身にしむ。上五と下五で、より一層寂しさが募って来る。記念樹は目的によって違うが、記念に植えた樹や何の記念日だったのか…知りたい。

与太郎

秋の涼しさが、体の隙間に入り込んでくるような、そんな日。公園を管理している管理人の元に、訃報が届けられる。毎日世話をしている目の前の樹を植えた本人のものだった。秋の風とともに、「無」が身体の中に忍びこんでくる。管理人は、生き甲斐を失ったような気がした。……だろうと思う。「身に入む」というのだから、身に入むのだろう。そりゃ人が死ねば響くものがあるはずだ。でも、その振動は、僕にまで届かない。それを届けるための何かが、そこには何もないのだ。

鉄平 評

季語は「身に入む」。秋の冷気やもの寂しさが身に深くしみるように感じること。下五と付き過ぎな気がしました。記念樹の想像の幅も広いので主の人物像がよく見えませんでした。

智 評

主は死んでいるのに、樹は生きている。樹は生きているのに、主は死んでいる。生と死のありように戸惑う心情が表れていると思った。

 

同じ名の競艇選手と秋あかね 鉄平

人3点/選者=苦楽亭、風樹、与太郎

苦楽亭 評

同名の選手が居たんだ、「世界には何があるのと引退日」と同じものを感じた、競艇選手と秋あかねか

風樹 評

赤とんぼと競艇選手の名前が同じなんですか。それだけのことなのに、なぜかボートが水面から空に舞い上がり、秋のとんぼとなってスーイスイ。読者もいっしょにスーイスイ。たった十七文字が、心楽しい短編映画に早変わり。どうやら忘れられない秋の一句になりそうです。競艇とトンボが何の関係もないのに、突然ぶつかり合って、おや、そうして見るとなんだかリズムが共通しているような、気がつかなかったのですが、つながっているような------俳句の妙といえるところでしょうか。

稚女 評

この同じというのは誰となのか作者となのか、あるいは秋あかねとなのか、全く解釈できず残念。

すみれ 評

同じ名とは自分の名前と同じなのか、秋あかねと言う名前なのか迷った。自分の名前と同じ選手と言うことで、親しみを覚え、応援したくなる。空を秋アカネが飛び、その下でボートが競い合う場面を想像した。秋アカネも作者も応援しているよ!ガンバレと言う句。

与太郎

「あきあかね」選手は、超低空飛行のトンボのように水面を走った。いや、飛んだのだ。時折卵を産むために水面に尻尾をつけ、また浮かび上がって飛び回る。並みの選手では追いつけるはずはない。彼は水面飛び世界の英雄なのだ。「あきあかね」選手。圧倒的な強さでゴールイン。優勝だ。彼が出走すれば、敵はいない。いつでも優勝だ。でも、彼の孤独は、誰にも理解することができない。一人で、トンボのように飛び去るだけだ。

智 評

同じ名前なのは作者とだろうか。競艇選手と秋あかねが「と」で繋がっているが、どういう関わりなのかうまく掴めず、やや唐突な印象がした。

 

萩の花こぼれ吹かれる音の秋 みみず

2点/選者=風樹、与太郎

苦楽亭 評

下5が言いたかったんだろうな、

風樹 評

ちょうどこの句を読ませていただいた時、バッハ「ゴルドベルク変奏曲」を、普段愛聴しているグレン・グールドの最終録音盤ではなく、たまたまリヒテルチェンバロ盤を聴いている時でした。萩の細かい花が風に吹かれて飛ぶ音が聞こえるようでした。バッハの音楽と俳句の言葉が共演し、萩の舞が目前に広がりました。バッハによる俳句、俳句によるバッハ。こんなひとときをもたらしてくれたこの句に感謝、感謝です。2019年10月17日曇り空の朝のことでした。

稚女 評

秋のかそけさを詠まれた句なのだろうが、萩の花がほろほろと溢れ、そして秋のかすかな風に吹かれ波打つ様子を詠んだ句は山ほどあり、最後の音の秋でよりかそ今朝を強調しようとしたのだろうけれど私も大好きな萩を違った視線で読んでほしい。

すみれ 評

風に吹かれ、萩の花が零れ落ちる風景の句。秋になると物音も敏感に感じられるので、零れ落ちる音・風の音も聞こえたのだろう。萩は秋を代表する花で、花の揺れる姿や散り零れる様子が愛されてきた。萩は秋の季語なので、下五の「音の秋」は秋ではなくて別の表現(言葉)がよいのではないかと考える。

与太郎

頬にかすかに風を感じる。ほんのりと肌寒い風。寒くはない。むしろ心地よい。風は、ともすれば見失ってしまいそうなぐらい、ささやかに吹いている。僕は一年で一番心地よい風を見失わないように目を閉じる。風は頬から耳に向けて吹いている。耳の産毛がそれを感知する。刹那、鼓膜が震動を捉える。とても小さくて軽いものが、ささやかに移動する音だ。それは僕の耳から入り、僕の中の細かいひだを慰撫するように流れていく。首筋から背中へ、そして肺へ。その瞬間今度は花が香りを捉える。萩だ。萩は僕の心ととにもにあり、僕を優しく肯定してくれる。そしてきっと、鼓舞してくれている。そのごくささやかな鼓舞を糧に生きていこうと思う。というわけで、「萩の花」を関知するのは最後の方がよい気がしました。「音の秋こぼれ吹かれる萩の花」秋を音で感じているようすが強調されるきがしました。個人的には「萩の花」という種明かしをしない方が好みですが。

鉄平 評

こぼれ萩はどのように吹かれて、どのような音がしたのでしょうか。何か言っているようで何も言ってない気がします。季重ねも効果的ではない季重ねでした。

智 評

「こぼれ」という表現が、秋の美しさと寂しさをうまく表していると感じた。