俳句結社 柳橋句楽部

師匠なし、添削なしの自由気ままな俳句の会です。メンバーおのおので句評をぶつけ合います。月1回、都内某所で開催(現在はコロナにつきビデオ句会が主)。会員12名。句評(句の感想)のカキコミお願いします! また、仲間を募集中。興味ある方はぜひご連絡ください。

第309回句会報告【自由句】

f:id:yanagibashiclub:20200818145256j:plain

8月15日に行った第309回句会「自由句」報告です。

今回もコロナの影響を鑑み、ビデオチャットで行いました。

 

 

七節の抓んで墜ちてまた草場 鉄平

2点/選者=智、宮原

苦楽亭 評

七節の「の」が気になった、「を」の方がいいのでは、抓んで「めば」の方がいいのでは句がぼんやりとしてしまったのではないかな。

稚女 評
辞書によれば「竹七節」とかいて「ななふし」と読ませている。葉に酷似していて、枝そのもののように擬態する。この句はその七節の行動のみの一句。つまんだのも落ちたのもこの虫のことだろう。枝に似せた格好をしてコナラやくまいちごの葉をたべるのだという、この句は実景を詠んだのだろうか?しかし、七節の姿は全く見えてことないのが残念だ。

すみれ 評
木の枝に擬態した姿が特徴の七節。体節を7つ持っているのではなく「七」は沢山という意味の七節。句会で「七節」が詠まれたのは初めてかな?「抓んで堕ちて」から、七節を捕まえて遊んでいる子どもの様子を想像。下五の「また草場」は七節が草場に戻って行ったと解釈してよいのか?

十忽 評
面白い句だと思いましたが、中七、下五の調子の良さが反って俳句から外れた「唄」になってしまっている。

与太郎
ナナフシの長い手が枝をつかんでのぼっていく。と、つまみ損ねて地面に落ちる。そこは元いた草場だった。その草場からまた枝をのぼっていかなければらならない。何度でも繰り返すその姿に、何やら身につまされるものを感じた。……というところだろうか。説明がまわりくどく、すっと心に響いてきませんでした。

智 評
七節と戯れる場面がうまく表されていると思う。リズムもいいと思った。

宮原 評
虫瞰から鳥瞰、そしてまた虫瞰に戻る虫の視点の移ろいが面白い。つまみ上げられた七節はもはやこれまでかと思っただろうか。草場に堕ちた時心底ホッとしただろうが、人間の戯れに付き合わされるのは七節にとってはいい迷惑だろう。

 

初蝉やペットボトルかちっと開ける みみず

3点/選者=智、稚女、鉄平

苦楽亭 評

ペットボトルをカチッと開けるはわかりやすいが、表現としては平凡。

稚女 評
今夏、初蝉を耳にしたのは7月の末であった、まだ梅雨は開けていなかったけれど、梅雨の晴れ間にミーンミーンと聞こえてきて、コロナ社会に翻弄されている毎日に自然を感じさせる声は嬉しかった。この作者も鬱陶しい梅雨から解放される日も近いと感じたに違いない。その喜びを中七、下五の表現で表されているのだろう。音を正しく表記するとかちっとかもしれないが、もっとインパクトを強めるならば「シュワッと開けたコーラ缶」なんていいのでは。かちっとのオノマトペには賛否があるだろう。

すみれ 評
梅雨が開けると一斉に蝉の鳴き声が聞こえてくる。ペットボトルをカチッと開けた時、タイミングよく蝉の鳴き声を聞いたのであろう。「ああ、夏が来た」と作者は感じた。「カチッ」は夏に入ったと言うサインであろう。

十忽 評
初ゼミとペットボトルを開ける音の取り合わせは珍しいのですが、俳味が感じられませんでした。最近、意表を突くような句が多いように感じられるように思うのですが、ついていけないなあというのが率直な感想です。

与太郎
今年初めて蝉の声を聴いた。暑い夏の始まりだ。ペットボトルを開けると、カチッといい音がした。まるで浮き浮きする心の響きのように。……「かちっ」がいいたかったのか「開ける」がいいたかったのかで、語順も削るべき要素も決まってくると思います。「かちっ」なら「開ける」なんていわなくてもいいと思います。字余りまでして。

鉄平 評
以前にも蟻でこの手の句はあったような気がする。いずれにしろ飴に群がる蟻ではよくある光景なので詩として弱く感じる。言葉で遊ぶならもっと大胆にとことん遊んでほしい。

智 評
初蝉の鳴き声は自然なもの、ペットボトルを開ける音は無機質なもの。それぞれの音が耳に伝わってくる情景が鮮やかに浮かんでくる。

 

蟻蟻蟻蟻蟻蟻飴ひとつ 稚女

3点/選者=めんこ、すみれ②

苦楽亭 評

表現の仕方としては平凡だと思う。

すみれ 評
「蟻」の漢字を繰り返し書くことで、蟻が黒山のように飴に群がっている光景が伝わる。繰り返す表現方法もよく、下五の「飴ひとつ」がすっきりとまとまっている。

十忽 評
ひとつの飴玉に無数の蟻がたかっている様子を句にしたのでしょうが、猛暑とコロナウイルスに脅かされている頭では俳句として楽しめません。

与太郎
蟻の行列がある。それを目で追っていくと、飴玉がひとつ落ちていた。……蟻の行列を視覚的にも表現しようとしたのだと思います。実際、絵本のような光景が目に浮かびましたが、技巧が走りすぎて、心を動かされるまでには至りませんでした。

鉄平 評
季語は「銀河」で天の川を指すそうだ。踏切に電車が通過し遮断機の桿がゆっくりと上がる。その刹那、夜空に銀河が現れた。最初から銀河は空にあったはずだが、作者は遮断桿が上がって初めて銀河に気づいた。つまり作者の心変わりを詠んでいる。しかし、作者だけが感じた発見を読者に現実と思わせるには「現れり」では弱く感じた。

智 評
沢山の蟻が一つの飴を運んでいる情景は浮かんでくるが、漢字の並ぶ硬さが少し強いような気がした。

 

遮断桿上がり銀河は現れり 智

3点/選者=稚女、十忽、風樹

苦楽亭 評

遮断機ではなく桿か。小さい踏切にはある、様子はよくわかる。あと一点あれば取りたかった。強いて取らなかった理由をあげれば、銀河現れりかな。

稚女 評
列車が通り過ぎ遮断機が上がるとなんと空いっぱいの銀河が広がっている、都会の踏切ではなく地方の灯火のほとんどない場所の遮断機を想像した。上五の桿は遮断機の方が一般的で想像もすぐにできるように思います。また、下五の現れりと具体的な表現よりも広がれりの方がよく見えるきがしますが。素敵な情景です。

すみれ 評
踏切で「遮断桿」の上がるのを待っている時の様子だろう。突然、「遮断桿」が上がると同時に気がついた。美しい銀河が大きく広がっていることに……。「銀河」ではなく、星座の名前を詠んでもよいのかと思った。

十忽 評
遮断桿は宇宙全体を臨むことができる大きな窓についたワイパーと解釈してみました。遮断桿が上がった瞬間に銀河が現れたというありきたりな鑑賞ですが……一点。

与太郎
夕暮れのひととき。一日の疲れを感じながら、踏切で立ち止まる。警報が鳴り止むと、条件反射のようにスマートフォンから目を上げる。上がっていく遮断かんが見えるところまでは日常の風景。さて、と息をひとつはいて正面を見ると、そこには銀河があった。無限の奥行きを持ち、無限の星々が浮かぶ、いまだ踏み入れたことのない世界だ。……現れた世界を「銀河」とするまではいいが、「現れり」と説明しないで、どんな銀河かをもっと描写してほしかった。「銀河」ではクリシェ(類型)でしかない。

鉄平 評
季語は「胡瓜」。誰かがちくわに胡瓜を詰めている。ひと通り詰め終わると、その人は真顔であった。後の真顔なので、胡瓜を詰めている最中は真顔ではなかったのだろう。楽しかったのか、それとも仏頂面で嫌々やっていたのか。どう解釈したものか。もう少し物語の背景を見せてほしい。

 

ちくわに胡瓜詰めたる後の真顔かな 宮原

地5点/選者=十忽、めんこ、苦楽亭、すみれ、与太郎

苦楽亭 評

下5の真顔でいただいた。物語の流れがある。日常の平凡さのなかで、小さな緊張がすぐには解れない。そんな様子が良かった。

稚女 評
ていうことはきゅうりを詰めている間は真顔ではなくどのような顔をしていたのだろう?解釈できませんでした。私も一品足りない時に作りますが、どんな顔で作っているのかはわかりません。

すみれ 評
「真顔かな」の表現がおもしろい。母親の料理の手伝いをする子供の姿が目に浮かぶ。竹輪に胡瓜を詰めるのは簡単そうに見えるが、胡瓜が上手く手に入らず苦労することもある。緊張しながら取り組んでいる子ども。全て詰め終わっても、真剣な顔つきの子どもが印象に残る。「飾り切り」にすると白とうす緑が美しい。

十忽 評
ちくわにキュウリを詰めた食べ物は地味ですが、酒のつまみとしては結構いけます。そのつまみを作っている過程の真面目さが下五の真顔なのでしょう。一貫した地味さと真面目さの裏には美味しいお酒が待っているのだろうなと想像させてくれるところがいい。

与太郎
人はふと、日常の中に不思議な表情を見せる。あるいは、人は、他人の日常の中に、不思議な表情を見つける。ごく親しい人間に、いまだかつて見たことのない顔を見つけることがある。空恐ろしいほどの「真顔」を。……日常の中に見えた違和感をとらえているのが良いと思います。が、見つけた表情を「真顔」というクリシェ(類型)で表現せず、もっと深く見つめて、錯視屋にとってどんな顔に見えたのか、を伝えてほしかったです。技法的には「あとの」が説明的に過ぎると思います。「つめたる」が過去なので不要。「ちくわに胡瓜詰めたる真顔かな」のほうが良いです。また、「かな」で無理矢理感動を誘わずに、本質(どんな顔に見えたのか)で、感動を伝えてほしかったです。

鉄平 評
季語は「胡瓜」。誰かがちくわに胡瓜を詰めている。ひと通り詰め終わると、その人は真顔であった。後の真顔なので、胡瓜を詰めている最中は真顔ではなかったのだろう。楽しかったのか、それとも仏頂面で嫌々やっていたのか。どう解釈したものか。もう少し物語の背景を見せてほしい。

智 評
ひと仕事終えて真顔になる瞬間。それがちくわに胡瓜を詰めるということとしたのは面白いと思ったが、破調になっているのが気になった。もう少し省略できる言葉を探してもよかったと思う。

野村 評
あああ

 

戸惑いの汽笛鉄路をにじませて 与太郎

1点/選者=みみず

苦楽亭 評

戸惑いの汽笛、鉄路って、喜びも悲しみも戸惑いも持っているものだろうが、しっくりこなかった。

稚女 評
無季の句。戸惑いの汽笛とは?鉄路に滲んだのはなんだろう? 解釈不能でした。コロナ社会の中で戸惑いながらgo to トラベル支援しようと汽車に乗ったけれど、鉄路は不可解な緊張感とそれに伴う、冷や汗を滲ませてしまっている。こんな解釈もしてみました。

すみれ 評
臨時の蒸気機関車に乗車すると景色の良い場所で汽笛を鳴らす。「戸惑いの汽笛」とは何に戸惑っているのだろう。汽笛を鳴らすタイミングに迷っていると感じた。汽笛の音が線路に伝わり、線路もその戸惑い汽笛をうっすらと感じている句と捉えた。十分句意を理解できなかった。

十忽 評
「戸惑いの汽笛」とはどんな汽笛なのでしょうか。作者がどんな汽笛かということを予め特定してしまっているように思います。またその下の「鉄路をにじませて」も同様に具体性を欠いたままに理解できるはずと、決めてかかっているようなニュアンスがあり、読者を混乱させているように思われます。

鉄平 評
無季の句。汽笛はなにに戸惑っているのだろう。鉄路が滲むとはどんな状態だろうか。よく分からなかった。

智 評
戸惑いの汽笛とはどんな汽笛だろうか。それを聞いた人の寂寥感が伝わり、寂しさの中に美しさも感じた。ただ、「戸惑いの」という直接的な表現ではなく、「戸惑い」を感じさせる別の表現ができればよかったように思う。

 

炎天下患者が十名立っており 風樹

3点/選者=稚女、鉄平、苦楽亭

苦楽亭 評

平凡な日常の不気味さ。加害者になりたくない、もちろん被害者にも。立っている人、すれ違う人、皆患者。

稚女 評
炎天は夏の季語。燃え立つような高い気温の中、患者が10名も立っているという。患者というのだからすでに何か病い得ている人たちなのだろう、そんな人たちが炎天下に立っているという、どこに、なぜという質問が出てくるが、この句の作者は目下の漠然としたコロナ社会の恐ろしさをこのような表現にしたのだろう。しかし、怖さが中途半端な気がするのは何故だろう?

すみれ 評
炎天下、室外で患者が立っている風景。検査の順番待ちだろうか?患者が何の目的で立っているのか、明確に把握できなかった。不思議な感じを覚える句 「炎天に巌の如き人なりしが」高浜虚子

十忽 評
炎天下に病人が立っているという状況をどのように解釈していいのかわかりません。その人数が十名だろうが一名だろうが、知りたいのはその先のことなのに、それに関する情報が皆無である。

与太郎
炎天下に病院の患者が十人立っていた。そうまでして病院に来る理由は何だろう。患者を炎天下に建たせる病院とは、いったいなんなのだろう。というところでしょうか。今ひとつ心が動きませんでした。

鉄平 評
季語は「炎天」。今の時期で想像できるのはコロナ患者か。炎天下に立つ患者たちは不気味で、渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」を連想しなくもないが、なぜだかそこまでのインパクトはない。どちらかというと病み系アニメの表現方法のようなどこかで見たような印象だ。

智 評
うだるような暑さ、その中での患者の苦しみ、苛立ちは伝わってくるが、それ以上の広がりを感じることができなかった。

 

簾より細い横風雨上がり 苦楽亭

天6点/選者=智、十忽、宮原、めんこ、風樹、野村

稚女 評
この「より」は「から」と解釈しました。比較の「より」ではないですね。細いは「ほそい」でいいのでしょうか?細かいだと、八音になります。句意は雨が上がって微かな横風が簾をとうして吹き込んできたという気持ちの良い句でしょう。しかし細い横風の表記はあまり涼風を感じさせてくれません。微かな風の動きの方が甘露を得るのではないでしょうか

すみれ 評
雨上がりに、編んだ簾を通して吹いてくる風を横風と詠んだ。簾を通して吹く風は涼しく感じられるのだろう。細い風とはやさしい風と捉えてもよいのか? 雨上がりの風に気持ちよさを感じさせてくれる句「ほうほうと雨ふきこむや青簾」正岡子規

十忽 評
簾を掛けていても横風が通ってくる。その風を簾より細いと形容した時点でこの句は成功していると思う。しかも雨上がりの風だからさぞ涼しいことだろうと思わせるところもいい。

与太郎
すだれの細かい目の隙間を縫って、雨上がりの風が通ってくる。そのありがたさよ。……「横風」がよくわかりませんでした。また、「すだれを通る風」と【描写】すれば良いところをわざわざ「より細い」と【説明】しなければならなかった理由は何でしょうか? よくわかりませんでした。

鉄平 評
季語は「簾」。雨上がりに簾から吹く風を発見した作者。簾の形状を考えると簾から吹く風が細い横風なのは想像でき、「簾より風」だけでも細い横風は感じられるだろう。つまり「細い横風」と説明してしまった。もう一歩踏み込んだ観察、表現が必要に感じられた。

智 評
雨上がりにやってくる夏の風。その風が簾を通り抜けるときに分かれて細く感じられる。情景がよく浮かび、自分もその風を感じている気分になった。

宮原 評
雨上がり、簾はほとんど動いていないのに、確かに心地よい風を感じる。「横風」という言葉が効いていると思った。風が水平に吹けば簾をはためかせることなく細い隙間も通り抜けることができるのではないだろうか。なぜか薄く桂剝きにされた無数の大根が簾の隙間から次々と入ってくるところをイメージしてしまった。

野村 評
横のラインが強調されることで、鋭く強い風が吹き付ける勢いが目に浮かぶようでした。

 

杯重ね老親ゆるむ涼の宴 野村

1点/選者=苦楽亭

苦楽亭 評

今の時期、こういう句ほっとする。とてもいい景でゆるむがいい。親孝行なやつだ。

稚女 評
今夏はコロナの影響で老親との宴も不可の方が多いようです。この句も季語のない作品。句意は一読でよくわかるのですが、中七の老親ゆるむの表現がはっきりしません。『ゆるむ』とは酔った状態でしょうか? 「涼の宴」の情景をもう少し明確に見させて欲しい。

すみれ 評
久し振りに年老いた親と酒を飲み交していると、お互いのこころが緩み通じ合う。下五の「涼の宴」からは川床料理や納涼船を思う。涼しい料理に心和む時間を過ごしている親子の姿が見えてくる。「老親ゆるむ」の「ゆるむ」の表現が気にかかる。

十忽 評
この句は情報が多く、説明過多になっている。俳句というより散文に近いと思います。「杯重ね」は何杯もお酒を飲みましたということであり、「老親ゆるむ」は年老いた親がお酒を飲んでリラックスしていることであり、「涼の宴」は涼しい場所で宴会を催していることである。この三つの事実を繋げただけの文章になっている。酒を飲んだ年老いた親がどういう状態に見えたのか、または感じたのかといった情報があった方が読者の想像力を刺激すると思うのだが。

与太郎
酒を酌み交わしていくと、かつてわだかまりのあった老親との関係もなんとなく和んだ。ああ、涼を取る宴だなぁ。……というところでしょうか。何か一度、もっと平易な言葉で普通に詠んでみるのが良い気がします。すると、ごく当たり前のことしか言っていないと言うことに気がつくのではないでしょうか。雰囲気のある言葉を選ぶことが作句ではなく、何に感動したかを突き詰めることが作句なのではないでしょうか?

鉄平 評
季語は「涼」。久しぶりに親と酒を酌み交わしている風景だろうか。杯を重ねて緩むのは笑顔か、姿勢かそれとも心か。ちょっと材料が多い気がする。例えば「宴」とあれば酒を飲んでいる光景は想像できるので上五は無くてもいいかもしれない。親が老いて好々爺になっただけでは、誰もが共感は出来るが、読者の心を動かすには弱いので、なにか作者だけだ知るオリジナリティがほしい。例えば句の善し悪しは別として、「老親よ涙を拭けよ涼の宴」または「老親の涙を隠す涼の宴」とすると、親子で宴のシーンだということが分かり、老いによって簡単に涙する親とそれに照れつつも、昔は涙など見せなかったのにと感じている子の様子など、物語や背景がもう少し鮮明に浮かぶのではないか。

智 評
杯が重なる毎に緩やかな気持ちになっていくのだろう。「老親ゆるむ」という表現に親に対する暖かい眼差しが感じられた。「宴」で「杯重ね」るのは当然と言えば当然で、他の表現ができればもっといいと思った。

 

行く人のくしゃみ一発百日紅 十忽

人4点/選者=みみず、宮原、野村、与太郎

苦楽亭 評

今の時期、余計な心配をしなければならない。せっかく百日紅などという素敵な花下5に追ってきたのに。

稚女 評
上五はどこの誰をどの角度から見て、『行く人』にされたのでしょう? この五文字で単純に行く人と表記された人ではない人物を描くと中七、下五がもっと生きてくるのではないかと思います。くしゃみ一発……というのですから、年配の男性かとも思いますが、これを妙齢な夫人の行為にするとおかしみが出てくるのでは……。なるほど百日紅はくしゃみ一発を感じさせるとも思いますが。

すみれ 評
道行く人の大きなくしゃみ。現在はコロナの影響でくしゃみは禁物。くしゃみをしたところに、偶然、百日紅が咲いていた情景と百日紅との関係が結べなかった。

与太郎
前を行く人が突然くしゃみを一発かました。それはあまりにも鮮やかな「一発」のくしゃみだった。百日紅のつるりとした枝と、鮮やかな花があまりにも似合う、見事な「一発」くしゃみ! ……カ行とサ行の組み合わせによる五感も良いし、切れ味もある。一と百が読み込まれているのも良かったです。

鉄平 評
季語は冬の「くしゃみ」と夏の「百日紅」。季重なりだが、このくしゃみはコロナを題材にしたくしゃみだろうから、夏の「百日紅」のみが季語だろう。行く人は誰なのか、作者にとってどんな関係の人なのか、景がはっきりしないので句が弱い。なので季語の百日紅も効果が薄く感じる。

智 評
リズム感、勢いのある句だが、そこからの情景の広がりがつかめなかった。

宮原 評
道ゆく人のくしゃみに驚いてに百日紅から本当に猿が滑った! 実際にはその光景を目にしたわけではないだろうが、驚くほど大きなくしゃみが聞こえて思わず振り向くとそのくしゃみをした人の傍らに百日紅が咲いていた。それを見た作者の頭の中では確かに猿が滑り落ちそうになったのが見えたのではないかと思う。

野村 評
百日紅のの鮮やかなピンクとくしゃみの対比が爽快でした。

 

かき氷調子外れのチャイム待ち めんこ

地5点/選者=みみず、鉄平、風樹、野村、与太郎

苦楽亭 評

この句はかき氷を食べている時の頭痛の句かな、いきなりどかーんとくる、「待ち」だから違うのかな。

稚女 評
いくつかこの情景を想像することができます。チャイムを待っている、しかも調子の外れたものであるらしい、まずチャイムとは玄関や時計また、学校や会社で時を知らせるための鐘、そのチャイムの音階が調子外れになっているらしい。学校の終わりのチャイムを聞いて、あの餡蜜やのかき氷をたべることを友人同士で約束ができているのかもしれない。早くならないかな~と、チャイムを待ち、「調子外れのチャイム鳴りかき氷」にした方が情景が見えてくるようにも思います。

すみれ 評
暑い日に食べるかき氷は特別美味しい。「かき氷」と「チャイム待ち」の関係が理解できなかった。故障したり、暑さで狂ってしまったチャイムなのだろうか。作者にとっては、早く終わって欲しいチャイム(講義)の音を待っている状況なのだろう。

十忽 評
かき氷と調子外れのチャイムの関係がよくわからない。なぜチャイムを待っているのかと考えるだけで汗だくになってしまいます。待っている間にかき氷は溶けてしまわないのだろうかと心配にもなりますし、待っているチャイムが調子外れだとなぜわかるのだろうかという点も気になるし、頭の中はクエスチョンでいっぱいです。この句は意味が通じないという点で、文章としても未完ですし、俳味が感じられないという点において俳句にもなっていないように思われます。

与太郎
目の前にはできあがったばかりのかき氷がある。これが溶けるまでにあの人は来るだろうか。玄関のチャイムをいつも「調子外れ」に鳴らす、あの人。(他の人が押せば、普通に鳴る)。もちろん時間どおりになんて来ることはない。なにせあの人だから。……愛おしさを感じる良い句だと思いました。

鉄平 評
季語は「かき氷」。かき氷を食べていると、来訪を知らせるチャイムが鳴る。接触不良により音がたわんでいる。なんとなく来訪者はチャイムと同時にずかずかと入ってくる良く見知った人なのではないだろうか。そして夏の日の午後という独特な空気感が調子外れの音によって感じられる。ただ、最後の「待ち」がわからない。なので「待ち」は無視して一点。

智 評
この句から浮かぶ場面を色々と考えてみたが、どれもしっくりとこず、もやもやした感じだった。読者に色々と想像させるという意味では面白いのかも。

野村 評
過ぎ去った眩しい夏を思い出しました。

 

赤い花いよいよ赤く大暑の日 すみれ

無点

苦楽亭 評

毎日が40度近い暑さなのに、大暑だし、花はいよいよ赤いし、もういいよという句。

稚女 評
夏に大きく赤い花を咲かせる花は?仏桑花「むくげ」はすこぶる大きくて真っ赤な花を開く。下五に季語の「大暑」があるので、「むくげ」にすると季重なりになるのですが、花を表現するに何の花かの明記がないとその赤への想像力を働かせられないのです。作者はその見事に赤い花に心をうごかされたのですから。また、下五の大暑の日は大暑のみでその日を表せるので、「の日』の二語を使用してもう少し表現の幅を広げられるのではとも思いました。

十忽 評
真っ赤に燃える……という歌謡曲を思い出しました。イメージの選択が安易だと思います。

与太郎
大暑の日には、赤い花がいよいよ赤く感じられるものだ。ということでしょうか。……作者らしい発見が見えませんでした。赤い花を具体的にしてみるのも手だと思いますが、それでもありきたりな気がします。「いよいよの赤」をもっと見つめて、そこに何が見えるかを教えてほしかったです。

鉄平 評
季語は「大暑」。ひとくちに赤い花と言っても夏に咲く赤い花はアマリリスやハイビスカスなどいくつかあるようだ。赤は暖色。赤い花が暑さによってますます赤く感じるのは誰もが感じることなので、作者の発見としては弱い。作者が大暑によってどのような赤に見えたのかが知りたい。

智 評
激しく、勢いを感じさせるが、赤、赤、暑、と重なっているのがやや重たいように思った。